第十一話 まだ見ぬ明日
――突き出された一本の腕。
「……ッ……‼」
砂の盾の間を突き、心臓を穿ち抜く構えでいた虎爪。背筋の凍る理解と共に、ファビオはたたらを踏んで凶器との距離を取る。背骨の真横を突き刺すような痛み――。
「……やるな」
血肉を浅く抉り取った右手の指先を、微かにこもった含み笑いが伝う。ファビオを庇うように出現した砂の彫像が、胸部を貫く男の上腕を万力の如く締め上げていた。
「身動きが取れん。隠し玉と言うわけか」
……ッやられた。
忸怩たる思いがファビオの口元を苦く歪める。防いだ致命傷、初となる捕縛。
有利となるはずの要素が揃ってなお、窮地に立たされているのはファビオの方だった。術者の身に致命的な危険が及ぶことで発動する【緊急術式】。
備えておいたのは【砂の守護者】。高密度の魔力を編み込まれた砂の人形が、術者へ及ぶ危険を肩代わりし、可能であれば標的の捕縛と反撃までをこなす。攻防一体にして逆転の手立てとなるはずの術法だが――。
……魔力が残っていない。
男の突進を止めるために必要とされた魔力量が、術式に設定された許容量を上回った。瞬間的なオーバーフローによる術式の過剰作動。
意図しない量の魔力を徴収されたことで、半分は残していたはずの魔力が枯渇し、術式の機能が中断してしまっている。行使された先の技法……。
――『秘跡』。
魔術とは異なる原理、信仰と神秘を糧として作用する聖教の御業。信仰の源たる聖典の一節を唱えることにより発動する。
肉体に神秘の加護を授ける【強化の聖節詠唱】が、男の化け物染みた身体能力に更なる飛躍を遂げさせたのだ。十メートルに渡る流砂帯を一足で飛び越え。
着地の足を砂に取られてなお、【砂の守護者】に破綻を起こさせる突進力。風圧に耐え兼ねたローブは千切れ飛び、清貧を旨とする麻の聖職衣が顕わにされている。不可解だった敵方の正体を掴みながらも、ファビオの脳裏には収まらない困惑があった。……なぜ。
なぜ、信仰の離反者が自分を襲う? 組織による離反者は主として、所属していた組織の手によって処断される。
沽券のほか、情報の漏洩を恐れるなら当然のこと。裏切り者であるこの男が敵対しているとすれば、それは魔導協会ではなく、積極的に自らの処理を狙う古巣に他ならない。離反してなお収まらない信仰への妄執。
だとしても説明が付けられない。世界最大の宗教勢力を母体とするかの組織は、魔導を異端として排斥してきた歴史がある。
現在平時においては秩序の担い手として同じ側に属するとはいえ、本来的にその理念は対立するもの。構成員が触れられる魔術の知識は著しく制限されるはずである。信仰の徒であったはずの男がどこで、古典の術法を――。
「……ッ」
――一瞬。
一瞬だけ、ファビオの脳裏に情景が浮かび上がる。思い描いていた未来の自分。
支部の仲間たちと栄光を掴み取り、肩を抱いて笑い合っている姿。目をそむけたくなるほど眩しい。叶うはずだった夢――。
――ッ‼
続いていたはずの幻を断ち切って、ファビオは詠唱を紡ぎ起こす。――支部長ファビオ・グスティーノはここで終わる。
だとしても、ただ道を空けて終わるわけにはいかない。不完全な行使に終わらされたとはいえ、【砂の守護者】の捕縛は生きている。
魔人の如き剛脚を持つ男を、今この瞬間だけは捉えることができる。枯渇を超えて魔力を絞り出す神経に、内側から千々に引き裂かれるような激痛が走る。支配級の才能を持つ者として体感したことのない苦痛。
――ッだとしても。
――【砂剣構築】ッッ‼‼
生きて明日を見る仲間たちのためにできることがあるとすれば、それは今この瞬間をおいて他にないのだ。苦痛の中で紡がれた誤謬のない術式が、最期にして最善の一手を作り出す。
精神を削って注ぎ込めた魔力はこれまでの水準の一割にも満たない。持続は一瞬。蜻蛉のように潰える魔術だが、それでいい。
【最高硬質】、【瞬間加速】。持てる知識と技量の全てを動員した命令式により、ただその一瞬にだけ過去最高の強度を持たせた。股下から頭蓋まで振り抜く渾身の一振り。
標的を通過する瞬間にだけ現れる砂の剣は、鍛え抜かれた肉体を熱された蝋の如く泣き別れにするだろう。男が捕縛を抜ける気配はない。もう一人の技能者にも動きはない。達成感と共に脳を襲う痛みに、耐え切れず目を細めた。
――ファビオの瞳に映されたのは、風に舞う砂剣の残骸。
「――ッ」
術式から解かれた細砂が大気を飛ばされていく。周囲に散る微かな炎の揺らぎを理解した直後、ぐしゃりとした感触が胸に響く。出会い頭に強く押されたような。
「……かふっ」
慣れない感覚に二、三歩後退する。目の前にいる……。
あの男。持ち上げられた口角。胸元に穴の開いた砂の彫像が形を失っていく中で、己の胸板に押し当てられていた手のひらの残心をファビオは目にする。焼けるような熱。
「か……は……ッ」
息ができない。肺の中身が焦がし尽くされたような息苦しさに連れて、重く濁った液体が喉を競り上がってくる。抵抗もできないまま、口元から零れていく何か……。
……なぜ。
ゆっくりと下ろすことになったファビオの視線に、砂地を染め上げる鮮やかな血の色がこびりつく。解けることのない疑問を浮かべたまま、酸素を失った人間の身体が、膝から地に崩れ落ちた。
「――流石ですね」
支部長の絶命を見て取って、静観に徹していた青年が声を発する。ローブの裾を砂地の上に揺らめかせつつ、死体を見下ろす男へと近づいていく。
「経験の浅い若手とは言え、支部長に選ばれる魔術師を相手にしないとは。同志でいられる幸運に、改めて胸を撫で下ろしますよ」
「――世辞が過ぎるな」
明朗な、しかし重みのある声が答える。白い薄手の麻で編まれた簡素な生地。
「この男の腕前は中々だった。荒削りな部分はあったが、センスも反応もそれなりだ。五、六年すれば一波乱あったかもしれん」
「謙遜を。特例とは言え、使徒の一端に名を連ねた貴方です。若手の支部長ではひとたまりもない」
苦難に色素を削り落とされたような白い長髪。聖職衣の袖口から、鍛錬に年月を費やした証となる、無駄を削ぎ落とした筋肉質の前腕が覗いている。死体の傍に片膝を突く所作を尻目に、フードを被ったままの青年が肩を竦める。
「属性の相性で不利だった上、手札もほとんど使っていないんですから。赤子の手をひねる様なものだったんでしょう?」
「自分であったなら違うのに、と言うわけか?」
「……それを言われると困りますね」
死体の上に手を翳した男の隣で、きまり悪そうに苦笑する。膜のような炎が男の手のひらから湧き起こると、ファビオの死体を隈なく包み込んだ。
「支部長よりはマシな戦いをするでしょうがね。アデルさんを相手に勝ち切る自信は、今の僕にもありませんよ」
「弱気だな。あれだけの技法をものにしたからには、もう少し威勢のいい答えが得られると思ったが」
「力のほどを弁えているだけですよ。――安心してください」
――死肉から炭。
「同志として、やるべきことは果たします。皆さんの割り振りを多くしてしまって、申し訳ないと思いますが」
「仕方のないことだろう。お前の立場では、何かと動き辛い」
炭から灰へ。痕跡の残る原型を留めなくなったことを確認して、加えられていた炎が止まる。灰色の煙が一筋、晴れ渡る空に昇っていくのを目にして、男が立ち上がった。
「身動きが取れるようになるまで、目立つことは控えるべきだ。ヴェイグの仕掛けが首尾よく終えられるまでな」
「……十字は切らないんですか? 折角その服を着ているのに」
「いもしない神に祈ることほど、救われぬこともない」
青年に答える男の声は静かで、冷め切った諦観に満ちている。
「世界から消えた人間がどこへ行くかなど、誰も与り知らぬことだ。天国とは生きている人間の為のものであって、死人の為のものではない」
「……ドライな考え方ですね」
「世界を守る神はとうに死んだ。今更罰が下ることもあるまいさ」
熱気に吹き付けるそよ風が、支部長だったモノの残骸を飛ばしていく。木々の背を超えた彼方へ吸い込まれていく遺灰を一瞬だけ眺め遣って、男が口元に笑みを浮かべた。
「そう言うお前の方はどうだ?」
「どう、とは」
「お前の信じるものは生きている。進む道の先に、悔いることがないのかと思ってな」
「……やめてくださいよ」
人の悪い問い掛けに青年が口の端を緩める。思わず浮かんでしまったという風に、息を零して。
「僕はもう十二分に悩みました。――叶えるべき望みは一つ」
声音が重い意気を含む。瞳の奥に宿る、暗い決意。
「この活動の果てに待っているもの。今は、それだけです」
「ふ……」
その毅然を見て取って、男が裾を翻した。順番に踵を返し。
二人の姿が木立の中に紛れ、鬱蒼とした藪の中に消えていく。静寂の立ち込める後ろで、湯気を上げていた砂地の一角が、蠢く。
「……」
生まれたのは一羽の小鳥。模られた嘴を左右に向け、辺りに人気がないのを確認するように振舞うと、支部の方角へ飛び立った。作り物の翼から、徐々に身体の砂を落としつつ。
遂には誰一人いなくなる。戦いが行われた跡地には、誰のものとも分からぬ、一塊の骨だけが残されていた。




