第十話 照らせど影は濃くなりゆく
――黄泉示さんがお風呂に入っている間。
「……」
集中してテレビの画面を見ていた私は、小さく溜め息を吐いてオフのボタンを押す。……駄目だ。
何も思い出せない。もしかしたら万が一、自分の記憶の手掛かりになるようなことがあるかもしれないかと思っていたけれど。
空振りに終わってしまった。記憶喪失のせいかむしろ、画面の中の出来事にやけに現実味が感じられないような気がする。結びつける自分の体験が欠落しているからだろうか……。
沈みそうになる気分を覚えて、膝に手のひらを揃えて上体を伸ばす。固まっていた身体をほぐすたび、肌を包む布地の感触が、心地のいい刺激となって伝わってくる。
――黄泉示さんの選んでくれたパジャマ。
白地に水色の線の入ったデザインはシンプルで可愛くて、肌触りがとてもいい。サイズもぴったりで――。
柔らかく、動きやすくて暖かい。ハンドメイドかどうかは分からないけれど、仕事の良さが伝わってくるような造りをしている。身体に纏う布地を改めて見つめたあとで、楽な姿勢を取る。さっきまでのこと。
――黄泉示さんが帰ってくるまでの間に、ドライヤーで下着を乾かすのを思いついたのは幸運だった。
そうでなければ結局、乾燥が終わるまで待たせることになってしまっていたに違いない。黄泉示さんが帰って来たときにはまだ、上を乾かしている最中で。
急いで足を通しながら対応したので、ぎこちない感じになってしまった。ぶり返してくる恥ずかしさに、軽く膝頭を閉じながら、さっきまでのやり取りを思い返す。……疲れていた。
下着を買うなら一大事だと思っていたけれど、そうでなくとも、女性物の服を買うのには様々な苦労があったはずだ。その辺りで適当に買ってもよかったはずなのに。
「……」
とてもいいものを選んでくれた。……何か。
できることはないだろうか。頼りを求めて彷徨った目が、食堂のテーブルの上で瞬いて止まる。……ポット。
簡素な木製の天板の上に、白い陶器製のティーセットが浮かび上がっている。初めて部屋を見回したときにもあった気がする。
黄泉示さんの私物ではないだろう。――ウェルカムティーのようなものだろうか?
賃貸物件に置いてあるとは聞かないけれど、気配りのいいオーナーなのかもしれない。茶葉が入っているらしい缶と、キッチンには電気ケトルも置いてある。……。
思い付きに従って、頭の中で手順を確かめる。――うん。
大丈夫だ。自分にできることを確かめて、私はソファーから立ち上がった。
「……ふぅ」
風呂上がり。廊下に広がる夜の温度が、熱の昇った頭を冷ましてくれる。……日課も全て終わり。
あとはもう寝るだけだ。リビングに入る扉の前で、ふと足が止まる。中にいるだろう少女。
数時間前に出会ったばかりの相手。あの眩しい態度に、どんな心情で接するべきなのだろうか。考えても答えは出ない。
なるようになるしかないのだろう。投げやりな結論に首を振って、レバーハンドルのドアを開けた。
「――」
広がる目の前の光景に、不意打ちのような感覚を覚えさせられる。……少女がいない。
「……えいっ」
「……?」
座っていると思ったソファーは空。テレビも電源が付いておらず、暗い鏡のような画面を晒しているだけ。キッチンの方から小さな息遣いが聞こえてくる。そっちに――。
「っ、やっ」
「――」
気配の方角に顔を向けた瞬間。
「んっ、……はぁ」
飛び込んできた珍妙な光景に、目を疑わされた。視線の先にいるのは、パジャマを着たあの少女。
「はぁっ、あと、ちょっと……っ」
もどかしそうな横顔。スラリとした踵の見えるつま先立ちで背中を半分こちらに向け、一生懸命に指先を伸ばしている。ピンと張った背筋。
一心に上を見つめて飛び跳ねるたび、華奢な首筋の上を、白銀の髪の毛が生き物のような動きで左右に揺れる。一体……。
「んん……っ!」
「……何をやってるんだ?」
「ひゃあっ⁉」
声を掛けた瞬間、少女の全身がビクリと縮こまる。手を引っ込めて此方を向き。
「――っえ、あ、黄泉示さっ⁉ ――ッ‼」
「――」
見ているこちらが狼狽えるほどの狼狽ぶり。振り返りざまの勢いで流れるように、キッチンの角に腰骨をぶつけた。……。
「……つぅッ……」
「……大丈夫か?」
割と痛そうだ。涙目でくの字になって腰を押さえる少女に近づきつつ、上を見る。のっぺりとした扉の開いている奥。
「……何か取りたいのか?」
「あ……!」
高い位置にある吊り戸棚は、使い辛いだろうと思って放置していた場所で、中の物品に心当たりはない。白く塗られた板底の淵。
「ええと、その……」
「……」
あと少しで引っ張り出せそうな位置に、しっかりと蓋のされた長方形の缶が見える。――『TEA』。
「……済みません。お世話になっているお礼、と言いますか……」
赤茶けた塗装に記されている銀の文字。粛々と居住まいをただした少女の向こう側、初めて入ったときから食堂に置かれていたカップとポットに、スイッチの入っているらしい電気ケトルが映り込む。……なるほど。
「茶を淹れようとしてたのか」
「はい……」
理解した状況に息を吐く。謎の動きを見たときは、何をしようとしているのかと思ったが。
随分と突拍子もない行動をするものだ。……物取りとでも疑われたらどうするつもりだったのか。
思ったより間が抜けているのかもしれない。拙い善意の空回り振りに、今一度溜め息を吐きそうになって。
「……あの」
「――別に、気を遣わなくていい」
恐々としている少女に、はっきりそのことを告げた。
「無理に何かしようとしなくていい。怪我でもされた方が、却って困る」
「――あ」
――そう。
「……そうですよね。すみません」
別に、何かを望んで助けたわけではない。見返りも、感謝も。
俺が少女を助けたのは、単に俺以外が手を伸ばせる状況になかったからだ。少女が淡い笑顔を浮かべる。……。
――面倒だ。
俺一人なら、こんな事態は始めから起こらない。何かをするにしても。
「……まあ」
要領よく立ち回る方法など幾らでもあるはずで、それでも少女からすれば、それが思いつく最善のやり方だったのかもしれない。自分と相手の不器用さに息を吐きつつ、手を伸ばして茶葉の缶を取る。
「紅茶くらいなら、入れてもらってもいい」
「え……?」
「丁度飲みたい気分だったんだ。頼めるか?」
「……あ……!」
蓋を開けた中身を少女の方へ見せる。二、三視線で茶葉と俺を往復したのちに、少女が缶を受け取った。
……。
――紅茶を飲む時間。
テーブルで向かい合い、カップに口をつける。鼻腔をくすぐるふくよかな香り。
「……」
「……明日のことなんだが」
置いてあった茶葉の銘柄はダージリン。普段は紅茶など飲まないので、味の良しあしは分からないが、香りは日本のものに比べて良い気がする。口の中に広がる味わい深い渋みを舌に、立ち昇る湯気を間に、話し出す。
「はい」
「買い物に行こうと思ってる」
同じようにカップを前にした、少女が俺を見つめてくる。混じるもののない、翡翠色の瞳で。
「元々足りない物を揃えるつもりだったし。生活用品とかも兼ねて、色々」
「そう、ですね」
風呂の中でも考えていたことだが、今日のような行き違いがあるとやはり不味い。一連の騒動を思い出したのか、少女が微かに気まずげな微笑を浮かべる。寝間着は間に合わせたとはいえ、少女の衣服が根本的に足りていないのは事実だ。
「昼前に着くとして、十時半くらいでいいか? 出るのは」
「はい。大丈夫です」
「あと……」
言い忘れていたことを思い出す。少女自身に異常なものと関わった記憶はないが。
「さっき、俺の小父さんから電話があって」
「叔父さんですか?」
「ああ。倒れていた件について、調べてもらえることになった」
「え」
伝えておくべきではあるだろう。事情を聞いた少女の動きが止まる。熱を放つカップを両手で包み込んだまま、目をパチクリさせて。
「結果が出たら知らせてくれるらしい。事後承諾になって悪い」
「い、いえ。……驚きました」
姿勢を正すように膝を揃える。自然な反応ではあるだろう。
「そんなことがあるとは思っていなかったので。凄い方なんですね」
「……まあな」
行きがかり上、助けを求めることになった相手が、事件調査についてツテを持っているとは思わない。探偵業か何かをやっているとでも言おうかと思ったが、やめた。
根掘り葉掘り訊かれても面倒になる。沈黙が吉とばかりに、互いに紅茶を飲む時間が続いて。
空になったカップを洗い場へ。カップを受け取りたそうな少女を無視して、自分の分を洗う。水切り場に伏せ置き。
「俺はもう寝るが。起きてても構わない」
「あ、いえ。私もそろそろ寝ようかと思ったので……」
放置したところで、盗まれるようなものは特にない。リビングの照明を落とし、廊下に出る。互いの部屋の前に立ったところで。
「……じゃあ」
「はい」
何となく生まれる間。愛想なく言った一言に、ぎこちない笑みが返される。不器用な挨拶を交わしながら、部屋の中へ――。
「――あっ」
「――」
入ろうとしたところで、背を向けかけていた少女が、小さく声を上げた。……なんだ?
「……」
「……どうした?」
「……思い」
ブルーのストライプを波打たせる背中が、僅かに反っている。口元にやっていた手を下ろして、確かめるように、ゆっくりと瞬きをする。
「思い、出しました」
「――」
――思い出した。
理解した脳裏に衝撃が走る。回そうとしていた力がノブを滑り、指先から離れた片開きの扉が静かな音を立てて閉じる。自分についての記憶のなかった少女が。
「何をだ? 何か」
「名前です」
何かを。逸る気持ちを抑え切れずに訊いた俺に、振り返った少女が、長らく離れていた頼りを見つけたかのように目を見開きながら答える。――。
「私の、名前。やっと思い出せました」
「……名前」
「はい。私――」
端々に弾むような喜びを覗かせつつ、腿の前で手を重ねた少女が居住まいを正す。抑え切れない活気に髪をさざめかせ、出会ってからこれまでで一番晴れやかな、花のような笑顔を浮かべて。
「――フィア・カタストと言います。よろしくお願いします、黄泉示さん」
あらためて挨拶をされた。……。
――名前、か。
「ああ、よろしく」
「……」
「……カタスト」
「フィア、で大丈夫ですよ」
佇んだままニコニコしている少女。……本音を言うならば、もう少し素性の手掛かりになる情報が欲しかったところではある。
倒れていた経緯や住所、知人の電話番号など。名前も重要な情報ではあるだろうが、それ一つでどうにかなるようなものではない。肩透かしを食らったような気持ちが少しはあって。
――だが。
「分かった。じゃあ」
「はい」
ようやく自分についての記憶を手に入れた少女は、なんと言うか、それだけで酷く安心したような感情を身に湛えている。……ひとまずはそれでいい。
「おやすみ、……フィア」
「おやすみなさい、黄泉示さん」
少なくとも今は。扉の閉まる向こうに、少女の、フィアの可憐な微笑みが映った。……。
――何をしてる?
「……」
厚くもない一枚板の戸で外界を隔て、光のない室内に立って、俺は拳を握り締める。誰かに礼を言われて。
感謝をされて。助けた相手が笑顔を見せてくれたことが、そんなにも嬉しかったのか? 飾り気のない天井を睨み付けるように見つめる。これではまるで。
子どもの頃の俺のようだ。両親に憧れていたときの自分。
目の前の輝きを素朴に信じ、自ら進んで人を助ける道を選ぼうとしていた、あの頃の。胸に滲み出してくる、苦しみと自嘲が混ざった思い。
――間違えるな。
助けたくて助けたわけではない。俺は、やむを得なかったから手を差し出した。
善意からでも厚意からでもない。あの場で見捨てるわけにはいかなかったという、ただそれだけの動機だ。感謝になど値しない。
「……」
普通にただ倒れているだけだったら、少しでも状況が違ったなら、俺は素知らぬ顔をして立ち去っていただろう。狭い部屋に雑多に置かれた私物の中で、深緑色の布袋に入れられた、細長の道具が映し出される。……そうだ。
怪異の専門家である小父さんに頼んだ以上、数週間もすれば手掛かりは見つかるはずだ。煩わしければ最悪、警察に行ってくれと頼めばいい。
少女のいる生活が続くのは、問題が終わるまでの僅かな時間。予期せず俺の前に現れた、仮初のモラトリアムでしかない。――これで。
これで最後にしよう。過去に別れを告げ、新しい生活を始める。
新しい自分の生き方を見つける。そのためにこそ、俺はここに来たのだから。




