第二十八話 最愛の人のために
「……」
……空から降り注ぐ光。
迫る炎の塊を、私は手を握り締めて見つめている。……そうだ。
――分かっている。私たちが生き延びるために必要なこと。
黄泉示さんたちを守るために、今この局面で、私がやらなければならないことを。……練習では一度も成功しなかった。
リアさんから渡された道具を頼りに、何度も繰り返してきた。レイガスさんから見せられた幻。
リゲルさんたちが殺され、黄泉示さんが死ぬ最悪の光景に身を置くことで、あのとき発現した光をどうにか再現しようとしていた。……結果はすべて失敗。
微かな燐光さえ出てくれることはなく、心をナイフで刺し殺すような恐怖に、何度も呼吸がおかしくなって身体が震えた。割れそうになる心臓を強く押さえつけて……。
全身から出る汗の冷たさと、心の芯まで凍えるような寒気に震えることしかできなかった。今でもそのことは変わらない。
触れた指先から燃え上がるような炎と熱に照らされているはずなのに。繰り返したあの光景を思い返すと、冷たい心の感触が、自然と胸に蘇ってきて。……大丈夫。
胸のうちに湧くその想いを握り締める。……大丈夫だ。
黄泉示さんたちと戦って、前に出たことで、今分かった。私の心を一番に動かすのは、身体の底まで凍て付くような冷たい恐怖じゃない。
守りたいと言う気持ち。黄泉示さんたちに生きていて欲しいという、何よりも大切な思いなのだ。ずっと……。
ずっと、不安だった。永仙さんや凶王たちの力を目にして。
エアリーさんたちと修行をしている時でも、私が本当に黄泉示さんたちを守ることができるのか。自分がやるべきことをやれるのか、疑問だった。
力になれるのかどうか。――ッでも。
「――ッ」
っ今は。――私の隣に、黄泉示さんがいてくれる。
守りたいと思う人のことが、はっきりと感じられる。その呼吸も暖かさも。
確かに私の胸にある。だから――ッ。
上空から押し寄せる炎の群れ。
絶望的な状況に、ジェインもリゲルも、手立てを見出すことができないでいる。立ち尽くすよりない中で――。
「ヤバいぜこいつは――ッ⁉」
「――大丈夫です」
状況に似つかわしくない、力に満ちた声が届いてきた。――隣にいる彼女。
白銀の長髪をうなじにそよがせるフィアが、翡翠色の瞳で真っ直ぐに上を向き、真剣な面持ちで炎を見つめている。……なぜだろう。
「何をやるべきなのかは、分かっています」
「……⁉」
「できるんです。絶対に……っ」
小さく胸に染み渡るようなその声は、これまで何度も耳にしてきたはずなのに。言葉に宿る清純な思いの強さが、胸のうちにはっきりとした温かみを感じさせてくれている。空気を轟かせる唸りを伴う光景の中でも、不思議なほど確かに聞こえてくる呟きに合わせて、
「……自分がやらなきゃいけないこと」
「……!」
「誰もが懸命に自分を尽くしているから、だから今度は、私が。私の大切な人たちを――っ」
握り締めた指先の置かれた白い布地の胸元から、光が溢れ出している。何よりも強く眩しく。
純粋で温かい、澄み切った真実の明かり。零れ出すその輝きが――っ!
「――守って、みせますッ‼」
迫る炎の嵐よりも眩く広がって。決意の言葉と同時に、俺たちの視界全てを、覆うように包み込んだ。
「……」
七十年の齢を身に刻んだ老人の見つめる先。
眩い純白の光を放つ半球状の結界が、破砕した空間の中央に顕現している。陰陽道の大家としての伝統を誇る九鬼家の術理に改良を加えた、己の神符術にて生み出した大火の嵐。
触れるもの全てを蹂躙し、塵となす災禍と激突するその白い輝きが、命を奪う熱と死の風を完全に遮断している。――これまで目にした少女の技量からは考えられないはずの力。
通常の技能法則を無視した『固有魔術』の光は、結界の内部にある者たちをあらゆる破壊と脅威から絶対的に隔絶する。以前の邂逅で片鱗を覗かせ――。
今、白銀の髪を持つあの少女が、自らの意志をもって目覚めさせている力。担い手の余りに純粋な願いを反映した効力を目にすれば……。
「……答えは明らか、か」
問いの帰結には、一つの答えが出せるものであり。持ち上げられたしわ枯れの手のひらが、首元から下がる銅色の装身具を静かに包み込む。古風な装飾の中に収められた写真。
「……イデア……」
色あせた景色の中に写る人物の名を呟いて。永仙は独り、目の前の輝きを見つめていた。
「――ッ」
天蓋のように俺たちを覆っていた光の壁。
眩しいほどに輝く純白のヴェールが解かれると共に、外を埋め尽くしていた炎が霧を振り払うかの如くに晴れ渡る。微かに熱気を孕んだ風の吹く修練場の跡地に――。
「……」
変わらぬ威容を保つままの、永仙が立っている。……絶体絶命。
俺たちの側に余力はなく、使えるとは思っていなかったフィアの固有魔術まで出し尽くした。すでに太陽符の変調も切れている相手を前にして、絶望に恐怖していいはずの光景……。
「……っ」
――だが。
力の入らない腕で終月を握り締める俺の胸中には、今、一つの疑問が浮かび上がっている。……全てを懸けたあの一刀のあと。
力を保ち切れずに体勢を崩した俺を、永仙は間違いなく仕留められていたはずだ。今のこの沈黙にしてもそう。
打つ手の無くなった俺たちを殺すなど、永仙にとっては赤子の手をひねるようなことであるはずで。ここに至ってなお、殺意を見せてこないならば――。
「……いつまでそうしているつもりだ?」
それは、つまり。投げられた言葉。
「負傷の状態を放置すれば、後々まで響く障害になり兼ねない」
「……⁉」
「何事も早く手当てをした方が、受ける影響が軽くて済む。戦闘における治療の鉄則を、知らぬわけではあるまい」
「――はぁっ⁉」
いきなりのこちらの容態を慮るような台詞に、リゲルが怒気と警戒を強く滲ませた声を上げる。
「ッそうさせてる張本人が、何言ってやがんだ。テメエが目の前にいる限り――ッ!」
「海千山千の技能者と渡りあおうと思うのなら、状況の変化に即応することも重要だ」
リゲルの抗議を柳のように受け流した永仙が、視線を注いでいた俺の方に目を向けた。
「仲間の見てとっている通り、今の私に敵意は無い」
「……!」
「治療を急ぐといい。戦いは、すでに終わっている」
――
「……」
枯渇の寸前で【魔力解放】を解除し……。
「〝清浄の御手に沿い、生命に癒しを与え〟――」
疲弊した俺たちは、四人で床に座り込んでいた。残った魔力で治癒を行っているフィア。
「おお、助かるぜ……」
「……ありがたい」
「治療の腕前はまずまずだな」
肩の切り傷と、魔力体力の消耗以外に目立った負傷のない俺は軽い応急措置だけにしてもらい、重傷だったリゲルとジェインの方に魔力を使ってもらっている。フィアの魔術を品評してくる永仙。
「技量的にはまだ拙いが、相手の負傷に寄り添おうという心遣いを感じる。今後もその調子で精進を続けていくことだ」
「あ、ありがとうございます……?」
「けっ。傷を負わせた当人が、何言ってやがんだか」
治療を受けている途中のリゲルが、両脚を投げ出した姿勢で皮肉を口にする。フレームの折れ曲がったサングラスを胸ポケットに、冷めやらない闘気を纏うブルーの眼でじろりと永仙を睨み付けて。
「こんな真似までして戦って、結局一体何がしたかったんだよ?」
「……」
「自分で掴んだ立場があったってのに、責任も信頼もほっぽり出しやがって。秋光さんなんかは、今でもテメエをダチだと思ってるんじゃねえのか?」
「格上にレジストの攻防を仕掛けるのは無謀ではあるが、術式の発想自体は悪くない。学びを深め、相手の裏をかくだけでない自分なりの磨きをかけることができれば、手練れの魔術師にも通用する戦術になるだろう」
「……どうも」
「ッ無視してんじゃねえよ、こんにゃろうめ――ッ⁉」
「り、リゲルさん! 傷に障っちゃうので――!」
拳を固めて飛び掛かろうとするリゲルを、フィアが懸命に抑えている。少し距離を置いて座る状態で、聞こえてくる喧騒に息を吐き――。
「――未熟だな」
近付いてきていた永仙。殺意がなくとも厳しさの変わらない老人の声が、丸めていた背中を不意に打つ。
「技も心意気も拙く、練達にはほど遠い」
「……」
「決意と博打だけで乗り越えられる苦境は限られる。研鑽を怠らないようにすることだな」
「……分かってるよ」
口憚らない指摘に多少の不服を交ぜながら返す。一時的とはいえリゲルやジェインに重傷を負わせ、フィアを狙ったことへの怒りはあるが……。
この男にこの場で何を言っても、きっと動じはしないのだろう。疲労と呆れが混ざり合ったような気持ちのうちで。
――ふと。
「……父さんとは……」
脳裏に浮かび上がった二人の姿に一瞬、零れ出ていた言葉が止まる。思い出の中で止まったままの姿。
「……父さんたちとは、どんな間柄だったんだ?」
「冥希と紫音とは、私が魔導協会の長だった時分に知り合った」
二度と変わることのない二人の姿を思い返すと、未だに胸の奥底に強くズキリとした痛みが走る。互いに顔を合わせないまま、背中越しに永仙が口にする。
「当時から三大組織の間でも中立の技能者として名を馳せ、自分たちと同じ『逸れ者』たちとも積極的な交流を持っていた」
「……」
「互いに肩を並べて戦ったのは、『アポカリプスの眼』との決戦を含めた数度だけだ。多くはない交流だったが……」
胸のうちにある情景を、見つめ直すような間をおいて。
「助けを求める人たちに手を伸ばし、如何なる苦境の中でも苦しむ者の声を一人でも聞き逃すまいとしたあの二人の姿は、今でも鮮明な輝きとしてこの胸に焼き付いている」
「……!」
「夕食の席で息子のことを揚々と語っている、いつになく饒舌な二人の姿もな」
――っ思わず。
「――」
「お前は両親とは違う」
思わず振り向いてしまっていた俺の目に、これまでの厳しさから僅かに表情を穏やかにした、永仙の面持ちが映り込む。柔らかな温かさを内包した言葉。
「然したる才能もなく、磨き上げられた技能者でもない。だとしても、引け目を感じることなど何もない」
「……」
「己を懸けてまで仲間と共に歩もうとする今のお前を、あの二人は、今でも誇らしげに語るだろうからな」
「……ああ」
永仙の言葉に、また視線を前に戻して頷く。――分かっている。
永仙の口にしたことは、単なるただの想像だ。耳障りのいい希望的な推測。
都合のいい願望かもしれないと、そう分かっていても。俺の知り得ない記憶と併せて、亡くなったはずの二人の笑顔を、もう一度心の中に思い起こせたことこそが――。
「――あの少女と共にいたいなら、己の意志を決めることだ」
問いを投げかけた俺にとって、何よりも嬉しいことであって。永仙の声が耳を打つ。
「何が起ころうとも、その隣に立ち続ける。例え今ある全てを失いかけることになっても、最後まで力を尽くし続けるのだと」
「……なに……?」
どういうことだ? 不穏な内容に、訊き返そうとしたそのとき。
「――ふぃーっ! 楽になったぜ」
「ありがとう、カタストさん」
「――いえ」
治癒を終えたらしいリゲルとジェインの、生気を取り戻した声が聞こえてくる。流れる汗をハンカチで拭っているフィア。
「治療したと言っても、完全には治せてないので……。あとでちゃんと診てもらうまでは、無理に動かないようにしてください」
「充分過ぎるくらいさ。――これからどうするつもりだ?」
眼鏡を上げたジェインが、永仙に向けて質すように視線を向けてくる。皹の入ったレンズの向こうから、見づらそうにライトブラウンの瞳を眇めて。
「僕らを殺すつもりがなくなったのなら、こうして僕らを閉じ込めておくことには意味がない。空間の構築を解除して、大人しく魔導協会に投降でもする気はないのか?」
「残念ながらそれはできないな」
俺たちからすればある意味もっとも丸く収まるとも言える提案に、永仙は口の端に微笑を浮かべながら答えてくる。
「例え秋光たちがどう振る舞おうとも、離反者をそのままにしておけるほど協会と三大組織の秩序は甘くない」
「……!」
「一度投降してしまえば、私に弁明の許される余地はないだろう。現に今、お前たちをこうして放置しているにもかかわらずな」
「……欺瞞にしか聞こえないな」
あれだけの手出しをされたあとで、放置も何もないと思うのだが。緩まない視線を差し向けるジェイン。
「僕らの件は仮に置いておくとしても、神父や式さんたちは、今も外で戦っているはずだ」
「――」
「相手が奴ら――凶王である限り、協会側が被害を負うことは避けられない。どういう意図があるにせよ――」
「安心しろ」
――そうだ。
協会の本山に攻め込んできたのはなにも、今目の前にいる永仙だけではない。仮にもし永仙に戦うつもりがなかったとしても――っ。
「ここでの戦いで死者は出ない。元より凶王たちとは、その協約の上で動いている」
「……⁉」
「えっ――」
「はぁ⁉」
「……どういうことだ?」
信じられないような言葉。瞬きしている俺たちの中から、ジェインが尋ね返す。
「元から殺すつもりがなかったというなら。なぜわざわざ凶王を……」
「学びを求める勤勉な若者たちのために、講義をしてやりたいのも山々だが――」
剽軽な口調で笑みを零した、永仙があらぬ方角を向く。
「時間か。まあ、よく付き合ってくれたというところか」
「え?」
フィアと共に、永仙の視線を追って気付く。……ひび。
現実として映し出された空間の景色に、あり得ないはずの綻びが走っている。軋むような異音と共に亀裂が大きくなっていき――!
「――ッ‼」
放射状の筋が瞬時に景色へと広がった瞬間、俺たちを閉じ込めていた世界が、繊細なガラス細工のように砕け散った。




