第十七話 癒されるもの
――
――二十分後。
「――范支部長様」
見舞いに行くだけの体力をエアリーさんから特別に回復してもらい、急ぎで服を着替えた俺たちは、初めてとなる治癒棟の入り口を潜り抜けていた。先輩のいる治療室の扉の前に立っている、一人の治癒師。
「連絡ありがと。千景は?」
「意識の回復後に一通りの検査を行いましたが、状態は全て良好です」
薄緑色をした医療衣に薄手の長手袋をはめた、飾り気のない清潔感に満ちた出で立ちでいる。立慧さんの問いかけに答えたあと、結果の記されていると思しき用紙を何枚か捲って。
「傷自体はほぼ元通りに治っており、不測の影響もなし。昏睡の影響で体力がまだ戻っていないので、長時間の面会はできませんが」
「構わないわ。この子たちも一緒にいい?」
「騒がしくなるのは好ましくはないですが……」
影響を量るような視線が俺たちを目にする。治療の担当者としての思案を数秒見せたのち、
「短時間なら大丈夫でしょう。二十分以内の退室をお願いします」
「ありがと。行くわよ」
「っありがとうございます」
頭を下げながら立慧さんのあとに続く。佇む治癒師の隣を抜け、灰色の病室のドアを開けて。
「――千景!」
「……立慧か」
中に入った俺たちの目に、ベッドに横たわる先輩の姿が飛び込んできた。……白い患者衣姿。
「外が賑やかだと思えば。蔭水たちも来たのか」
「……っはい」
「容態については治癒師から聞いてるかもしれないが。状態としては、見ての通りだな」
普段ポニーテールにしている髪の毛は解かれており、柔らかな胡桃色の毛筋の垂れる腿の上には、読みかけの文庫本がページを開いたまま乗せられている。……思っていたほど狭くはない。
一人用の個室ということもあり、大部屋とまではいかないが、俺たちの使っている部屋のリビングほどの広さがあるくらいだ。壁際の棚に置かれた、瑞々しいユーカリの活けられた花瓶。
「結構その、広いんすね……」
「療後の回復には、落ち着いて静養できる状態があることが大切だからな。病室と言ってみても、味も素っ気もない監獄ってわけじゃない」
四方を囲む壁には淡くクリームの色がつけられており、流れる空気には微かに清涼な花の香りが漂っている。木製ベッドの手前側に折り畳まれた羽根布団と、石鹸の香りのする滑らかなシーツを素足の先で撓ませて、先輩が軽く室内を見回した。
「個人の容態にもよるが、食事の内容も比較的選べるし、頼めば音楽を聴いたり、雑誌を注文したりすることもできる。私も入るのは初めてなんだがな」
「――」
「降って湧いた休暇だと思って、ゆっくりさせてもらうつもりだ。――煙草が吸えないのだけは残念だが」
「退院したらカートンで贈ってあげるから、我慢しなさいよ」
口のへの字に曲げてみせての冗談に、立慧さんが気心の知れた様子で相槌を打つ。……よかった。
療養中とはいえ、目の前で話している先輩の様子は、思っていたものより遥かに良好なものだ。胸のうちに湧く安堵に流されないよう――。
「先輩、その……」
「ん?」
「――ありがとうございました」
今一度姿勢を正して。俺たちの方を向いた先輩に、伝えるべきことを口にした。前回の外出での出来事。
「あのとき俺たちを庇ってくれて。千景先輩のお陰で、俺たちは」
「――礼を言われることじゃないさ」
凶王の威圧を切って前に出てくれた姿を思い起こさずにはいられない俺たちの前で、小さく首を振った先輩が視線を膝元に落とす。シーツの上に置かれていた紙製の栞を手にし、開いていたページに挟み込みながら。
「お互いの立場で、やるべきことをやっただけだ。正直言って、あまり力になれたとは言い難いしな」
「そんな」
「リア様と秋光様が駆けつけた話は、私も聞いてる。救世の英雄が来てるんだって?」
パタリと背表紙を閉じて脇に置いた先輩が、焦げ茶色の瞳にキラリとした好奇心の煌めきを覗かせる。軽く息を零し。
「平時の協会ならあり得ないような話だな。私も、一目会ってみたいもんだ」
「……見たらビックリするかもしれないけどね」
「そうなんだろうな。――今でも鍛錬をしてるのか?」
「――っ」
「――分かるんすか?」
「見れば大体な。どいつもこいつも、何かしてるって様子だからな」
その問い掛け。驚いた俺たちの様子を見て、気持ち得意げに微笑んだ先輩が、確認するように一人一人を見つめ直す。着替えていても隠し切れない、鍛錬の痕跡を目にしているように。
「活気のあるいい目つきをしてる。多少心配だったが、これなら大丈夫そうだ」
「――っ」
「凶王や永仙を前にしたとしても、また前を向けてる。前回の襲撃が、お前たちのトラウマにならなくて本当に良かった」
これまで身のうちに溜めていたらしい不安。大きく息を吐き出した先輩が――。
「今更だが、護衛の任を果たせなかったこと、改めて謝らせてもらう」
「――ッ」
「あのときお前たちの命を預かる立場でありながら、充分にそれを果たせなかった。――済まなかった」
「――っいや!」
ベッドの背もたれに預けていた背中を折り曲げる、想定外だったその謝罪に、俺たちの側が瞠目してしまう。即座に言い出したリゲル。
「先輩が謝ることなんて何もねえっすよ! あの凶王とかいう連中、マジでヤバかったですし!」
「――っそうですよ」
「あのとき先輩が前に出てくれなかったら、結果的に秋光さんらも間に合ってなかったんすから。あんときの先輩たちのお陰で、俺らが無事で居られてるんすよ!」
「……先輩たちから教わった技術がなければ、凶王の仕掛けを回避することはできませんでした」
熱のこもったハートを乗せたリゲルの台詞に続き、ジェインが理性的な感慨を込めた声音で語っていく。指先で上げた眼鏡のレンズの奥から、誠実な瞳の表情を覗かせて。
「無謀な突貫を仕掛けた挙句、殺されるか連れ去られていた。先輩たちに対して僕らにあるのは、感謝だけです」
「……だってさ」
一致している思い。全員で同意の眼差しを送る俺たちを目にして、立慧さんが改めて頷く。
「相変わらず責任感強いわね、千景は」
「……立慧」
「自分はそんな大怪我してて、相手は凶王と九鬼永仙だってのに。――でも、そうよね」
語ってきた声に、不意の気力が覗く。
「相手がなんだろうが、自分の力量不足を肯定していい理由にはならない」
「――」
「私たちは支部長で、責務を担う魔術師なんだもの。――退院したら、また一緒に修行でもしてみない?」
――立慧さんからなされた提案。
「お互い職務で忙しい身だけど、今は四人の応対役っていう立場があるし。無駄だとは思うけど、田中の奴にも一応、声は掛けてるの」
「……!」
「状況が切迫している今、私たち支部長も今のままじゃいられない。今度また凶王派の連中と衝突があるときまでに、なるべく力を高めとかないといけないってことでね。――あんたたちの鍛錬に付き合うのには、実はそういう理由もあるのよ」
言葉の端々に忸怩たる思いを僅かに滲ませた立慧さんが、俺たちに向けて悪戯っぽくウィンクをしてみせる。――そうだったのか。
「救世の英雄の技術を間近で見て、取り入れられることを探すためにね。……まあ、あのトンデモなスパルタ指導からは、学べることはあんまりないかもしれないけど」
「……願ってもない申し出だな」
凶王たちの襲撃という大事を受けて、立慧さんたちもまた新しい手立てを打とうとしている。笑みを浮かべた先輩の双眸が、改めて俺たちの方を向いた。
「お前たちが強くなろうとしてるのと同時に、私たちも前を向いていく」
「――!」
「前回は一蹴される形で終わったが、次も同じで終わらせるつもりはない。――お互い鍛え直しだな」
「はい……っ」
「カタストも、大事が無いようで良かった」
視線が向けられるのは、フィア。
「色々と不明なこともあって、迷うこともあるかもしれないが。私としては、その辺りは余り問題にしなくてもいいんじゃないかと思ってる」
「え……?」
「これまでの鍛錬の様子を見る限り、カタストはしっかり、今の自分としての芯を持ててるからな。初めの気持ちを思い出せば、そこには必ず自分がいる」
外出時の件を聞き及んでいるのだろう先輩の瞳には、曇りのない真っ直ぐな本心がある。目を合わせたフィアの背中を、自分の眼差しでしっかりと押すようにして。
「自分の納得がいくまで、何度だってそこに立ち戻ればいい。教えたことについて分からないことがあれば、いつでも聞きに来てくれ」
「……! ありがとうございます……っ!」
「そんなところか。……久し振りに大勢と話したら、少し疲れたな」
小さく伸びをしてみせた先輩が、ベッドの背に凭れる全身から力を抜く。
「色々と話し足りないところもあるが。今日はこの辺りにさせてもらうか」
「そうね。時間も丁度いいし、今日のところはここまでにしましょ」
立慧さんが、病室の壁に掛けられた古風な丸時計を見遣る。そろそろ二十分。
「しっかり食べて寝て、明日に備えときなさいよ。体力が戻るまで、毎日だって来てやるんだから」
「……それは困るな」
治癒師から言われたリミットの時間だ。布団を手繰り寄せた先輩が、口の端に微かな困り顔を浮かばせながら目を瞑る。白い枕に胡桃色の髪の毛を広げて、微笑みながら。
「支部の補佐に怒られることになる。私の穴を埋めてくれている連中のためにも、早く調子を戻さないとな」
――治療室を出て。
「……」
目当ての人間との面会を終えた、秋光は小さく息を吐く。無論……。
悪い意味ではなく。――治療室に運ばれた支部長と葵が、目を覚ました。
治癒棟の治癒師たちからの連絡を受け、即急に仕事の段取りを組み替えて到着したのが十五分ほど前のこと。ベッドに寝ている葵。
賢王の仕込んだ糸の摘出と、傷口の治癒の行われた身体には、回復を促す術式の施された専用の包帯が入念に巻かれており。病衣を着て話す姿は痛々しいものではあったが、それでも意識ははっきりしていた。前回の襲撃の顛末。
凶王との対峙という死地にありながら、葵が果たした役割を手ずから伝え、協会の現状についても情報を共有した。……身体の傷の方はほぼ回復している。
レイガスが直に手掛けただけあって、そちらの方は疑いようがないというのが治癒師に共通する見立てであり。であれば療養の間に考えることが少しでもあった方がいいというのが、現に顔を合わせた秋光の判断だった。葵の役職は、本山の特別補佐官。
組織の中核たる賢者に着く立場であるだけに、代わりの人間には漏らせない情報も多く、復帰次第、以前と変わらないだけの業務を負うことになる。情報の遅れは少ない方が良い。
自責の時間を与えないためにも、できる限り意識を先へ振り向けさせた方がいいのだ。葵自身のためにも――。
〝……申し訳ありません〟
その方が。治療室を出る間際の一言。
〝……賢者の決断を助勢する、補佐でありながら……〟
〝……〟
〝凶王派の旗頭に、報いることすらできずに。筆頭の名を……っ〟
〝……気にすることはない〟
身体の傷がほぼ癒えてなお、泥濘の中をのたうっているような重苦しい葵の声音が、秋光の鼓膜にはまだはっきりと焼き付いている。……葵自身に落ち度などあるはずもない。
技能者として遥か格上である凶王を前にして命を繋ぎ、悟られぬまま救援要請を出すまでに漕ぎ着けたのは、他ならぬ彼女自身の手腕によるものである。筆頭として方針を決める立場でありながら、凶王と永仙の思惑を見抜けなかった自分こそ責めを負うべきであり――。
〝前回の襲撃について起きた被害は、すべて私の落ち度だ〟
〝……〟
〝凶王の一人である賢王と相対し、生還した事実を誇るべきだ。……今はただ、ゆっくりと休んでくれ〟
自分の本心を伝えても、目を閉じた葵は納得したような表情を見せてはいなかった。心に恐怖が刻まれたわけではない。
協会の特別補佐として、葵は必要な資質を全て兼ね備えている。如何なる現実であろうと冷静に受け止め、実直に向き合う摯実な心構えに疑いようはなく――。
――だからこそ。
「――先生」
賢者の補佐として真剣すぎる理想が、両肩に乗る責任を軽くすることを許さないのかもしれない。今後の見舞いでの対応を考えていた最中。
「――零」
「済みません。執務室にもいなかったもので、こちらかと思いまして……」
背中越しに響いてきた若々しい革靴の足音に、秋光は振り返る。弟子の三千風零。
「どうした?」
「……その」
年少の頃から修練を共にし、二十年近くの付き合いがあるはずの賢者見習いは今、スマートな表情にどことなく切り出し辛そうな憂いを見せている。意を決したように指先を閉じ。
「――凶王たちによる前回の襲撃の件について、自分なりに考えてみました」
「――」
「はっきりとした要因が分からないとはいえ、自分も協会の一員である以上、守るべき被害者や、同じ協会員たちの苦境を見過ごすことはできません。未熟にして教えを請う身」
語られる内容に一つの予感を覚えている秋光の前で。賢者を志す青年の面が、はっきりと上がった。
「先生からの課題も越えられていない、道半ばの賢者見習いという立場であることは理解していますが――」
「……」
「自分が今ぶつかっている壁を乗り超えるためにも。――范支部長たちと共に、僕を、黄泉示くんたちの警護につけさせてもらえないでしょうか?」




