第八話 ナイトウェア・コメディ
――目指す『ギムレット』までは、近かったこともあり。
部屋を出て数分で、店の前にまで到着する。暗めの茶に金の飾り文字で刻まれた店名。
扉の両側を飾る明るいショーウィンドーには、洒落たファッションで佇むマネキンたちが並んでいる。街灯や家明かりに照らされる通りの中でも、一段上品に構えていて。
……よし。
昼間とでは随分印象が違う。足を止めて、自分の格好を見返す。高校のときに買った使い古しのコートに、くたびれた紐の伸びたスニーカー。
日本で小父さんと入っていたデパートの洋服店とは違う雰囲気に、何とも言えない場違い感が昇ってくる。……女物のパジャマを一着買う。
それだけできればいい。強張る脚に言い聞かせて踏み出した。
「――いらっしゃいませ」
正面の扉を開ける警備員の挨拶に小さく会釈して、木とガラスの入り口の中へ入る。外界との仕切りとなる境界を潜り抜けた瞬間――。
「――っ」
行き交う人の織り成す雑音が消え、一気に静けさが耳に入ってくる。看板より少し明るい、木目調の床。
店内は外から見るよりも広く、自然と見渡すほどの奥行きがある。……人はほぼいない。
遠くのカウンターに店員が数人、右手にあるメンズのエリアに一人二人、ものを物色している客が見えるだけだ。ゆったりしたテンポで流れているアリアのクラシック。シトラスの香りのする空気を吸い込んで、歩き出す。今思えば。
少女と食事をしに出たときにでも買っておけば良かったのだろうが、あとの祭り。真ん中にあるバッグやネクタイなどの小物のエリアを超えて、左手のエリアへ移る。……レディースゾーン。
パッと見ただけでも慣れないデザインの洋服が幾つも映り込む。襟に名称不明のモフモフの付いたコートや、ドレスと見まがうような華美な衣装、幾何学模様の入ったモダンな洋服。
男一人でここに立っていると思うだけで、相当に居心地が悪い気がしてくる。――どうする?
どれを買えばいい? 見回す背筋に緊張が昇ってくる。二十分と宣言した以上、そんなにじっくりと選んでいる余裕はない。
ひとまず寝巻きのある棚に――。
「――お困りでしょうか?」
「――っ!」
真横から掛けられた声に、雷に打たれたように立ち止まる。……強張った肩の上で、ゆっくりと顔をそちらへ向ける。
「お客様。ご来店ありがとうございます」
「……あ……」
「商品をお求めのようですが。よろしければ、何かお手伝いいたしましょうか?」
何回か瞬き。意図せずに呆けた声を出してしまったのは、その霹靂のように突然な出現に対して、目の前の人物の印象が余りに隔たっていたからかもしれない。
――全身から感じられる、磨き上げられた丁寧さ。
声を掛けるのに近すぎない距離を保って俺に相対しているのは、品のいい笑顔を浮かべた、一人の男性店員。聞き取りやすく落ち着いた声の響きとは裏腹に、張りのある肌は若く、二十代の後半から三十の前半程度に見える。肩まで伸びているウェーブの掛かった金髪に、上質そうな金縁の眼鏡。
銀のタイピンで止められた赤色のネクタイに、ベージュのスーツとブラウンの革靴の組み合わせが、柔らかな物腰と併せて店内の雰囲気によくマッチしている。他人の支え役を果たすために洗練されたような……。
「拝見いたしましたところ、女性ものの衣服をお求めのようですが」
「っ、はい」
「何方かへのプレゼントでしょうか。服の種類など、申し付けていただければ」
そんな雰囲気だ。……まるで気付かなかった。
服の方に集中していたのは事実だが、服屋の店員と言うのは、ここまで気配を消せるものなのか。動揺が治まり切らない俺の前で、店員は急かしもせず、控える形でにこやかに返事を待っている。これは――。
「……実はその」
「はい」
「寝間着、見たいのが欲しいと思ってるんですが」
「――寝間着、ですか」
強力な助っ人を得られたかも知れない。平静を心がけて事情を告げた俺に対し、ウェーブの髪を揺らした店員がふぅむと顎を摘まむ。
「差し支えなければですが、贈られる方の年齢はお伺いしても?」
「あ、はい。歳は俺と同じくらいで、身長は平均くらいです」
「ふむふむ、なるほど」
記憶に残る少女の姿を思い浮かべる。当て推量だが、そう間違ってはいないだろう。説明に頷いて、店員が綻んだような笑みを見せた。
「それでしたら幾つか候補があります。パジャマなどは、二階の方に用意がありまして」
「あっ、そうだったんですか」
「ええ。奥の方に階段が用意してございます。ご希望に沿いそうなものをお持ちしましょう」
――頼もしい。
「すみません。ありがとうございます」
「いえいえ」
当たりのいい対応に胸を撫で下ろす。考えてみれば当たり前だ。
別に元々やましい事情で服を買いに来ているわけではない。慣れない買い物を一人でなど気張らずに、専門家に任せればよかったのだ。
そうすれば――。
「彼女様へのプレゼントですから。女性に服を贈るとなると、慣れない事ばかりで緊張しますよね」
「――」
――なに。
「実は、先日にも似たような目的で来店されたお客様がおられまして」
何を言い出すんだ? 瞬きする俺の前で、店員が流れるように言葉を続ける。
「ご様子を見て、ピンと来ました。寝巻きをお探しとは、羨ましい限りです」
「いえ……」
「僭越ながら、少しでもお力になれればと。では、少々お待ちください」
全く的はずれな推理を披露して、本当に此方の事情を考えてくれているのだろう、善意百パーセントの笑みを残した店員が商品棚の奥へ消えていく。……。
――それは、そうか。
当たり前のことに今更気付いたような納得が湧いてくる。俺からしてみれば単に、状況に追われて必要になっただけだが。
同年代の女性の服を男が買いに来ているとなれば、普通はそう考える。探しているのがアウターなどでなく。
寝巻であったのも、親密な関係を想定された原因だろう。……異常なのは俺の方。
俺と少女の抱え込んでいる、事情の方なのだ。普通な推測が当てはまらない時点で、普通でないことに巻き込まれている……。
「――お待たせいたしました」
誤解の上に立っていることと加えて、もやもやした決まりの悪さを覚えていたところで、店員が戻ってきた。手にした数着の衣服。
「幾つか目ぼしいものをお持ちしましたので、お客様の好みにあるものをお選びいただければと」
ハンガーから外したそれらを、手近の棚の上に淀みのない所作で手際よく並べていく。気を利かせたようなウィンク。意味ありげな仕草に僅かの違和感を覚えながらも、並べられた候補たちに目を――。
「……」
「いかがでしょうか」
言葉を失った俺の傍らで、店員は品のある笑みで佇んでいる。事情を全て理解したような顔つきで。
……これは。
「……」
現実であることを確認して、もう一度目の前の洋服に視線を落とす。可愛らしいフリル。
袖口は優雅に彩られ、肩ひもにも装飾が付いている。色は透き通るようなワインレッド。布地の質もよさそうで、デザインが良いことは間違いない。
――ただ一点。
「……すみません」
「はい」
「勘違いかも知れないんですが、これはその……」
素材となっている生地が、本当に透き通っていることだけを除いては。改めて見て、躊躇うようにその言葉を口にした。
「――ネグリジェ、とかいう奴なのでは?」
「はい。当店自慢の生地と縫製で仕立てた、自慢の一品になります」
気負った台詞をあっさりと肯定されてしまう。目にした衣服に使われているのは、台が軽く透けて見えるほど薄手の生地。
「……こっちのガウンは」
「そちらは防寒に拘ったものでして」
素肌を隠すという、衣服の本来の役目の一つが明確に機能不全を起こしている。隣にあるゆったりとした造りのガウンを、店員が粛々と拡げて見せる。……胸元が大きく開いている。
「こちらもお勧めですよ。水兵服をイメージしたデザインで――」
「……すみません」
裾も短く、太腿が出ることを考えると、かなり扇情的だ。続くコスプレのような服、背中が大きく開いている改造制服に軽い頭痛を覚えながら、更なる紹介に移ろうとする店員を差し止める。
「はい」
「こういうのはちょっと、合わないというか」
「そうでしたか?」
ハテナマークを浮かべる店員に、無言で頷く。まるで夜の店か何かだ。
「もう少し普通の、無難な感じのをお願いします」
「そうでしたか。失礼いたしました」
「いえ、済みません」
「いえいえ。――ふむ、お気に召されませんでしたか。これなら色々と捗るかと思ったのですが……」
恋人同士の選ぶパジャマとあって、余計な気を利かせたのだろうが、今回に限っては全く的外れ。余計な世話と言ってもいい。――おい。
スーツの背を睨みつける視線の先で、呟きながら店員が二階に消えて行く。……大丈夫か?
先ほどまでの頼もしさが一転、急速に不安になってくる。選んできたセンスもそうだが、そもそもあんな服が普通の洋服店にあるのがおかしい。
女物の服一つを買うのに、ここまで面倒なことになるとは。時間もそろそろ二十分になる。メンズの方の客に対応しているのか、見回しても他の店員の姿は見当たらない。落ち着かなさげに身体を揺らしていた俺の前に――。
「――こちらの方は如何でしょうか」
戻ってきた店員が、次なる候補を広げて見せる。――これは。
「ご要望には敵っているかと。多少、無難が過ぎる気もしますが」
「……いえ」
抜けがないかどうか検分する。……悪くない。
「――こちらでお願いします」
「――ありがとうございました」
紙袋を携えた青年を見送って、ウェーブの掛かった金髪を持つ男は目線を上げる。ガラス扉の向こうに消えていく背中に、ほほえましい表情を崩さないまま、店内の方に振り返り――。
「まーたお客さんからかってるんすか?」
二階に上がったところで声を掛けてきたのは、馴染みとなる女性の店員。ショートカットの下から、呆れたように溜め息をかけられる。
「済みません。初めての方らしかったもので、つい」
「わざわざ私物の品まで持ち出して。何が楽しいんすかねー」
大仰に肩を竦めた店員の目線が、男が先に見せた候補たちに向く。双眸を見開いて。
「うっわ、めちゃくちゃエロい奴じゃないっすか。どんなからかい方したんすか、これで」
「恋人用の贈り物を探していらしたようだったので。ご要望に合うかとお持ちしただけですよ」
「またそんなこと言って。この間のお客さんもカンカンだったんすからね、まったくもう」
無駄だと分かっていても窘める、その良識のような態度に男は少なからず好感を覚える。男の持ち家であるこの店舗には、店の奥に隠れるようにして居住用の空間があり。
「クレームが入って怒られても知りませんよ、店長」
「できることなら、女性の方に叱られたいものですね。貴女のような」
「はいはい。裁縫と服飾の腕はいいんすけどね~。どうしてこうなってしまったんだか」
そこに男のこうしたコレクションが収納されている。首を振って仕事に戻って行く、スレンダーなその背中を見送って。
「……彼がそうですか」
男が、小さく呟いた。声音の温度を落とし、誰にも聞こえないような溜め息と共に。
「ティエス嬢に見初められるとは。不運と言うか、幸運と言うか」
眼鏡の奥の瞳が、外貌にそぐわない不可思議な色味を帯びる。溜め息を止めた次の瞬間には、先ほどまでと変わらない、柔和な微笑みが浮かんでいた。
「また会いましょう、青年」
『ギムレット』の店長である男――エリティスは踵を返す。
「世界が燃え落ちるその前に。願わくば、君が望んだ世界の中で」
「――戻った」
「あ」
帰還した自宅。
「っお、お帰りなさい」
「ああ」
長く伸びた廊下の途中にある、一枚板のドア越しに声を掛ける。中から聞こえてくる慌てたような声、脱衣所にいる少女に向けて、ドアが開く側の壁に紙袋を置く。
「……その、どう」
「リビングの方にいる。合うかどうか着てみてくれ」
「――っ、分かりました」
必要以上の覚悟が決まっているような返事を耳で受けて、廊下を抜ける。ガラス窓の填まった扉を閉め。
「……ふぅ」
リビングのソファーへ体重を預ける。徐に仰いだ天井から、LEDライトの光が零れ落ちてくる。
まさか……。
――服一着が、あそこまでするものだとは。
俺が普段買っている洋服の三倍はする。デザインや機能性を見る余り、値段のことが疎かになっていた。
妙なラインナップを断るのに気を取られていたせいでもあるが。如何にもといったリボンとメッセージカード付きのラッピングを断るのにも苦労した。彼女へのプレゼントだと思い込んで勧めてくる相手に、自分で包みたいからという理由でどうにか断り。
「……」
ようやく戻って来られた。……疲れた。
肉体的には大した労働でもないはずだが、精神的な疲労が溜まっている。今は少し――。
「――黄泉示さん」
掛けられた声に、閉じかけていた目を開ける。少女。
「あがりました。その」
着替えてきたのだろう。扉の閉まる音。佇んでいる気配に、気だるげに体を起こす。他人がいる以上、こういったやり取りが発生する。
一々手間取るが、無視というわけにもいかない。重たげな気分のまま、振り向きざまにああ、と気のない声を上げるつもりでいて。
「――」
相手の姿を目で見たとき、声を失った。
――白地に青の格子模様が入った、セパレートタイプのパジャマ。
可愛らし気な装飾などはなく、単体では少しクールな印象を受けるデザイン。品がよく、俺が渡すとしても無難だろうと思って選んだ代物だったが。
「……」
少女が身に着けたことで、一気に可憐さが付与されている。白地を走る青のストライプは、まるで春の小川。
サイズ感も丁度よく、緩やかなシルエットがダボつかない程度に身体を覆っている。風呂上がりということもあってか、幾分艶やかな輝きを放つ白銀の髪が、煌めく雪のように映えている。慎ましやかに佇んでいる相手の姿に。
「……どうだ?」
「凄くいいです。柔らかくて」
見蕩れていたことに気が付いて、誤魔化すように声を絞り出す。軽く斜を向く俺の仕草には気付かなかったのか、小さく微笑んだ少女が視線を落としながら感想を述べてくる。
「軽くて、動き易くて。風通しがいいのに、凄く暖かいんですね」
確かめるように手脚を動かす。素材はガーゼで、吸水性のほか、保温性、通気性、速乾性などに優れているらしい。
素材の中でもとりわけ肌に優しいとのことで、女性へのプレゼントとなら最適ということまで店員がプレゼンしていた。……。
――俺としては、大したつもりで買ったわけでもない。
元々の動機は必要に応じただけ。品物にしても店員に勧められるまま、面倒を避けるために出てきた選択肢に飛びついただけだ。とても気持ちが籠っているなどとは言えない。
それでも。
「ありがとうございます、黄泉示さん」
目の前の少女は、喜んでくれている。他人の善意を信じているような、混じりけのない笑み。どことなく気恥ずかしさも籠っているような表情を理解して――。
「……ああ」
それとなく、視線を背けた。……少女の笑顔は純粋だ。
「――風呂に入ってくる」
「はい」
「リビングは好きに――テレビとかも見ててくれていい」
「分かりました」
「眠たくなったら寝ててくれ。じゃあ」
だからこそ、直視し続けるには眩しさが強すぎる。入れ替わりになる形で、廊下へ。部屋に運んだ私物の中から着替えを取り出し。
脱衣所の扉を閉めて、小さく息を吐く。……本当に。
擦れたところのない少女だ。仕草の一々が純真で、裏表がない。
なるべく事務的に接しようとしている分、かえって態度に困らされる。……何分今日は疲れた。
風呂くらいはゆっくりと入って、疲労を癒すことにしよう。着替えごとバスタオルを床へ放り投げる。上を脱ごうと手を掛けたところで――。
「……?」
ある物が目に留まった。ドライヤー。
電源コードが刺さったままのプラスチックの躯体が、洗面台の上に置きっぱなしになっている。少女にしてはらしくない。
あの気遣い振りなら、綺麗にコードまで巻いて仕舞っておきそうだが。それだけ慌てていたのだろうか。多少首を捻りながらも、動作を――。
――あ。
「……」
再開しようとしたところで、思い至る。……そうか。
そういうことか。ドア越しに声を掛けたときの、少女のリアクションの意味。
人一人の着替えを調達してくるならば、致命的に足りなかったもの。自分が用意した着替えに目を遣る。……間が抜けている。
本当に。力の抜けるような気分を味わいつつ、シャツごと上を脱ぎ捨てた。




