プロローグ
――その少年は、壁を見つめていた。
いや、なにも見ていないと言うほうが適切だったかもしれない。年相応の、まだ幼さが多分に残る彼の顔には、ぽっかりと空いた穴のような、底抜けの空虚さが瞳として浮かんでいる。
――どうして。
赦せない。どうでもいい。意識に溢れかえる言葉たちをどうすることもできずに、ただそれらが自分の中でなにかを壊していくのを淡々と意識している。今までの自分、自分を今まで支えてきたもの、大切だったはずの、なにか――。
それらが全て無くなってしまったことを知って、少年は考えることをやめた。
「……」
――目の前の少年は、先ほどからひたすらに壁を見つめている。
蹲る背中に生気といったものは感じられない。どこまでも虚ろで、生きながら死んでいるかのような在りようをしており。
――この少年をこんな風にしてしまったのが、他ならない自分であるということ。
「……誰?」
今一度それを噛み締めた男が、前に踏み出す。人の気配に気が付いた少年が振り向く。こちらを向いているはずの視線は、焦点が合っておらず。
虚の瞳は、男の上で辛うじて頼りない交差を結んでいるに過ぎない。表情以上に温かみを感じさせない声の音が、以前の少年を知る男にとっては、余計に辛いものだった。
「……迎えに来た。聞いてるとは思うが、今日から俺がお前の面倒を見る」
「……」
言葉を聞いた少年の表情に変化はない。手を男に掴まれ、立たされたときも、手を牽かれて歩かされる間も。その目はどこか、どこでもない場所に向けられているようだった。
――受けた心の傷が大き過ぎて、目の前の現実を正しく理解できていないらしい。
人形のような無反応を痛ましく思いながらも、どこかで抵抗のなさに安堵している自分を男は情けなく自覚する。門を出た直後――。
「あ……」
住み慣れた家屋、思い出の詰まった家との別れを今になって理解したように、少年が立ち止まる。自身の家を見つめる面の中で、虚ろだった瞳の奥に、一瞬だけ微かな何かが光る。
「……行くぞ」
そんな少年の手を男は半ば強引に牽いて行く。この別れが少年に更なる心の傷を負わせはしないかと危惧しながらも、それ以外に為すすべなどない。
――思い出がある場所というのは、確かに大切だ。
だがその分、囚われるものも多くなる。両親の記憶の残るあの場所にいる限り、少年が新たに自分の道を見つけ出すことはできないだろう。
理性的な判断を自らに言い聞かせ、心を鋸で刻むような痛みを受けながら、男は前へと歩き続ける。少年を連れて。
――結局目的の場所に着くまでの間、少年が自分から脚を動かすことはなかった。
――男の家に来た少年が部屋に閉じ籠ってから、数か月が経過した。
「……」
今、手に熱々の料理皿の乗った盆を持ち、自分でも似合わないと思えるエプロン姿を披露しながら、男は少年の部屋の前に立っている。日に少なくとも五回。
「……おーい」
起床、就寝、それに三度の飯時。名目となる機会があるごとに、扉を隔てた少年に声を掛ける。この数か月の間、一日たりとも休むことなく男は少年とコミュニケーションを取ろうと努力してきた。
「起きてるかー? 今日の晩飯は、カレーだぞーっ!」
声のあとに口を閉じて耳を澄ませる。……返事はない。
「小父さん特性、旬の食材を七時間も煮込んだスペシャルカレーだ! きっと舌がとろけるくらい美味しいぞー!」
相変わらずの無反応だが、部屋の中で微かに蠢いている気配がするので、起きてはいるのだろう。しばらくその場で待ってみるも、少年から期待したような返事はない。
駄目かと予想して、心の内側で小さく息を吐く。この分だと、また違う手立てを考えなければならない。
「……ここに置いとくぞー。熱いから、食うときは気を付けろよ」
子どもたちに人気のメニューという風聞を念頭に、調理本を見ながら悪戦苦闘して作り上げたカレーだったが、成果は上がらなかったようだ。湯気を放つ皿にしっかりラップがかかっていることを確認して、包丁で傷だらけになった手をポケットに突っ込んだ男は、重たい足取りで部屋から離れていく。……今回も駄目だった。
得物さえあれば容易に切り裂けるはずの薄っぺらい木製の扉だが、今ばかりはまるで、分厚い鉄の塊で作られた要塞の扉のような気がしてくる。あの部屋の入り口が開かれるには一体、あとどれだけの時間が必要なのか。
「……」
できることなら、それがなるべく早いものになることを、男は心の底から切に祈っていた。新しい道を歩き出すならば、早い方がいいはずだ。
男のためでなく、何より少年自身のために。……寝る前にはなんと声を掛けるようか。
「――」
そんなことを考えながら踊り場に差し掛かった矢先に、男の耳にドアノブを回す音が届いてくる。これまで一度たりとも同じ階では聞いてこなかったその音に、信じられないような気持ちで振り返る。
「……っ……!」
足を止めた視線の先、古びた一枚板の木戸が、蝶番を軋ませながらゆっくりと開かれていく。扉の陰から薄い気配を漂わせて、一人の少年が廊下に出てきた。
「……下で、食べる」
「……お、おお」
乱雑に伸びた黒い髪の下、暗色に染められた瞳が、男の顔を静かに向く。驚きから反応しきれない男を置いて、
ぎこちなく身体の向きを変えた少年が、置かれた盆を持ち上げて階段へ向かう。カレーの重みに少しふらついた身体が隣を通り過ぎるのを目に、男が慌てて少年へと駆け寄った。
「ッ重いだろ、持つか?」
「……いい。大丈夫」
少年のあとに続くようにして男も階段を下りて行く。覚束ない危なっかしい足取りを、ハラハラする心境で見守り抜いたのち――。
「……まずい」
「なんだとぉっ⁉」
眉をしかめた忌憚ない少年の感想に、男の口から衝撃の叫び声が上げられる。それが二人の交わした、初めての食卓での会話となった。