三歩目
婚約破棄を突きつけられたあの瞬間、私は「私」になる前の記憶を思い出した。
いわゆる、前世と呼ばれる類のものだ。
その記憶の中で、私はあるゲームをプレイしようとしていた。まさに、この世界を舞台にした物語を。
けれど結局、それを最後までやることはなかった。
――そもそもの始まりは、SNSで見かけた一枚のキャラクタービジュアルだ。女性向けのゲーム会社から出たアプリゲーム。
一目惚れだった。タイトルも内容も碌に確認せず、吸い込まれるようにダウンロードボタンを押した。どんなストーリーが待っているのかと胸を躍らせ、スマホを握りしめてベッドに寝転んだ。
画面をタップすると、暗い部屋が映し出され、低いナレーションが流れ出す。
「いい声……。ヒーロー視点から始まるのかしら」
うっとりと画面を見つめる私。ナレーションが進むにつれ、暗闇だった部屋がゆっくりと光を帯びていく。
けれど、見えてきた景色に違和感を覚え、首を傾げたその瞬間――。
「ギャァアあああ!」
画面いっぱいに骸骨がドアップで映し出された。
ホラーが壊滅的に苦手な私は、悲鳴とともにスマホを放り出し――それが、そのまま顔面に落ちてきた。
「痛ッ!」
死んだ記憶はない。けれど、私の前世の記憶は、鼻の奥がツンとするような痛みとともに、そこでぷっつりと途切れていた。
ーーー
「お邪魔させてもらうよ」
「そこに座っていてください。今お茶を淹れてきます」
背後で床を叩く、軽やかな足音が響く。その音がやけに鼓膜に残り、私は逃げるように彼に背を向け、家の奥へ向かう。
火にかけた鉄瓶が鳴り始めるのを待ちながら、ようやくひとつ息を吐く。
ここは我が家が保有する別邸。誰に顧みられることもなく、存在すら忘れ去られていた場所だ。
侯爵令嬢の住まいとしては決して広いとは言えないが、今の私にとっては、この狭隘さこそが何よりの安らぎだった。
あのあと一先ず、殿下には外套で頭から足まですっぽりと隠してもらい骨が見えないようにしてもらった。そして落ち着いて話をするため、私が今暮らしている家へと誘った。
腰を抜かしていた私を殿下が背負おうとする一悶着もあったが、どうにか自力で歩ける程度には持ち直した。
私が先導する形を取れたのは、せめてもの救いだった。背中を焼くような視線は意識せずにはいられなかったが、それでも顔を合わせずに済むという事実は、荒れた呼吸を整えるのに十分な猶予を与えてくれた。
戸棚からティーセットと茶缶を取り出そうとして、ふと手が止まった。
(そういえば、ここに来客なんて想定していなかったわ)
並んでいるのは、どれも自分用の質素なものばかり。高価な銀器も、来賓用の名茶もない。
――けれど。
私は茶缶を手に取り、そのまま戸棚を閉めた。
あんな騒動の後だ。今さら形式張ったもてなしを整えたところで滑稽なだけだろう。
取り繕う意味などない。私は自嘲気味に息を吐くと、そのまま準備を続けることにした。
「……ここに住んでいるのか?」
「侯爵家の別邸としては質素に見えるかもしれませんが、私には十分すぎる広さなんですよ」
背後で衣擦れの音がし、殿下が室内を検分するように見渡している気配が伝わってきた。 私は彼の方を振り返らぬまま応じる。
沸き立った湯を注ぎ、まずは器を温める。余分な水分を捨ててから、茶缶とポット、そして二つのカップを盆に載せ、木目の柔らかなテーブルへと運んだ。
椅子に腰を下ろした殿下の前で、茶缶の蓋をそっと開ける。
中には、夜を閉じ込めたような深く鮮やかな青い花弁。それらが触れ合う「かさり」という乾いた音が、静まり返った部屋にやけに大きく響いた。
ポットに花弁を落とし、湯を注ぎ入れる。
透明だった水がゆっくりと脈打つように色を変え、次第に深海のような重みを帯びていく。
その揺らめきをじっと眺めながら、私は乱れがちな心根をひとつ、整える。
頃合いを見計らい並べたカップへ交互に茶を注ぐと、コポポと柔らかな音が静かな室内に溶けていく。
立ち上る湯気が、わずかに二人のあいだをやわらげた。
「どうぞ」
殿下の前に差し出すと、彼は一瞬言葉を詰まらせた。
「僕は……いや、ありがとう」
どこか戸惑ったような声音に内心首を傾げながら、私も向かいに座り、自分のカップを持ち上げる。
立ちのぼる湯気とともに、ほんのり甘い香りが鼻をくすぐった。
「綺麗な色だ」
フードを深く被って体を隠している殿下は、カップの中で綺麗な青い色が揺れているのを見つめた。
殿下の視線がカップへ落ちる。
中で揺れているのは、透き通るような青。
「バタフライピーです。チョウマメの花から作るお茶で、アントシアニンという成分がこの色を出しているそうですよ」
美容や眼精疲労、ストレス軽減にも効果があるらしい。
今の私には、これ以上なく「ちょうどいい」飲み物だった。
一口含むと、柔らかなハーブの香りが鼻腔を抜け、張り詰めていた神経がわずかに弛緩していく。
ふと視線を上げると、殿下の前のカップは湯気を立てたまま、全く手がつけられていない。
「飲まれないのですか? 安心してください、毒は入れていませんよ」
やはり、不用意に口にするのは危険だと判断されたのだろうか。
それとも、この安物の茶葉ではお口に合わなかったか。せめてものリラックス効果を狙ったセレクトだったのだけれど――。
そんな皮肉を込めて半ば冗談のつもりで問いかけると、殿下は困ったように眉を下げて苦笑した。
「いや、疑っているわけじゃないんだ。ただ……」
「ただ?」
何だかはっきりとしない殿下に私は戸惑いながらも、別に無理して飲まなくても大丈夫だと伝えるが「違うんだ」と首を振る。
言い淀む様子に首を傾げる。
そして、彼は少しだけ気まずそうに口を開いた。
「骨になっているから、飲めないんだ」
「…………あっ」
確かにその通りである。
その観点は忘れていた。骨というからには、もし無理にお茶を啜ったところでその液体は一体どこへ消えるというのか。受け止めるべき胃袋という「器」が存在しない以上、喉を通った瞬間に肋骨の間をすり抜け、そのまま床へ直行する未来しか見えない。
「骨」という異形を、無理にこれまでの「殿下」として扱おうとした弊害がこんな初歩的な形となって露呈してしまった。
「先に声をかければよかったね。せっかく淹れてくれたのに、勿体ないことをさせてしまった」
「いいえ。私の方こそ、あまりに思慮が足らず……申し訳ありませんでした」
謝罪を交わすと、殿下はふっと柔らかく笑った。
「気持ちは嬉しかったよ。ただ、僕の分まで用意されているとは思わなくて驚いたんだ。……君には、嫌われていると思っていたから」
――嫌っているのは、貴方のほうでしょう。
喉元まで出かかった刺々しい言葉を私はかろうじて飲み込んだ。
「……お客様にお出ししないわけないじゃないですか」
「そう、だね。ありがとう」
それきり会話が途切れ、室内に気まずい沈黙が居座った。
これ以上、不毛な過去の確執に触れるつもりはない。私は逃げるように視線をカップのふちへ落とし、本題を切り出した。
「それで……一体、何があったのですか」
殿下は静かに息を吐き、膝の上で組んでいた白い指先をゆっくりと解いた。
「詳しいことはまだ調査中なんだが――」
語り始めた彼の言葉を、私はカップの揺れる水面を見つめたまま耳を澄ませた。
それは突然のことだった。いつも通り自室で夜を過ごし、次に目が覚めた時にはこの姿になっていた。
寝て起きたら自分が骨になっていた。悪夢を見ているのかと疑いはしたが、僕が王位に就くのを快く思わない連中が刺客を送ってくるのは今に始まったことじゃない。
だから今回もそいつらが呪いをかけたのだと思い、すぐに呪詛を解く方法と実行犯の洗い出しに心血を注いだ。
あぁ、もちろん。外部の要因も同時に探るため、僕が心から信頼できる最低限の人物だけに事態を打ち明け、隠密に動かしたよ。
……けれど。いくら調べ尽くしても、何一つとして痕跡が見つからなかったんだ。
日頃から命を狙われる身だ。食事や身の回りには常に細心の注意を払っている。寝る前に細工でもされていれば、何かしらの違和感に気づいたはずだ。
犯人も原因も、すぐに引きずり出す自負はあったんだけどね……。
え? なら就寝中に何かされたのではないか、って?
確かにそう考えるのが妥当だろう。だが、たとえ眠っていたとして部屋に侵入者がいれば気配で気づく。それに、僕の寝室には刺客対策の術式も施してある。だからその線も薄い、と思いたい。
……呪いの糸口を見つけない限り、断定はできないのだが。
いつ、誰に、何をされたのか。そして、どうすれば元の姿に戻れるのか……。
殿下の独白は、そこで一度途切れた。
「現時点で判明していることが、何一つとしてない状況なんだ」
「何も、分からないって……」
事態を秘匿しているとはいえ、国内の精鋭を集めた調査機関ですら解明できないなんて。
殿下にこれほどの術をかけた者がいるのなら、それは歴史に名を残すような魔道の手練れか。あるいは殿下の寝所にまで忍び込んでも問題ないような、最も身近な裏切り者の仕業であることを示唆していた。
もしこれが敵対国による工作であれば、国家機密が筒抜けになっている恐れすらある。
「僕という単体を狙った私怨であればまだいい。だが、敵の目的が見えない以上、国民にまで被害が及ばないとは限らないんだ。こんな事態が公になれば、国の威信も安全も一瞬で崩れ去るだろう」
骨の手を固く握りしめ、殿下は声を絞り出した。
「現在、僕は療養中として表舞台から姿を消しているが、そんな誤魔化しがいつまでも通用するはずがない。これを好機と見て動き出す不穏分子もいるだろう。……何より、僕は国民を危険に晒したくないんだ」
「そのお気持ちは、私も同じですが……」
私は一度言葉を切り、指先で静かにカップの淵をなぞった。
陶器の冷たい感触が、高ぶる思考を落ち着かせてくれる。
「……なぜ、これほど重大な機密を私に打ち明けたのですか?」
犯人の目星さえついていない現状、彼が護衛も連れず単身で私の元へ現れた理由は理解できる。誰を信じ、誰を切り捨てるか、その選別の最中なのだろう。
だが、その「信じる候補」の中に、なぜ私が入っているのかが分からない。
今の私は、他の高潔な侯爵たちとは違う。良く言えば自由闊達で臨機応変、悪く言えば侯爵令嬢の枠をはみ出した不相応な存在だ。よりにもよって、なぜそんな私に……。
「君が、僕の婚約者だったからだ」
――あぁ。ここでそれを、貴方が言うのですか。
それは、幼い頃に結ばれた無機質な契約だった。身分と利益、そして大人の都合。そんな乾いた理由だけで、私は彼の婚約者に据えられたのだ。
話を持ちかけてきたのは、あちら側だったという。
私の父は貴族社会においては稀有な人で、常々「もし他に好きな人ができたら、自分の気持ちを優先しなさい」と言ってくれていた。けれど、幼い私にさえそれがどれほど困難なことかは痛いほど理解できていた。
幼少期は「若さゆえ」と看過されていた自由も歳を重ねるにつれ、外堀を埋められるように許されなくなっていく。その中心にある呪縛こそが目の前の男との婚約だった。
「……えぇ。『元』、ですけれど」
私の放った一言が、冷たい楔となって部屋に打ち込まれた。
途端に重苦しい沈黙が私たちの間に立ち込めた。




