一歩目
いつからだったか、何が原因だったかも分からない。
けれど、彼に対して抱く苦手意識だけは、年々確実に膨れ上がっていった。
だからこうなることは必然だったのかもしれない。
『婚約はなかったことにしよう』
彼のその言葉を聞いて湧き上がったのは、悲しみでも怒りでもない。「あ、これ知ってる」だった。
予習していた問題が試験に出たような閃き。あるいは、パズルの最後のピースがかっちりとはまったような爽快感。
彼のその一言で、私はようやく理解した。
私がずっと彼に対して抱いていた感情。それは「苦手」などではなく――「恐怖」だったのだと。
「いやぁ~! あのときのスッキリ感は凄かったなぁ! ……って、おっといけない。口調がよろしくないわ」
あのときの懐かしさを覚えていたら、思わず懐かし過ぎる過去の私が出てきてしまった。
ここは王都の外れにある、森の奥深く。誰も近づかないようなそんな場所で、今の私は生活をしていた。
陽光すら遮るほど生い茂った木々は、その枝葉の隙間からまだらな光となって、地面に織り成す陽光と影のコントラストとなっている。それはまるで自然が紡ぎ出した私だけが知る秘密の絵画だった。
「……まぁ良く例えるならの話だけれど」
周りを見渡して思わず半目になりながら、抜いても抜いても数日後には元通りになっている雑草をぶちぶちと手作業で撤去していく。
デザイナーと使用者の存在とでもいうのだろうか、光があまり届かないこの場所は避暑地として短時間滞在するなら素敵に思えるが、長く居るには少し気が滅入る鬱々とした場所へと変貌する。
そんな神秘的カッコワライと、皮肉でも混じってそうな言葉が付きそうな空間の片隅で、私――エレノア・ブルームはひっそりと暮らしていた。
「よし。今日はこれで終わり……っと」
なるべく陽当りがいい場所に作った田畑。そこに芽吹いたばかりの若葉にそっと触れる。しゃがみ込んで作業をしていた私の背中はささやかに降り注いでいた太陽の光でぽかぽかと温かくなり、木の葉を揺らすそよ風がゆっくりと頬を撫でていった。
泥で茶色く染まった軍手とエプロンを手で軽く叩いて土を払い落とす。
そして質素な装いをしている自分を見下ろし、今までの生活と雲泥の差に思わず苦笑いを漏らす。
「結局、私はこういうことをする方が性に合ってたって話よね」
ぽつりとこぼれた言葉は、誰に届くでもなく森の静けさに溶けていった。
ここに来てからめっきり誰とも会話をすることがなくなったせいで、ひとりごとが上手になった気がする……なんて、そこには諦めに似た達観とわずかな自嘲が混じっていた。
「あの頃に関わっていた人たちは、今の私を見ても変わらずに会話をしてくれるのかしら?」
かつては彼の婚約者だった私。だけど今では、悪女のレッテルを貼られ、森の隅で土をいじって生きる元婚約者。
婚約破棄された瞬間は物語を見ているような感覚だった。だけど時間が経つにつれて、これは現実なのだと実感が湧いていった。
「だって婚約を破棄されるまでは人に囲まれる生活だったのに、今じゃ木に囲まれてるんだもの……」
あの人の婚約者としているために、隣に立っても恥ずかしくないようにと重ねた努力。辛いことがあろうと投げ出さずに向き合ってきた今までの何もかも……それがあの瞬間、全て無に帰した気がした。
一変した環境に関係。立場が変われば見方が変わるというが、味方まで変わるなんて知りたくもなかった。
人というものに対してこんなに複雑に絡まった感情が生まれてしまうなんて……。
いったいどこが駄目だったのだろう。あるいは、最初から全てが間違っていたのだろうか。そんな問いが心に浮かぶ。
「あーもう! 何をくよくよしてるのよ!」
自分を叱咤するように頬をぺちりと叩き、ぶんぶんと首を振る。
「ずっと下を向いて作業をしていたせいね!」
そう、そうに違いない。そのせいで気持ちまで下を向いてしまったんだわ、と根拠のない言い訳を自分に押しつけながら私は立ち上がった。
凝り固まった体をほぐすように丸めていた背中をぐっと反らし、思いっきり手を空に向けて伸ばした。
ここには余計な詮索も噂も皮肉もない。泥だらけの手でも髪に葉っぱが絡まっていても誰も何も言わない。時間に追われることもなく好きなように動ける。そんな自由でいられる環境なんて素敵じゃない。
目を閉じ、深く息を吸い込む。土の匂い、肌を撫でる風のやさしさ、遠くで響く鳥のさえずり。それだけで胸の奥がじんわりと温まっていく。ここには誰もいなくても、この森だけはいつだって私の心を癒してくれる――はずだった。
カタ、カタ……。
「……ん?」
不意に奇妙な音が耳に届いた。
それは風で葉が揺れる音ではない。何か乾いたものが触れ合うような――そんな音が木々に隠れた茂みの奥から一定の間隔で響いてくる。
カタ、カタ……。
カサ、カサ……。
カタ、カタ、カサ、カサ……カタ……。
(何の音……?)
自然の息吹と調和してない音。その音が明らかにこちらへと向かって進んでくる。
(動物にしては音が一定過ぎる)
違和感が近づくにつれ、それは次第に恐怖へと変わっていく。
立ち止まることもなく、一定の速度で近づいてくる音。まるでここに何か目的があるかのような動きに、私は咄嗟に地面に転がっていたスコップを拾い上げ、武器のように構えた。頼りにはならないかもしれないけれど、身を守るための武器になりそうな道具なんてこれくらいしか身近に見当たらなかった。
手がかすかに震える。ぐっと歯を食いしばり、枝と葉をかき分けながら進んでくるその“何か”から、目を逸らさずにじっと睨みつける。
――ガサッ、ガサッ……。
音が止まった。
その瞬間、森全体が息を潜める。風が止まり、鳥の声も消える。自然が沈黙したような空間に、私の鼓動だけがうるさく響く。
(大丈夫。大丈夫よ。怖いと思うから怖くなるのよ……!)
ざわつく胸を落ち着かせるように自分へと言い聞かせる。心臓の音が耳の奥でうるさいほど鳴り響く。喉が渇き、手のひらがじっとりと汗ばむ。
「そこに誰かいるのッ?」
声が少し上ずった。
張り詰めた空気の中に私の声がぽつんと落ちると、沈黙の中から1つの影が現れる。
その場所だけに光が綺麗に零れ、木々の影からゆっくりとスポットライトのようにその形を照らしていく。すっぽりと上から下まで黒いマントで覆われたソレはゆっくりと静かにこちらへ向かって歩いてくる。一歩、また一歩と歩く度にマントが揺れている。そして最後の1歩を茂みから抜け出した時、その全容が見えた。
私はその姿を見た瞬間、息を呑み、無意識に後ずさった。
「久しぶりだな、エレノア」
聞き覚えのある声だった。忘れるはずのない、私の人生を一変させたその声。
その人は静かに手を上げ、フードを外して顔を晒す。
「ぁ、……ぁあッ……!」
その顔を見た瞬間、喉の奥から引きつった声が漏れる。恐怖が全身を駆け巡り、理屈よりも先に体が動く。
逃げなきゃ――ッ!
スコップを握りしめたまま、私は踵を返し全力で走り出した。フードの下から見えたソレの顔が脳裏に焼き付き、何度瞬きをしても消えてくれない。
「おい、待て!」
見間違いであってほしかった。聞き間違いであって欲しかった。
けれど私の本能は、警鐘を鳴らし続けていた。
「待ってくれッ! エレノア!」
背後から彼が追ってくる足音が聞こえる。あのときの声で私を呼ぶ。昔の私だったらその声を聞くだけで笑顔を向けることが出来たのに、今の私ではその声すら恐怖を感じて引き攣ってしまう。
「や、やだ……来ないでッ!」
どんなに必死に走っても、どんどん距離が縮まってくるのがわかる。
涙で視界が歪み、足元がぼやけて見えなくなる。今の私は焦りだけで体を突き動かしていた。
「ぁ……!」
木の根に思い切り足を引っ掛け、私は前のめりに勢いよく倒れる。
土の匂いが鼻に入り込み、泥と枯れ葉が頬に張り付いた。打ちつけた膝や手の平がじんじんと痛む。でもそれ以上に、彼を視界に入れたくない恐怖がすべてを支配していた。
地面に伏したまま、堪えていた涙がぽろぽろと零れ落ちる。
「ぅ、ぅう……」
すぐそばで、カサッ、と葉を踏む音がした。
「エレノア」
上から落ちてきた声に体が勝手に震えだす。
(あぁ、どうしてこんな目に合わないといけないの……!)
見たくない。見たくないのに。それでも私はその声に抗えずゆっくりと顔を上げた。
涙と土で濡れた視界の向こう――ソレが目に入った瞬間、私は叫んだ。
「ギャアアアアアアッーーーー! 悪霊退散ッーーー!」
森一帯に響き渡る私の悲鳴。どこにいたのか驚いた鳥たちが一斉に羽ばたき、木々がざわめく。そのすべてが過ぎ去ったあと、森は再び静寂を取り戻した。
抓めるところなんてどこにもない白い顔に吸い込まれそうになる黒い眼。
皮膚も筋肉も、何ひとつ残されていないその姿が虚ろな眼孔でこちらをじっと見つめている。
そんな彼が慌てたように「えっ、おい!」と声を上げているのを最後に私の意識は途絶えた。
エレノア・ブルーム。
かつて王子の婚約者だった令嬢は――“白骨”と化した元婚約者と最悪の形で再会を果たしたのだった。




