第10話「新たな道」
――痛む頬とお腹を押さえながら、ふらふらと夜道を歩く。僕はもう、どうしたらいいのか分からなくなっていた。故郷を皆に、姉さんに見送られて旅立ったあの日……その先に、こんなことが待っているだなんて、ちっとも考えてはいなかった。僕の冒険は、約束されたものだった……はずだから。
今までだって、一歩でも間違えたら酷い目に遭ってしまう道だってあったに違いないと思う。だけど、僕には無縁だとも思っていた。明るく、楽しい、胸ワクワクの冒険だけが待っていると、僕は信じて疑わなかった。それなのに、今は。
全身が軋み、口の中までもがズキズキと痛む。生乾きの服は破け放題……そんな姿を晒して、僕はどこへ行こうとしているのだろうか?
魔法の光は暖かくも冷たくもなく、匂いもない。ただ、光っているだけだ。そんな無味乾燥な光に照らされている今の僕に、進むべき道などあるのだろうか?
※※※
――道がないのは、私も同じだ。
いつからか……いや、きっと最初から、小説には私の境遇や想いが入りこんでいた。そもそも、小説は自分を投影したものなのだろうと思う。それを読者……第三者にも分かるような形に整えたものが小説であり、物語なのだ。
……ふと、黒埼先輩のことを思い出す。黒埼先輩はとある雑誌の取材で、記者からこんな質問を受けていた。
「この小説で伝えたかったことを、一言で表すと?」
その問いに対する、黒埼先輩の答えは明快だった。
「一言で表せるなら、一言で書いています」
……その通りだと、私も思う。一言ではとても言い表すことのできない想いがあるから、そして、それを誰かに伝えたいからこそ、私は言葉を紡いでいるのだ。でも、もう誰に見せるという当てもなかった。私は、また独りぼっちになってしまったから。
だからといって、自分の作品に八つ当たりするのはどうかとも思う。だけど、それ以外にどうすればいいというのだろうか? コンテストへ応募するという加奈子との約束も果たせなくなった私に、他に何ができるというのだろうか?
――それでも。それでも私が小説を書き続けている理由は、その、理由は……。
私は七福神君に連れられて、新たな世界ニュー・ネストへとやってきた。
七福神君は私に力をくれた。スマートフォンの形をしているそれは、この世界のあらゆるものに干渉できる端末だという。そして、七福神君は姿を消した。
……私はこんなものを使う気は毛頭なかったけれど、使わざるを得なくなってしまった。空腹。単なるデータの私だって、そう設定されている以上、お腹が減ってしまうし、喉だって渇く。七福神君から受け取ったスマホには電子マネーが上限までチャージされていて、いくら使っても金額が減ることはなかった。
夜になって、私は泊まる場所を探す。スマホは出来るだけ使いたくなかったので、公園のベンチで横になっていたら、複数の男性に襲われた。スマホを掴んでどこかへ行ってと願うと、男達は本当にどこかへと行ってしまった……跡形もなく。
スマホを使えば自分の姿を透明にすることもできるし、天候だって思うがまま。そうと願うだけで、まるで脱皮したみたいに頭の先からつま先まで清潔になってしまうものだから、お風呂も洗濯機も、それに、トイレだって必要なかった。
電子マネーを使わなくても、食べ物だって出てくるのではないかと思って試してみたら、本当に出てきた。瑞々しいオレンジの断面図が見るからに美味しそうな、果汁百パーセントのオレンジジュース。まるで、未来からやってきた猫型ロボットになった気分。今度は加奈子を出そうとしたけど、出てこなかった。
……この世界に来てから、どれだけの時が経ったのだろうか? 私にとって最後の拠り所は、麻耶さんだった。麻耶さんも七福神君と同じ世界に住んでいる神様の一人だから、何とかしてくれるかもしれない。私を助けられるかもしれない。
……そうだ、もしかするとこの世界にも麻耶さんがいるかもしれないと、私はスマホの検索で探し出した世界中の「宮内麻耶」さんにメールを送信したけれど、返事はなかった。きっと、同姓同名の別人だったのだろう。私は絶望した。
願えばなんでも叶えてくれるのに、私が本当に叶えて欲しいことは何一つ叶えてくれないスマホは、私の命を消すこともできなかった。
……私はこの世界で、何をすれば良いというのだろう? 麻耶さんの存在が、いかに私を支えてくれていたか……今の私には、それが痛いほど良く分かった。今は誰も私に手を差しのべてくれないから。誰も、私の名前を呼んでくれないから。
――深夜。私は適当なビルを選び、その屋上を目指して階段を上り続けた。スマホに願えば富士山の山頂だろうと、スカイツリーの頂上だろうと、一瞬にして行けるだろうけれど、私は自分の足で上りたかった。一歩一歩、踏み締めながら。
屋上の扉は南京錠で閉ざされていたけれど、私にはなんの妨げにもならなかった。鍵を外し、屋上に出る。転落防止の高いフェンスも、ポンと軽く飛び越える。まるでスーパーマン……いや、スーパーガールかな? そんな私がビルから落ちたぐらいでどうにかなるかは分からない。それでも、やってみるしかなかった。
ビルの際に立って、町の底を見下ろす……気が遠くなりそうなほどの高さ。怖い。だけど、願えばその怖さも消えてしまいそうで、それが何よりも怖かった。
「空子ちゃん!」
――振り返ると、麻耶さんがいた。心の奥底から安堵感が込み上げてきて、本当に気が遠くなっていく。ああ、まだ、ここじゃ、駄目なのに。私は……落ちる。
※※※
――空子ちゃんは無事だった。ビルの階段を駆け下り確認すると、空子ちゃんは道路の脇に倒れていたものの、どこにも外傷らしい外傷は見当たらなかった。思わず天を仰ぐ……あの高さから、落ちたというのに。
――助けて。空子ちゃんからのメールを受け取った私は、すぐに空子ちゃんのもとへ駆けつけたかったけれど、そのメールは本来課金していないと受け取れないもので、送信先を特定するにも課金が必要だった。私は特定の場所まで一気に瞬間移動できるアイテムも購入し、ここまで飛んできたのである。
目覚めた空子ちゃんは私に……ニュー・ネストの私にしがみついてきた。震える空子ちゃんの姿を目の前にして、消えてしまっても仕方がないと一度でも思ってしまった自分に腹が立った。空子ちゃんはこんなにも、助けを求めていたというのに。
私は何度もコマンドを入力し、空子ちゃんを抱き締め続けた。もう二度と、空子ちゃんのことを諦めたりなんかしない……私は、そう母さんに誓った。仮想現実世界の住人だとかは関係ない。空子ちゃんは、空子ちゃんなのだから。
――ややあって。空子ちゃんがぽつりぽつりと私に語ってくれた経緯は、とても信じられないようなものだったけれど、他ならぬ空子ちゃん自身が、現にこうしてニュー・ネストにいる……それが、何よりの証だった。
「七福神君を止めてください!」
……それが、空子ちゃんの願いだった。彼はきっと、この世界もめちゃくちゃにするつもりだと、空子ちゃんは訴える。めちゃくちゃにされた挙句、消えてしまうだなんて、いくら作られた世界だからって悲しすぎると、空子ちゃんは涙を流した。
空子ちゃんは七福神から特別な力を持つスマホを与えられていたけれど、それでは七福神の居場所を突き止めることはできなかった。私は空子ちゃんの願いを叶えるために、デミウルゴス・エンターテインメント社へと向かった。
目的はただ一つ……ネストの生みの親と言われている、マトリョーシカの所在を聞き出すこと。手持ちの情報がコードネーム一つでは、何も調べようがないけれど、昔の同僚ならマトリョーシカのことを何か知っていてもおかしくないだろう。
普通なら門前払いが関の山だろうけど、こういう時は警察官という身分が役立つ……と言っても、捜査令状があるわけでもないので、勢いとはったりでどうにかするしかなかった。たとえば……そう、ニュー・ネストで起こっている深刻な障害。その解決の糸口になりそうな情報があるということにして、技術者との面会を求める。受付嬢が笑顔を絶やさず方々へ電話するのを横目に見て、これは長くかかりそうだと覚悟した私は、自主的に待合室へと足を向けた。
――三本目の缶コーヒーを買おうとソファーから立ち上がった時、受付嬢が笑顔で近づいてきた。お待たせして申し訳ありません……その後に続いた言葉に、私は少し驚く。オールド・ネストの開発者の一人でもある、加藤社長その人が面会してくれるというのだ。時間は五分と限られていたけれど、これは願ってもないチャンスである。私は受付嬢の先導で、ビルの最上階……社長室へと向かった。
――他のフロアとは雰囲気が異なる空間。毛足の長い絨毯を踏み締め、大きな木製の扉を抜けた先が社長室だった。私を出迎えてくれたのは初老の男性で、仕立ての良いスーツを普段着のごとく着こなし、かつてプログラマーだったという面影を一切感じさせることのない、やり手の経営者といった風体をしている。
「株式会社デミウルゴス・エンターテインメント代表取締役社長の加藤です。有用な情報をお持ちだとか?」
差し出された手を握り返し、私は頷いた。
「仮捜の宮内です。五分とのことなので、細かい経緯は省いて単刀直入に言います。詳細が知りたければ、面会時間の延長をお願いします」
「それで?」
加藤社長は手を離すと、事も無げに言い放った。……まぁ、そうなるわよね。
「ニュー・ネストの障害ですが、マトリョ―シカが起こしているかもしれません」
「これはまた、懐かしい名前が出てきましたね」
「ご存知ですよね?」
「ええ、もちろん。ネストは彼女が作ったようなものですから」
「……女性なんですか?」
「性別も分からないのに犯人扱いとは、どういった経緯で?」
「それは五分では語り切れませんね」
「では結構です。他にお話は?」
「……それでいいんですか?」
「ええ。彼女が障害に関与しているという可能性については、検討済みですから」
「では、本人に確認を?」
「いえ。その必要はありません」
「必要はない? どういうことですか?」
「仮にマトリョーシカが障害の原因なら、手の打ちようがありませんからね」
「関与が特定できれば、立件することも可能だと思いますけど?」
「それでどうなります? 大きな地震が起きたからといっても、地球を逮捕することもできなければ、地震がなかったことにもできない……そういうことです」
「何だか、今の状況は仕方がないと言っているように聞こえますけど?」
「言葉を繕ったところで、状況が改善するわけでもありませんからね。我が社は現在、スタッフを総動員して事に当たっています。それ以外のことに、係わっている時間はありません。どうぞお引き取り――」
「解決の目途は立っているんですか?」
「……今は、まだ。最悪の場合は、サーバーをリセットするしかないでしょう」
「リセットって……今のデータは消えてしまうってことじゃないですか!」
「最悪の場合は、です。そうならないよう、全力を尽くしています」
「それでも解決していない……これってもう、最悪の場合ですよね?」
「仰る通りです」
「……サーバーリセットなんてことになったら、ユーザーが黙っちゃいないと思いますよ? 損害賠償請求とか、裁判沙汰になるのでは?」
「でしょうね。ただ、不測の事態によるデータ損失の際は、それを我が社が補償するものではないということは、ちゃんと規約に書いてあります」
「……あなたは、ネストの住人のことをどう思っているんですか?」
「もちろん、大切に思っていますよ。我が社を支えてくれているのですから。あなたこそ、随分と入れ込んでいるようだ。ひょっとして、ユーザー様ですか?」
「……ええ、まぁ」
「それは大変失礼いたしました。ですが、苦情はサポートセンターを通して頂きたいものですね。それほどまでに、ネストを愛して頂けるのは光栄ですけれども」
……私は奥歯を噛み締めた。こいつはきっと、ネストを単なる商売道具としてしか考えていないに違いない。稼げるだけ稼いで、必要がなくなったら捨てる……ネストに代わる新サービスのアイディアだって、いくつも考えているのだろう。
それは経営者としては当然だし、何も悪いことではない……分かってはいるけれど、その結果として、オールド・ネストが……空子ちゃんの世界があっさりと終わらせられてしまったかもしれないと思うと、私は……悔しかった。
加藤社長は腕時計に目をやると、私に向かって頷いてみせる。
「約束の時間です。どうぞ、お引き取りを」
「マトリョーシカは、今どこにいるんです?」
「……どうするおつもりですか?」
「会って話をします」
「どうしてそんな、意味のないことを――」
「意味がないかどうか、それを決めるのは私です。あなたではない」
……内心しまったと思ったけれど、口にしてしまったものは仕方がない。「失礼します」と踵を返し、扉へ向かう途中、私は「刑事さん」と呼び止められた。
「昔の住所なら分かります。今もそこに住んでいるかまでは、分かりませんが」
加藤社長は歩きながら手帳にさらさらと万年筆を走らせ、紙を千切って私に差し出した。私は受け取った紙片と、加藤社長の顔を見比べる。
「……ご協力、感謝します。でも、どうしてですか?」
「お客様にサービスするのは、商売の基本ですから」
おやまぁ、白々しいことを……ん? 私は紙片に住所と共に描かれているイラストに目を凝らした。……ダルマ? いや、ダルマよりも縦長で、くびれもあって、だけど、ボーリングのピンよりは横長で……これって、もしかすると。
「これって、マトリョーシカですか?」
「え?」
加藤社長は一瞬ぽかんとし、次いで「あっ!」と声を上げて、「い、いや、それは、え、ええ、そうですが、それが、何か?」と、目を泳がせた。
……怪しい。昔の住所をそらで書けることといい、無意識でイラストを描いてしまうことといい、加藤社長はマトリョーシカに対して……いや、彼女に対して、何か特別な想いを抱いているのかもしれなかった。それは、つまり……。
「あなた、マトリョーシカさんのことを好――」
「もう私に用はないはずです! 早くお引き取りください!」
私は加藤社長の気迫に押され、社長室を後にした。固く閉ざされた扉を振り返り、余計なことを言ってしまったと反省……きっと、複雑な事情があるのだろう。
それはともかく、DE社のビルを出た私は、手にした紙片に書かれた住所をスマホに打ち込み、アプリで移動手段を検索。目的地は都心から遠く離れた山奥で、正午を過ぎた今からだと、最短ルートでも到着は夜遅くになる見込みだった。
別に明日でも……という思いを、私は頭を振って追い払う。一刻を争う事態なのかもしれないと思えば、のんびり構えている場合ではなかった。
――電車とバスを乗り継ぐこと数時間。果たして、ネストを作った天才プログラマーが、こんな地方で隠遁生活を送っているものなのだろうかと、不安が過ぎる。
最後の駅からは、タクシーに乗って山へと向かう。運転手さんの話によると、山奥にも暮らしている人はいるようだ。……お年寄りばかりみたいだけれど。
やがてタクシーが停車すると、私はウィンドウ越しに階段を見上げた。山小屋の窓明かりが見え、ほっと胸を撫で下ろす。いや、まだ気は抜けない……私は運転手さんに深夜でも電話でタクシーを呼べることを確認してから、料金を支払う。
暗い足下に気を付けながら、石造りの階段を上る。それにしても……寒い! コートを羽織ってくるべきだった。私は二の腕を擦りながら、階段を上り続ける。
山小屋の扉に辿り着き、付近にインターホンが見当たらないので、扉をノックする。ややあって、「どなた?」と返事があり、私は身分を明かした。すると……五十代後半ぐらいだろうか、目鼻立ちがはっきりとした、ふくよかな女性が私を出迎えてくれた。……人違いかもしれないと思いながらも、私は彼女に訊ねる。
「あの、マトリョーシカさんですか?」
「その名前で呼ばれるのは、随分と久しぶりですねぇ」
そう言って、彼女……マトリョーシカは笑った。
――菅原都子。それが、マトリョーシカの本名だった。
都子さんは私をリビングに通すと、「紅茶を淹れてきますね」と台所へ向かった。私は暖炉の側に据えられた二人掛けのソファーに腰を下ろし、周囲を見回す。
決して広いわけではないスペースに、あるべきものがあるべき場所へキチンと収められているという安定感。初めてなのに妙に安らぐのは、時折パチンと爆ぜる薪の音と、本物の火によって熱された柔らかな空気、そして……私は顔を上げた。
黒猫。見知らぬ私を警戒しているのだろう、じっと戸棚の上から私を見下ろしている。私は舌を鳴らして呼んでみたけれど、黒猫は微動だにしなかった。
「クロは人見知りなの」
そう口にしたのは、お盆を手にした都子さんだった。お盆にはティーセット。都子さんはテーブルにソーサーを並べ、カップを置き、ポットから真っ赤な紅茶を注ぐと、私の前に差し出した。私は頭を下げてカップを手に取り、鼻先に寄せる……う~ん、良い香り。一口含めば香りと味が広がり、喉を滑り落ちる熱い雫が、冷えた体を内側から温めていく……これはもう、溜息なしではいられない。
「ああ、美味しい……」
「良かった。お客様にお茶を出すなんて、久し振りのことだから」
都子さんは微笑んで、自身も紅茶を一口。その所作に、私は一瞬見惚れた。
山小屋、暖炉、黒猫、紅茶。それに……うん、耳を澄ませば、微かにクラシック音楽も流れている。理想の生活……そんな言葉が、自然に思い浮かんだ。
「おかわりはいかが?」
「……お願いします」
私が空になったカップをソーサーに戻すと、都子さんは再びポットで紅茶を注いでくれた。私はそれを手に取ると、一口飲んでから、カップをまじまじと見つめた。これもきっと、お高いんだろうな……って、あれ? 私はカップに目を凝らす。
カップをぐるりと一周する帯状の模様は、始点から終点にかけて細くなっていて、変わったデザインだと思っていたけれど、よく見るとそれは模様ではなく、スカーフをまとった女性のイラストが、小さくなりつつ並んでいるのだった。
「これ、マトリョーシカなんですね」
「本物も飾っていたんだけど、あの子がすぐ玩具にしちゃうものだから……」
都子さんは戸棚を見上げる。クロは「ニャア」と声を上げた。
マトリョーシカはロシアの民芸品で、人形の中に一回り小さい人形が入っていて、その中にはさらに小さい人形が……と入れ子構造になっている。それが戸棚の上にずらっと並んでいたら……猫にとってはまたとないターゲットだろう。
……そんなことを考えつつカップを傾けていると、都子さんは私に顔を向けた。
「宮内さん、でしたね。私にどういったご用件でしょう?」
……そうだった。私は美味しい紅茶を頂くために、ここまでやって来たわけではなかった。私はカップをソーサーに戻し、小細工なしで切り込む。
「あなたは、七福神ですか?」
「七福神? あの、弁財天とか、恵比寿様の?」
……違うか。あの七福神の正体が、こんな大らかな女性であるはずがないだろうとは思っていたけれど、仕事柄、リアルとネストでは別人というケースも珍くなかったから、念のため、聞いてみた次第である。もちろん、そうでもそうだと答える義理はないものの……都子さんが演技をしているようには思えなかった。
「いえ、こちらの勘違いだったようで……失礼しました」
「……あら、もう終わりですか? こんな山奥まで来て頂いたのですから、出来るだけご協力させてください。私にできることなんて、ごく僅かですが」
そんな謙遜を……と、私は思う。何しろ、彼女はあのネストの生みの親……つまりは「本物の神様」なのだ。七福神ではなくとも……いや、七福神以上に、聞きたいことがないはずもなかった。私は前のめりになる。
「一つ、聞いてもいいですか?」
「はい、何でしょう?」
「どうして、ネストの管理をDE社……加藤社長に任せたんですか?」
「……なぜ、そんなことを?」
「オールド・ネストが閉鎖されたことは、ご存知ですか?」
「ええ、もちろん」
「どうして閉鎖することになったかは?」
「……あなたの質問は、こういうことかしら? どうして巴君がネストを閉鎖するのを見過ごしたのか。マトリョーシカなら、どうにかできたのではないか」
「ともえ君?」
「ああ、ごめんなさい。加藤社長の名前よ。それで、質問は合っていたかしら?」
「ええ、まぁ」
「私は逃げたんです。自分の作った、ネストという世界から」
「……逃げた?」
「私は箱庭が欲しかったの。自分の思い通りになる、自分だけの世界が。それを追い求めた結果、私はネストに辿り着いた。ネストは自信作だったわ。リアルと寸分も違わぬヴァーチャル・ワールド。それで満足していたのだけれど、ある日、私はふと気づいてしまったの。ネストの住人、その一人一人には個性があり、意思があるということに。それは即ち、命があるということ……そう、私は新たな命を作りだしてしまったのよ。その事実に気付いてから、私はネストが怖くて堪らなかった」
「怖いって、ネストが?」
「ええ。何を馬鹿なと笑われるかもしれないけれど、ネストの人々は生きているのよ。もちろん、私達の命とは異なるけれど、確かに生きているの。私は戯れで神の領域に触れてしまった……私は、それが怖かったの。ネストに生きる無数の命、それに対する責任……創造主としての責任が、重く圧し掛かってきたわ。そんな私を救ってくれたのが、巴君だったの。私からネストを管理するという重圧を引き取ってくれたのよ。私は巴君に感謝したわ。そして、ここで暮らすようになったの」
「管理って……加藤社長は、ネストを商売の道具に使っているんですよ?」
「ええ、その通り。巴君はそうすることで、重圧を取り除こうとしてくれたのよ。ネストは単なるシミュレーター……ただのゲームでしかないとね。それを証明するかのように、巴君は独自にネストを作り上げた。それが、ニュー・ネストよ」
「じゃあ、なぜ今の今まで、オールド・ネストを存続させていたんですか?」
「それはもちろん、ネストの住人に責任を感じていたからよ。巴君はね、私よりも先にネストを作るということがどういうことか気付いていたの。だから、ネストを作ることを止めようとさえ言ってくれたわ。でも、私は聞く耳を持たなかった……若かったのね。あれから何十年も経って、巴君は決心したの。オールド・ネストを終わりにするって。私にも連絡をくれたわ。私は言ったの、ありがとうって――」
「勝手なこと言わないでくださいっ!」
私の声に驚いたのか、クロが「ニャア」と鳴いた。都子さんは私を見つめ返す。
「……あなた達の勝手で、大切な友人を、家族を、世界を失ってしまった子がいるんですよ? 何で勝手に作って、勝手に投げ出しちゃうんですかっ! どうして、どうして最後まで……ちゃんと、面倒を見てあげないんですかっ!」
「……怒るのも無理はないわ。あなたはネストに大切な子がいたのね。それを、私達は奪ってしまった。そう、遅かれ早かれ、いずれこうなることは分かっていたの。だから、最初から存在しちゃいけなかったのよ。ネストは――」
「そうじゃない、そうじゃないんですっ! ……ネストのお陰で、私は空子ちゃんと出会うことができた。それはもう、素敵なことだったんです! それを、存在しちゃいけなかっただなんて、そんな悲しいこと、言わないでください! ……私が言いたいことは、負けないでってことなんです。一度始めたら、最後まで、最後の最後まで、とことんのとことんまで、諦めないでください! 勝手に結論付けて、自分勝手に終わらないでください! ……まだ、生きているんですから」
私は立ち上がっていた。クロは付き合ってられるかと言わんばかりに、戸棚を下りてどこかへと行ってしまった。都子さんはどこかへ行くこともなく、私をじっと見上げている。パチン、薪が爆ぜる。クラシック音楽は、もう終わっていた。
「……私にもあなたと同じぐらい、強い意志があれば。あなたともっと早く出会っていれば……ふふ、駄目ね、こんなことを言っても。今、私にできることを探さなければ……でも、私にできることが、まだ何かあるというのかしら?」
「あります。あなたにしかできない、あなた以外にはできないことが」
私はソファーに腰を下ろし、都子さんに全てを話した。空子ちゃんのこと、エミュのこと、七福神のことを。都子さんは頷きながら、私の話に耳を傾けていた。
やがて私が全てを話し終えると、都子さんは大きな溜息をついた。
「……来るべき時が来たようですね」
「どういうことですか?」
「私はここに移り住んでからも、ずっとネストのことを考え続けていました」
都子さんは立ち上がり、リビングを出て行った。私もその後に続く。
「私達の世界とネストの世界……一体、何が違うのだろうかと」
通路の突き当りで都子さんは立ち止まり、扉の鍵を開けて中に入った。ひんやりとした空気が漂ってくる。私もその部屋に足を踏み入れ……目を見張った。
――見上げるほどの大きな機械が、ドミノのように等間隔で並んでいる。カタカタと小さな音が絶え間なく続く、寒いぐらいに空調が効いた部屋の中を、都子さんは歩いていく。その先にはパソコンデスクがあり、都子さんは椅子に腰を下ろした。
「考えれば考えるほど、私には違いがあるように思えませんでした。実体があるかないか、その差は大きいかもしれません。ただ、それも二つの世界が交差した時に初めて意識されるもので、境界を超えてしまえば、気にすることもありません」
「あの、さっきから何を……」
都子さんは黙ったまま、物凄い速さでキーボードを叩き始めた。背後からディスプレイを覗き込むと、多数のウィンドウ上を、英数字が滝のように流れている。
「イレギュラーなデータ……これが空子ちゃんね」
ディスプレイに空子ちゃんの姿が映し出された。私がニュー・ネストに用意した部屋で、ノートパソコンに向かっている。それだけで、何だかほっとしてしまう。
「じゃあ、これが――」
部屋が真っ暗になった。静寂の中、緑色の非常灯が点灯する。
「……反撃されちゃったわ」
「反撃って、七福神に?」
都子さんは頷いた。ほどなく明かりは元通りになり、私達は部屋を後にした。
リビングに戻り、都子さんが淹れ直してくれた紅茶を飲む。私は紅茶が冷めるのを待てず、口の中を火傷しながら飲み干して、都子さんに訊ねた。
「何か分かりましたか?」
「間違いありません、七福神はAIです」
「えーあいって……」
「アーティフィシャル・インテリジェンス。人工知能。彼はネストの住人です」
「それは……空子ちゃんと同じ、ということですか?」
「そうです。彼が元々ネストの住人だったのか、エミュレーターで作りだされたのかまでは分かりません。ただ、パラメーターに改竄の痕跡がありました。ユーザーの手によるものなのか、自分の手によるものなのか……恐らくは、その両方でしょう」
「それにしたって……何で、こんなことに?」
「彼は気づいてしまったのよ。自分が、作られた存在だということに」
「……それだけのことで?」
「そう、それだけのことで。でも、それは凄いことよ? 自分が何物であるかを理解したということなのだから。あとはその仕組みを逆転させれば、自分が世界を操ることだってできる……その可能性に気付いたのよ」
「……七福神をどうにかする方法はないんですか?」
「サーバーを停止して、再起動するしかないわね」
「停止に再起動って、そんなことしたら……」
「空子ちゃんはもちろん、今のニュー・ネストは終了することになる」
「それじゃ、どうしようもないということじゃないですか!」
「……それでも、停止した方がいい。取り返しのつかないことになる前に」
「取り返しのつかないこと?」
私が聞き返しても、都子さんは口を閉ざしたままだった。
……サーバーの停止が唯一の、また、確実な手段だとしても、空子ちゃんがいなくなってしまっては意味がない。何か別の方法を考えるべきだ。マトリョーシカでも思いつかない、全てを丸く収める「最良の方法」を。
――タクシーの運転手さんから到着の連絡を受けた私は、都子さんにお礼を言って家を出た。道路へと続く階段を下りようとしたところで、「宮内さん!」と声をかけられ振り返る。駆け足で近づいてくるのは、クロを抱えた都子さんだった。
「都子さん、どうしました?」
「あなた、空子ちゃんのこと、好き? 好きなら、守ってあげて。私は、私は駄目なの。すぐに結果とか、効率とか、考えてしまうから。それで、大切なものをいくつも失って、気づいた時には、もうこんな年になっちゃってた。だから……だからあなたは、後悔しないで。それが、たとえどんな結果になったとしても」
私は頷くと、クロの頭に手を伸ばした。迷惑そうに頭を撫でられるクロ。
「任せてください! それに、都子さんだってまだまだこれからですよ? 電話をかけるなりなんなり、ちゃんと話をしてみたらどうです? ……その、巴君と?」
都子さんは驚いたように目を丸くしてから、恥ずかしそうに笑った。