第三十八話 その日は晴れていた
後日、阿之助は条件を持ってきて、改めて朝田や稲木に説明した。条件は決して悪いものではなかった。道場の取引額は高額ではないものの、町の端に代わりの道場が用意され、引越しは全て間久家が負担する。
阿之助が帰った後、朝田、稲木、生百合の三人で話し合った。
「生活は変わらないな。稽古も問題なさそうだ。しかし、先代から受け継いだこの道場を、簡単に手放すこともできん」
「朝田師範のお気持ちはわかりますが、俺は手放していいと思います」
朝田は悩んでいたが、稲木はまったく未練がないようだった。
「私は反対です。赤谷重流の心と共に受け継がれた場所じゃないんですか?」
「生百合、赤谷重流の心とは、看板や道場に宿るのではなく、稽古をする人に宿る。場所はどこでも同じだ」
「師匠はこの場所に思入れがないんですか」
「そんなわけないだろう。だが、住めば都とも言う」
稲木と生百合の言い合いを見て、朝田はため息をついた。
「間久家の息子がくるのは一週間後だ。二人とももう少し悩め。代わりの道場も見て、しっかり考えてから、また話そう」
代わりの道場は元々、小さな劇場で、演劇をやっていたが、歌舞伎が流行りだして、客足が途絶え廃業してしまった。長らく空き家だったが、阿之助が道場として使えるように改装したのだという。居住もできるよう、部屋がいくつかあり、不便なことといえば、稽古場がいまの道場より少し狭いくらいなものだった。
「意外といいところだね」
「うちの道場の方がいい」
生百合は千沙と二人で、用意された道場の見学をしていた。稲木の言うようにこの場所も、一度慣れてしまえばいい場所に思うだろう。しかし、生百合はいまの道場が誰より好きなのだった。
「みんなは反対っていうけど、私は稲木さんと一緒で、この場所でも全然いいと思うんだけど」
「武士道じゃないよ。そんなの」
「不貞腐れてる。稲木さんが意外と冷たいから怒ってるんでしょ?」
「あそこにはみんなとの思い出が詰まってるから……」
「思い出がなくなるわけじゃないよ。昔から私は生百合ちゃんの隣にいるし、これからも隣にいるんだし」
わかっているのだ。自分がしている反対は、所詮は感情に任せた意見で、条件やこれからの生活を見れば、反対する理由などないのだと。わかっているが、どうしても譲りたくない一歩なのだ。
門下生たちの中では反対の意見が多かったが、朝田は道場を売ると決めた。阿之助が来る前日、稽古も終わり朝田、稲木、生百合の三人は道場で話していた。
「道場を売ろうと思う」
朝田の決断に対し、稲木はなんの異論もなかった。しかし、生百合は黙っていなかった。
「理由を教えてください。稽古に来ているみんなは、この道場がいいと言っています」
「相手は間久家だ。いい噂ばかりじゃない。素直に従うべきだと判断した」
「阿之助はそんなことしません。なんとか頼めばきっと、手を引いてくれるはずです」
「生百合や。わしもな、この道場に40年はいる。この場所でたくさんのことを学び、教えてきた。0歳からここにいるお前さんも同じだろう。惜しい気持ちはよくわかる。しかし、その阿之助が何もしないとしても、家の者たちが何もしてこないとは限らない。わしやお前さん、龍一ならばいいが、ここには小さな子供たちも通っておる。堪えておくれ」
ぐうの音も出ない正論だった。子供たちに危害を加えられてからでは、取り返しがつかなくなる。生百合は黙って答えた。悔しさのあまり、涙が流れる。
「龍一、お前もいいな?」
「ええ、俺は最初から賛成ですから」
「では、また明日だな。龍一も生百合も、最近、放火魔が出るらしいから、気をつけてな」
「はい」
朝田は道場を出て家へと帰って行った。見送った稲木が戻ってきても、生百合は泣いていた。
「誰かがいなくなるわけじゃない。気を落とすな」
稲木が慰めると生百合は涙を拭いて、顔を上げて言った。
「師匠……。今日は夕食を一緒に食べませんか?」
「ああ、食べよう。腹が減った」
生百合は稲木を自分の家に招待し、数年ぶりに親子で夕飯を食べた。稲木は落ち込んでいる生百合のために、手料理をこしらえた。それ以外でも、生百合が元気になるように振る舞った。
「そこには膨らんだカエルがいたんだ」
「じゃあ、そのおばあさんが彫刻家だったんだ」
稲木の小話が炸裂し、生百合には笑顔が戻っていた。
「お父さん」
「ん?カエル小話飽きたか?」
「ううん。なんか久しぶりにこうして話したから、そう呼びたくなっただけ」
「呼ばなくても、俺はずっとお前の親父だぞ。嫌ってほどな」
「嫌じゃないよ」
夕飯を食べ終わり、しばらくくつろいだ後、稲木は道場に戻って行った。
次の日の朝、阿之助が道場に来る予定だったため、生百合は道場に向かった。
その日は晴れていた。道場は静かだ。しかし、普段この時間には、もう稲木が起きているはずだった。生活音が一切しない。おかしく思った生百合はあちこち探した。庭で数羽の鳥の鳴き声が聞こえ、見に行ってみれば、顔面が潰れた稲木が、倒れた塀の上に横たわり、それを鳥たちがついばんでいた。
「……師匠」




