「文学」の属する時間軸
例えば、小説を書くという際、そもそもそれがどのような意図でなされ、どのような目的を持つか、つまり作品全体を構成する哲学・思想は何かという事は現在ではほとんど議論されない。どうして議論されないかと言うと「売れる」「賞を取る」が目的であると一義的に考えられている為に、後はその為の「技術」をいかに磨くかという話になる。こうして、技術論・方法論は活発になるが、その根幹についての議論というのはほとんど行われない。
最近、映画を見ているが、映画でも小説でも、いわゆる普通の作品はせせこましい現実の内部で救われたり破滅してみたりするので、見ていて非常に物足りない感じがする。これは、過去に比べて「現実」と呼ばれるものの領域がここ百年くらいで飛躍的に増大した所から来ていると思う。現実が増大し、その内部・社会が異様に拡大した為に、人はその内部における小さな浮沈のみを問題とするようになり、それが問題の全てであると考えるようになった。
わかりやすく言えば「努力して夢を叶える」というのが、大きな野望のように、語るべきテーマとして偉大なものであるかのように振る舞うようになった。ところがそれは、最近のアイドル関係のニュースにもあるように、大衆の欲望に応えるものにすぎない。大衆はタレントをおもちゃとして消費し、飽きたら捨てるのみだ。
小説の問題に戻ると、例えば吉田修一みたいな人は文学なのだろうか。川上弘美は文学なのか。こういう問いをすると「いや、川上弘美さんは〇〇賞を取って…」という話になる。話はそこで循環する。それ以上のものがほとんどない。
小説を読んでいると、事実や心理を描いて、それで事足れりというか、それで十分文学だと思っている人がほとんどという印象を持っている。では、その上に何か求めるべきものはあるのか、そんなものはあるのか、と言われれば、かつての偉大な文学者はまさにそういうものを望んだからこそ偉大であったと自分は感じている。それは何かと言えば、現在の言葉で言えば「理想」であり、過去の言葉であれば「神」とか、「仏」というものになるかと思っている。
話を戻す。正直、自分は自分の言っている事が今現在を生きている人に受け入れられるとは思っていない。未来の、現在とは違う断層に生きる人々に対して向けて書いている部分がある。そういう人達に向けて話す。
問題は…小説を書く時、全体を構成する「意味」は何かという事だ。その「意味」を今の時代は考えないでいいように調整されているが、これについて考える事は必然的に今の時代を抜け出す事を意味する。川上弘美のように考えずにやっている人は必ず時代に迎合し、融和し、そこに溶け去るものになる。彼らは水の中の水として同時代にうまく溶け去り、したがって時代がされば一緒に流れ去っていく。もちろん、それで良いしそれ以上も望んでいないのだろうが。
問題はこれに対する違和感・反対は何故起こるのかというもので、例えば、ミヒャエル・ハネケのような強烈な否定に僕は魅力を感じる。何故彼はそんなに否定をするのかと言えば、同時代の規範や価値観では納得できないからだろう。つまりは、より高いものがあると信じたいが為だろう。そう思えるのであれば、ハネケのような強烈な否定もただ否定とだけ言えなくなる。それにハネケのような人物がハネケ一人しかいないという事実を考えてみても、否定ー批判は簡単ではない。
我々がいかに抜き難く、思考の首根っこを時代に抑えられているのか、それは2chやニコニコのコメントを見ればはっきりする。彼らが一様に勝ち誇った顔をしているのは、彼らが一度も戦わず、最初から服従し、その服従に対して反省せず、他人を服従させようと運動しているからにほかならない。集団で敗北すればそれは敗北とは呼ばれない。敗北だと指摘する人間を断罪していけば、自分達に勝利が訪れると彼らは信じている。
小説には確かに、個人の生き様や心理が描かれている。現在において、その全体的な意味を問う必要がなくなったと感じられているのは、それら全体を統御する社会的価値観について疑問にしなくて良いと考えられているからだ。小説家で言えば、作家としてデビューする、賞をとる、人々に受け入れられるという過程であり、この過程を無自覚に信じるという事と、彼らの作品においてただ行為や心理のみあればいいという事柄は一致するのだろう。彼らは目的については疑わないので、理想がなく、ただ「文学」と呼ばれるものをこねくり回す事になる。それはファッション的なものとなる。
では、お前が理想と呼ぶものはあるのか。そんなものはあるのか。…問題はあるのかないのかというような事ではない。それを求めるか否かという事であって、「理想なんて必要ない」という人には理想はない。それだけだ。彼には理想がない。そうしてそれは正しいわけでもなく間違っているわけでもないが、彼らはその根拠を数に求め、それによってまた同時代に沈潜する。
夏目漱石やドストエフスキーを調べていて思ったが、作品内部における主体の確立は、その反作用として社会に対する批判を含む。どうして社会を肯定しながら、主体を確立するのは無理なのか。環境に溶け去れば、それで良しとしてしまえば人間には進歩はなくなるだろう。「海」という環境を否定するものがあったからこそ、「陸」にあがる生物が生まれたのだろう。偉大な作家に見られる「あがき」「苦しみ」「葛藤」の要素はこのようにして、今自分のいる場所を乗り越えようとするから現れてくる。高いものを目指さない人間は自分に充足している。彼は精神としては屍だが、物としては王なのかもしれない。
小説全体を構成する哲学を今は理想と呼んでいるのだが、この世界ではそういうものは全く求められていない。だから、小説というものは世界の枠組みに当てはまったものとなる。ハムレットの嘆きーー「世界の関節が外れてしまった」とは、我々には大げさな身振りのようにしか聞こえない。我々は世界の関節そのものが外れる様を、世界内部にがっちり組み込まれている為に見る事ができない。我々における「理想」はまず、我々が喪失そのものを喪失させられたという現状を認める事から始まる、と思う。川上弘美や吉本ばなな、村上春樹らの延長線では、文学というものを社会が包んでいる。その社会とは消費社会であり、ふやけた生の肯定である。
確かに現実内部は広がり、その内部において人為的なシステムが我々を救うのだという、そういう信仰を我々は確立させた。恋愛、金銭、仕事ーー死すらもシステムの中で消化しようとする。僕が欲するのは世界に包まれた文学ではなく、世界を越えようとする文学にほかならず、これを実現するには世界の様々なものを測量しておく必要がある。現在の我々とは何かという分析が必要となる。
考えない人は世界に吸い込まれるだろう。彼は幸福な表情をしているが、その表情は別の不幸な表情に取って代わられるだろう。イデオロギーの右も左も世界内部に組み込まれている。犯罪ですら、心理ですら、あらゆるものが我々の交換価値によって計測されて、値段をつけて売りに出される。全ては数に変換され、世界を流通していく商品となる。
文学は、世界を単一の商品と化するものに抗するものであって欲しい。その為には作家は自己の内部に孤独を生み出さねばならない。孤独がクリエイティブと呼ばれるものを生むが、それを世界が利用する時には、もう人々の目には消えている。作品の中核にたどり着く人は少ないものだ。そうして核にたどり着いたものはきっと、沈黙するだろう。その沈黙に真実がある。沈黙は、世界という饒舌に抗する真実だろう。僕は文学に沈黙を欲する。
内部に孤独がないものは、どのような連帯とも結びつかない。世界からの孤立が新たな世界を呼び込む。世界の中に耽溺しているものは地層の変わり目と共に流れ去る。そうして惰性の文学は全て消え去るだろう。我々は来るべき未来について話しているのであって、現在について話しているのではない。文学とはそもそも、常に無限の未来に属しているべきものなのだ。僕はそう思う。