スタート・スター・フォーリング 1
星辰際。星空神が定めた暦の半分過ぎたことを祝う祭りだ。
月と十の衛星が規則正しく配列するその日は、別名〝月の王冠が満ちる日〟と呼ばれる。
多くの種族や信仰にとっても共通の祭事であり、商人達にとっては新年会と合わせて重要な稼ぎ時である。
勿論のこと、〝小さな羽毛亭〟も例外ではなく、この日ばかりは一時閉店もなく終日営業の体勢である。
期待の新戦力クロイもまた厨房で缶詰となるはずであった。
「それじゃあ、ちょっとだけ抜けるから」
「よろしくお願いします」
「そのままどっかにしけこんだりすんじゃねえぞ」
さいてー、とナザリに返すと、メアリはクロイの手を引く。
クロイは出会った当時の藍色のマントを纏っている。その下は先日購入した古着であるが。
装いを新たにしたクロイは、メアリから見ても馴染みやすくなったように思う。
表参道を出れば、既にあちこちで祭りが始まっている。
集客の文句に、人々の会話。雑踏の石畳を蹴る音。混ざり合い反響するそれらは、王都暮らしの長いメアリも久しく感じた。
ああ、今年もこのざわめきがやってきたのだ。
「凄いですね。いつも人は多いですが、今日は格別だ」
「そりゃそうよ、〝月の王冠が満ちる日は、星空神がその働きぶりを見に来るぞ〟ってね。要は神々の監視者でもある星空神が覗きに来るから、後ろ暗いことはありませんよーって皆で騒ぐの」
「騒ぎに紛れて悪さする人はいないんですか?」
「神様が直接見に来るのよ? そんなことできるわけないじゃない。見つかれば石が降って来て、口に飛び込んでいくの。半年後の新年祭までずっと腹痛に苦しむんだってさ」
「割と直接的ですね!」
「姿を直接見ることは無いけど、神の御業って結構身近よ? 世界は神々によって運営されてるんだから」
なるほどなあ、といった顔で頷くクロイを見て、違和感を感じる。
この世界で生きる以上、誰もがそれぞれいずれかの神を信仰しているものだ。
そして、三人集まれば必ず異教同士と交わる事は避けられない。
ぶつかり合うにも、友好を結ぶにも、相手の信仰を知り、尊重しなければならない。
メアリは商売人の端くれとして福徳神を信仰しているが、人の集まる食堂で働けば他の信仰にも詳しくなる。
メアリほどではないにしても、クロイにだって経験があるはずだ。
その疑問に対する答えを今は聞き出そうとは思わなかった。
「それじゃ、西区まで行って北区を回って帰りましょう。それなら夕食までには戻れるでしょ」
「エスコートも出来ませんが、荷物持ちならお任せください」
「馬鹿ね。それじゃ手を握れないでしょ。珍しい置物も欲しいけど、今日は食べ歩き優先」
そう言って、二人は群衆の中を入った。
途中で定番の串焼きや、物珍しい包み焼きなどを摘みながら、緩やかに歩みを進める。
会話を振れば、クロイは真面目くさい口調で返し、メアリはそれに突っ込む。
一つ会話を積み重ねれば、笑う声が一つ増える。
やがて、微笑むだけだったクロイも、一緒に笑うようになった。
例えば、獣人族が店主のお土産屋台を前にしたときのこと。
「見てよクロイ! なんだろうこの……棒? 変な形ね」
「……ノーコメントです」
「それは我ら白兎族に由来する安産祈願のお守りだ。契りを交わす男女に送られる。一つどうだ」
「ぶっ! な、何言って、クロイ! アンタも何か言いなさいよ!」
「……ノーコメントです」
「ぐ、くぅぅぅ……! 失礼しました!」
顔を真っ赤にしたメアリは、慌てて棒を元に位置に戻すと、店の前から逃げ出した。
「なんて物置いてんのよ! おかげで恥かいたわ!」
「まあ、今は政情不安定ですから、そうした気運が高まることもあり得ない話ではありません」
「そういう話じゃないわよ! 馬鹿!」
「申し訳ありません」
「馬鹿ね、ふふっ、私達馬鹿みたいね、ふふふっ」
「あはは、そうかもしれません」
例えば、長寿族の弓手が開いた的当て勝負のとき。
「ほう、見事な射の構えだが、身体が辛そうだな。怪我でもしたか」
「ええ、まあ、もうしばらくは休養ですね」
「残念だ。其方の弓を見てみたかった」
「こちらこそ、良いものを魅せて貰いました」
握手を交わして戻ってきたクロイの額に手をかざす。
「どうかしました?」
「……どっか痛いの?」
「ああ、気を遣わせてしまいましたね。大丈夫です、問題ありません」
「本当に?」
「本当です。女性とのデートに苦労するような柔な鍛え方はしてませんから」
「もう……、信じるわよ」
「お任せを」
迷子になった小人族の少年の親探しを手伝ったとき。
「小人族のちっちゃいままだけど、子供と大人の見分け方って案外簡単なのよ」
「へえ、そうなんですか? それは一体どのような?」
「お金渡して懐に隠そうとするのが大人。普通に使っちゃうのが子供よ」
「なるほど、だからこの子が子供だと……。こら、君、髪にタレを零すのはやめてくれ」
「おいしいねー!」
「ああ、生暖かい感触が頭に……」
「あははは! この子の親が見つかるまで我慢しなさい!」
グルリと王都を半周する間に、二人の楽しい思い出がいくつも出来ていく。
ひとしきり笑って、北区を通り、東区へと戻ってきた。
帰り道にあって、さきほどまで賑やかだった会話が止まる。
〝小さな羽毛亭〟が近づくほどに、メアリが笑みを消して、段々眉根を寄せていく。
クロイはそれを察しながらも、何も言わなかった。
何も言わずに、手を握っていた。
看板が見えてきた。二人の動きが不意にその場で止まる。
メアリが立ち尽くしたのだ。流れる人混みの中で、そのまま二人は動かない。
しばらくして、俯いたメアリは胸の前で拳を作りながら、一つの呟いた。
「――うん、よし」
決心したように呟かれた言葉は、雑踏に紛れ誰にも聴こえなかった。
クロイの手を引いて〝小さな羽毛亭〟の手前の路地を曲がり裏手へと入る。
祭りの喧騒から十分遠のいたところで、メアリは振り返り向き合った。
「あのさ、クロイ――!」
身長差からクロイの顔をちょっとだけ見上げる形になる。
下から覗き込むその顔はとても真剣だ。
漆黒の瞳に映る自分は少し不安そうで、紅潮した頬でクロイを見つめていた。
そんな視線の先で、彼は苦悶の表情を浮かべ口を引き結んでいる。
その表情を見て、「ああ、こいつは私が何を言う気なのか解っているのだろうな」と悟る。
なんだ、言う手間が省けてしまった。
ついでに、答えも出てしまったようだ。
彼は手を繋いでいない片方の手を、白くなるまで強く握っている。
そして、逸らすことなく見据えてくる目が、何よりも拒絶を示していた。
私は、こいつの心に踏み入ることは出来ない。
それを理解して、目元が熱くなる。ポロポロといくつも熱が零れ落ちた。
胸が苦しい。ズキズキと熱を持って疼くのに、芯の方は冷たい氷のように冷え切っている。
それでも無様な姿を魅せたくなくて、嗚咽が漏れそうになるのを必死に我慢した。
ああ、喉が引き攣って、声が震えてしまうと解っているのに、感情が治まらない。
聞きたくないのに、聞いてしまう。
「どうしてなの?」
「……俺は」
「今日は楽しくなかった?」
「そんなことはありません!」
力強い否定の言葉を聞いて、少しだけホッとする。
少なくとも、好意が全くないから断られるわけではないらしい。
しかしそれは、メアリの好意と真摯に向き合った上で拒絶しているということだった。
好意を袖にされてもそれは縁がなかっただけのことだ。キツいが、受け入れられる。
だが、振った本人が振られた相手より辛そうな顔をしているのだ。
そこには、クロイが決して話すことない事情が隠されている気がした。
その理由が知りたい。抱えた事情があるのなら、一緒に悩んであげたい。
何が出来るわけでもないかもしれないけれど、そうしたいのだ。
そうとも、玉砕したくらいで泣き寝入りなんて、この私に似合わない。
私の想いがクロイを苦しませたのなら、その苦しみを取り除くのは私の責任だ。
「――ズビッ! ん、じゃあ、どうしてなの?」
「受け入れる資格が、俺には無いからです」
「何それ、資格とかどうでもいいわよ。振るなら振る。責任取るなら責任取るでちゃんと決めなさいよ。何も選ばないで相手が諦めるの待つなんて資格以前の問題よ」
そうだ。決定的な言葉を、メアリはまだ聞いていない。
クロイが口を結んでいたのは、言えなかったからだ。
拒絶を態度で示しても、言葉にして伝えることはしなかった。
そうしてしまうことを避けていたのだ。
だから、察しの良いメアリに諦めさせようとした。
「お生憎ね。そんな拒絶で諦めてやるほど、私は賢くないし強くもないわ」
「……何故、ですか」
「諦めて後悔するのが怖いからよ。怖いから、今諦めないことを選ぶの」
ふとしたとき後悔する未来への恐怖に耐えられないからこそ、諦めない。
時間と共に痛みを忘れ去ってしまう選択ができないからこそ、諦めない。
メアリを突き動かすのは自分へ失望することへの恐怖だった。
だけど、恐怖しながらも動き出せたのは、諦めない為の一歩を踏み出せたのは、クロイとの思い出だ。
時を等しくして、体験を共有して、感情を合わせて、同じ経験を通して知った。
クロイという男は、メアリと同じ様に笑いもするし、恐怖に怯えもするのだ。
「アンタも同じ。後悔することを怖れてる。私の気持ちを受け入れた先に訪れる未来を、後悔してしまうことを怖れてるんだわ」
「…………」
「アンタが何を抱えてるか話して。話して、良い考えが浮かんだら笑い話。ダメでも、オチが付けば笑い飛ばすわ」
「……メアリさん」
「どんな事情があっても、最後には笑い話にしてあげる。だからね、クロイ」
倒れ込むように胸に飛び込むと、吐息の掛かる距離まで顔を近づける。
漆黒の瞳を精一杯覗き込んで、その奥の心にまで届くように言った。
「アンタが怖がる必要なんて何処にもないのよ」
クロイが目を見開き、息を呑んだ。
内心少し笑ってしまった。何度見ても、この驚く顔は面白い。
そうして見つめ合って、どれほど経っただろうか。
沈黙の中にどれほどの葛藤があったかは分からない。
だが、クロイは参りましたとばかりに溜息を洩らすと、苦笑混じりに口を開いた。
「メアリさん、話したいことがあります」
「いいわよ、聞いてあげる」
「はい。ですが、その前に少し時間をいただけますでしょうか?」
は? ここまで来といてどういうことだ、と反射的にその言葉を却下しそうになった。
それよりも早く、クロイはメアリを腕の中へ抱きしめた。
ひぅ、と変な息が漏れる。突然の出来事に先程の強気が嘘みたいに縮んで消えた。
え、何っ、何されるの!? と混乱している間に事態は進んでいた。
「出て来て貰えますか、全員です」
「あっ、はい! すいません! 抗戦の意思はないのでごめんなさいその殺気ひっこめてください怖いです!」
「えっ、えっ」
いつの間にか路地裏には神官服を着た集団が現れていた。
その先頭には何処かで見た事のある修道女の少女が慌てている。
突然現れたようにしか見えなかったが、混乱した状態であっても、聡明な頭脳はクロイの言葉を覚えていた。
出て来いと言ったことから推測すると、彼女達は先程から路地裏に潜んでいたことになる。
クロイの声に素早く反応して姿を現したのだ。距離もそんなに離れていないだろう。
それはつまり、メアリ達の会話が完全に聞かれていたことを意味していた。
「うぅっ……」
「彼等を早く引っ込めてください。彼女が怯えています」
「分かりましたですハイ! でもちょっとお話しさせてほしいんですけど!」
「彼女との話が終わってからにしてもらえますか。大事な話なので」
同意を促すようにクロイがこちらを見つめてくる。
そこがメアリの限界だった。
「メアリさん? 震えゴバァ」
「知るか馬鹿! 馬鹿! ばあああぁぁぁか!」
人中に頭突きをかまして腕の中から逃れると、メアリはその場から走って逃げだす。
ノリノリな自分とか。それを見られてたこととか。告白成功したんじゃね? とか。
色々と限界だったのである。
「うわあああぁぁぁクロイの馬鹿野郎ォォォ――――!」
盛況衰えぬ星辰祭のざわめきを凌駕する叫び声が、王都東区の路地裏から上がった。