バトル・トゥ・シェイクザアース 5
地下大水道は、莫大な水で満たされていた。
一部の隙間もなく流れる水が全てを押し流す。
もがき暴れる怪物達の抵抗をまるで意に介すことなく、木っ端の如く翻弄した。
時折、偶然にも弾け飛んだマンホールと一緒に地上へと脱出する怪物が幾匹か存在した。
起き上がり、水を吐き出しながら、己の身に起きた理不尽な現象に対する怒りが湧く。
それらを解消しようと、周囲に漂う人の臭いに向かって動き出そうとした。
直後、怪物に絡みついた水の縄が、あっという間に怪物を再び下水道へと引きずり込んだ。
ついでに、そこらに転がったマンホールの蓋を探し当てると、丁寧にも塞いでいく。
地面が揺れ、辺りが水浸しになった以外は何事も無かったように静まり返る。
地下では長い長い水路を流される怪物達の声無き悲鳴が続いていた。
何かを掴もうとするほど、酸素を使い果たし窒息は早まる。
それでも抵抗せねばならなかった。
それは生存本能によるものではない。
この世に生を授けた怪物等が母、色の魔王を救わんがためである。
人から見れば、怪物達に情緒と呼べる物は存在しない。
慈しみ、思いやりや気遣い。優しさなど理解の外だ。
それでも、怪物達は知っていた。
己の誕生を、色の魔王は祝福していた。
我が子として愛してくれた。
それを十全に感じ取る心が備わっていなくとも、知性などなくとも理解出来るほどの愛をくれた。
護らなければならない。憎むべき人間の手から、我等が母を救わねばならない。
手を伸ばす。少しでも近づくために。
腕を振り回す。少しでも近づくために。
足を動かす。少しでも近づくために。
しかし、まるで縄が絡まっているかのように、怪物達は水によって拘束されていた。
理解できたものはいないが、川の大精霊による水の束縛だった。
意思を持つ水の中にいる限り、怪物達が母へと近付くことは許されない。
例えそれを理解する知能があったとしても、怪物達が諦めることはなかっただろう。
生存本能を超えた愛が、怪物らしからぬ献身を発揮していたからである。
闇雲にもがく怪物達は、一匹残らず、窒息死するまで母を求めた。
●
溺れる。溺れる。溺れ死ぬ。
小鬼も、大鬼も、角鬼も、潜砂虫も、マンティコアも、何もかも。
死んで、死んで、死んでいくのに。
ああ、何故私は死ねないのか。
あのときと同じように、我が子が死んでいくのを見守るほかないのか。
そんな無常があってたまるか。そんな非道が許されるものか。そんなものを許しておくものか。
あの〝混沌〟から逃れ出たとき、自我も何もかも破壊される中で、唯一手放さなかった誓い。
もう二度と、望まぬ離別によって、我が子を失わない。
それだけは絶対だ。他の何を覚えていなくとも、それだけは。
邪魔だ。己を抱きしめるこの男が邪魔だ。
この身体を逃すまいとするのなら、好きにするがいい。
もはや、目的のために手段を選ぶまい。
私は所詮、魔胎邪界という権能の容器に過ぎない。
例え私が死のうとも、〝混沌〟より分離したこの権能が消滅することはない。
無限の力の制御を辞めてしまえば、世界はいともたやすく怪物達の楽園と化すだろう。
そうしなかったのはひとえに、産んだ我が子を慈しみたいという願いゆえに。
願いを捨てられなかった。それだけを頼みに、あの地獄から抜け出したのだから。
願いを捨てられなかったから、勇者に付け入る隙を与え、むざむざと我が子達を死なせてしまった。
ならば捨ててしまおう。
愛したいと思うことが、我が子を殺してしまうのならば、私の願いなど必要ない。
ただ産まれてくればいい。
ただただ生まれ続けてくれればいい。
この世界のあまねく地平を満ち満ちてくれればいい。
それさえできれば、私という自我が消えてしまっても、きっと寂しくないだろうから。
だから、聖剣が貫いた傷口を自ら広げることなど容易い。
手を突き入れ、グチャグチャと中身を掻きまわす。
目当ての物を見つけた。聖剣に割られた魔胎邪界の宿る子宮。
小康状態となっているそれを、躊躇いなく鷲掴み、取り出した。
魂が引き千切られるかのような激痛が襲う。
無意識に絶叫する。
肺に水が流れ込み、吐く息がなくなろうと、叫びは止まらない。
苦しい。痛い。苦しい。死にたい。痛い。苦しい。痛い痛い痛い苦しい死にたい死にたい苦しい。
ああ、可愛い坊や、どうか幸せにおなりなさい。
その思考を最後に、色の魔王と呼ばれた女の人格は跡形もなくこの世から消え失せた。
●
王都地下大水道の出口は、南区の平原に設けられている。
出口となる水路だけは地下に潜らず地表に作られた。
海へと流す際、海水の逆流を防ぐためだ。
巨大な水道の出口に相応しく、水路は巨大で一つの川のように見える。
その周りには掘っ立て小屋が所狭しと並んでいた。
難民達の住居である。
各地から集まった彼等は、居住可能な空間の存在する南区へと集められた。
開発途中で放棄されたとはいえ、ただの荒れ地よりはマシ程度に整備もあり、生活用水を利用できる水路も急遽新設された。
突貫工事あったため、水路の多くは出口水路の近辺に造られた。
必然的に、貧民街は水路を中心として広がっていった。
現在、各部族長の号令により、貧民街は完全な無人となっている。
星辰祭の翌日に、多少なりとも繋がりがあった至高神殿の交渉役として、アナが説得に訪れた。
魔王の出現を語り。勇者の存在を示し。策謀を打ち明けた。
理で説き伏せ、情に訴え、事実のみを突きつけた。
故郷を追われ、それでも矜持を捨てぬために、寄り合い所帯がそのまま自治会となった。
それは彼等なりの抵抗であり、ままならぬ理不尽への滞りだった。
不遇を強いた魔王に一矢報いたくはないのか。
行政の手が回らないとはいえ、自治を言い分に介入を許さぬのは本当に矜持を護るためか。
恐怖から目を背けるために、閉じこもっているだけではないか。
ならば安心するがいい。この世界に明日をもたらす光が来た。
勇者が来た。貴方達が失ったものを取り戻しに来た。
そう語るアナの言葉は、否定するには余りに真っ直ぐ過ぎた。
聞き流そうと顔を背けても、正面に回り込んできて再び言い聞かせるようなしつこさだった。
互いの譲れない主張で膠着した会談は、最終的にエヴァが炊き出しと称して煮え滾るスープを全員の口にぶち込むことで和解となった。
時間が無かったので巻きに入ったともいう。
無人となった住居は、そのほとんどが水路の氾濫によって浸水した。
張りきった川の大精霊の本気が、水路の許容量を超えたのだ。
『ふぅ、久しぶりに本気出しちゃったわね。それでも壊れないなんて、鍛冶神の信徒もやるじゃない』
やがて、人の形をとった川の大精霊が、ずぶ濡れのクロイと共に水面に現れた。
抜け殻となった色の魔王と一緒に串刺しになったクロイは、力なく漂っている。
川の大精霊は身体を揺すってクロイを起こそうと試みた。
『ほら、貴方至高神の使徒でしょう。この程度で死んじゃ駄目よ。聞いてる?』
「……あ、すいませ……」
『ちゃんと水中呼吸の加護付けてたんだから大丈夫だったでしょ?』
「……そ、ですね……」
『ああもう、しっかりしなさい。早く起きないとアレが来ちゃうわよ』
川の大精霊がそう言って水路の出口を指す。
クロイがその先へ視線を向けるが、なおも動こうとはしなかった。
その態度に焦れたのか、川の大精霊は水没していない建物の屋根へとクロイを運ぶ。
『アレは私じゃ止められないわ。どんどん大きくなる。きっと全てを飲み込んでしまうまで止まらないわ』
「〝混沌〟……一部、ですか……」
『知らないわ、私は遭ったことないもの。でも、あの汚いのが海まで来られても困るわ』
「承知、しまし、たッ……!」
クロイは立ち上がった。
口から血反吐とかぶちまけたが、それでも足取りはしっかりしている。
気合とか根性とか修行とかの賜物である。
「ゴブッ! ゲボッ! ガハッ!」
『ちょっと、本当に死んだりしないでしょうね』
「いや……まあ……、普通に死にますよね……」
『死んだら駄目じゃない?』
「大丈夫です。死にますが大丈夫です」
『……まあ、いいわ。至高神の加護あるのでしょうし。それはそうと、手助けは必要かしら? 熱心に貴方の事を頼まれちゃったし、もう少しくらいなら手を貸すけれど』
そう言って隣りに立つ川の大精霊に、クロイは首を横に振る。
「最初の想定とは若干の誤差がありますが、魔王討伐に支障はありません。ご助力、感謝を」
『そう、なら気を付けなさい。来るわよ』
その瞬間、水路の出口が内側から爆裂した。
構造物を粉々に破壊して、大質量の物体が飛び出してきたのだ。
質量体の正体は、判別不能なほど重なり合った怪物達の肉塊だった。
無数の口から雄叫びを上げ、大気を散々に震わせる。
聞く者の正気を削り取る常軌を逸した狂気の産物。
暴走した魔胎邪界が産み出した、全てを飲み込む怪物の集合体である。
「それがお前の望みか、娼婦よ」
集合体は、真っ直ぐにクロイを目指して数多の手足を動かし地面を掻き進む。
進路上の建物はひきつぶされ、水路が質量に耐え切れずに崩壊した。
それを見た川の大精霊は顔をしかめて言った。
『私は流れる意志。流れを止められてしまったら無力よ。残念だけどこれ以上は無理ね。武運を祈るわ』
「はい、後はお任せをば」
川の大精霊が海への流れに溶けて消える。
見送る事はせず、クロイの視線は集合体へと固定されていた。
迫る集合体を見て、クロイは不敵に微笑んだ。
「元気な坊や、母が恋しかろう。すぐに会わせてやるゆえ、しばし我慢召されよ」
そう言って、自らの腹に突き立つ聖剣を、思いっ切り引き抜いた。
腸を垂れ流すクロイの元へ、集合体が辿り着く。
肉塊の如き腕を振り回し、建物ごとクロイを薙ぎ払った。
何の抵抗もなく弾き飛ばされ、水を切りながら何度か跳ねて、水中へと沈んだ。
海へと向かっていた川の大精霊が、水中に飛び込んできたクロイを察知して言う。
『えっ!? 本当に死んだ!?』
水底へと沈むクロイは、何も答えることはなかった。