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若者と日本人と「なろう小説」/空想の中でぐらい好きに在りたい

作者: 読書メン

あらすじに当エッセイの目的とするところは書いてあるので、何が主目的か予め確認の上読むことを推奨します。


当エッセイを書くきっかけとなったのは某動画サイトでのネットニュースです。それを受けて執筆しておりますので、あくまで別観点からの一考察程度に受け止めて頂ければ幸いであります。

参考までに該当のネットニュースへのリンクをここに記載しておきます。

http://news.nicovideo.jp/watch/nw2899165?ver=video_q

(記事名:ご都合主義の異世界転生ラノベ「なろう系」が人気 小説を「早解き動画」感覚で楽しむ人が増えている!?)

 現代の若者として文字に親しんでいると色々なジャンルの作品に触れる機会がある。筆者は「小説家になろう」では所謂「読み専」を謳っているが、その時々の気分で多くのジャンルに手を出し読んできた。当然ながら「小説家になろう」」だけでなく今や懐かしいケータイ小説や個人サイトのネット小説、黎明期のラノベや大衆文学等にも親しんできているわけだが、昨今のネット小説の流行を見ていると少々不思議に思うところがある。「ご都合主義」や「俺TSUEEE」といった要素を主とする小説である。これらが流行するのは何故であろうか?

 若者の小説離れ・若者の文字離れが進んでいると言われる現在において、こういった小説が生み出され広く読まれているというからにはまだまだ創作者も読者も捨てたものではない。ともすれば、それは新たな時代の潮流であると言えるだろう。しかしその源泉は何処にあるのか。前書きに記載した某動画サイトのネットニュースを読み、なるほどと思える言説ではあったが、「それだけではないだろう。あくまでそれは表面的なものなのではないか」と感じたのである。それゆえ、筆者なりに他の要因を分析してみたのが当エッセイである。

 まるで前書きが2つになってしまったようだ。本題に入ろう。



○小説観の変化/時代感覚の変化

 これは参考に挙げた記事でも触れられているのであるが「小説に対する読者の在り方」、つまり読者の「小説観」が変わったことが一要素としてあるだろう。

 小説やドラマには大きく2種類ある。一つは教訓物語としての小説、もう一つは娯楽としての小説である。本題から外れるが、前者についてこういった創作物としての在り方を説いた作家にジョージ・バーナード・ショーが居る。彼の作品の1つ「ピグマリオン」がそういった目的で生み出されたのと共に、ショー自身による補足において「芸術は教訓的以外のものではありえない」とまで述べられている事からも明らかである。別の例ではグリム童話の類もそう。「赤ずきんちゃん」では「言い付けを守らなければ多大な代償を支払うことになる」という教訓があり、「ヘンゼルとグレーテル」では「上手い話には必ず裏がある」という教訓がある。グリム童話は元々民話を集め編集した学問的なものであったが、原典から何度も修正が加えられており、今現在の形にもあるような教訓物語としてのスタイルを維持したまま表現が変わっている。言い換えれば、時代に合わせた変化を遂げた「学ぶための物語」なのである。母親に「悪いことしたらババが食べちゃうよ!」みたいな冗談を筆者も言われて育ってきたがこれも同様である。教育の為に作られた方便なのだ。成長するために「聞く」物語だったと言い換えていいだろう。


 さて、この話で重要なのは後者であろう。これこそが今で言うところの小説であり、ここで考察を加えるべき対象でもある。娯楽としての小説、つまりはエンターテイメント小説だが、これも一つ分かりやすい例を挙げるなら「マイ・フェア・レディ」という作品がある。映画で有名な作品なので名前を聞いたことがある人や実際に見た人も多いだろう。ざっくりと言えばこの作品、ショーの「ピグマリオン」をリメイクしたものである。しかもその理由が「ピグマリオンの結末気に入らないから別ルート見たーい」という観客からの要望で改変がなされたという「どこのifルート小説だよ!?」とツッコミを入れたくなる理由からだといわれている。「ピグマリオン」の狙いは既に述べてある通りで、作品としての完成度も十二分に高い。ただし、観客心理としてヒギンズ教授を振ってフレディに嫁いだのにはメロドラマを感じられなかった。教訓とエンターテイメントの対立であったと言い得よう。同時期に「シンデレラ」が発表されたことで世間がシンデレラストーリーに傾倒していたのもそれを後押ししたともされているが、結局のところ観客ウケがよくなかった。この一点に尽きる。要望を叶えるために制作された「マイ・フェア・レディ」はまさにエンターテイメントして観客ウケは非常に良かった。話の大筋は同じなので完成度も当然ながら高い良作であるから、物語としてもエンタメとしても大成功の作品だったというわけだ。

 ここまでショーの作品を比較して感じてもらえたかもしれないが、娯楽というのは究極のところ『満足感を得られるか否か』が至上命題としてある。ゲームにしても小説にしてもエンタメを謳う限りは満足できなきゃ意味がない。ということは、読者のニーズを叶える必要性がある。それは時に夢物語であるし、時にはあり得たかもしれない歴史への想像であるかもしれないし、時に甘いラブロマンスや胸躍る冒険譚であるかもしれない。観客という存在が居て初めて成立するのがエンターテイメントである。作者(&作品)と読者による双方向的なコミュニケーションが必要とされているのがエンタメの特徴なのだ。教訓物語ならば作者が一方的に「○○は××だ」と言えばそれでお終いだがエンターテイメントは読者の側から触れていくものであるためにそうはならないのだ。ココがエンタメの難しいと言われるポイントである。


 話を戻そう。

 エンターテイメントは読者が居て成り立つものであり、時代や読者のニーズと影響を多分に受ける。ここまではいいだろう。これは掘り下げればエンターテイメントに一種のブーム性や規則性が存在することを示す。規則性とはスタイルや形式と言い換えられる。これらを学問っぽい言い方をすれば、エンターテイメントには「流行する要素」(=ブーム/ミーム)が一定時期毎に存在し、その要素を特定の規則に則って扱うことで分かりやすい娯楽として成立させる形へと収束する。極端な纏め方をすると所謂「テンプレ」ということだ。

エンターテイメントは満足できなきゃ意味がない。

満足するためには満足する要素を実感する必要がある。

それを実感するためには分かりやすい形・スタイル・様式に収まっている事が求められる。

その流れに読者が迎合することで充足感を得る。このようなフローに落ち着く。

 このパターンの一つの答えに「水戸黄門」が挙げられるだろう。毎度毎度大筋としては似たような話であるが、分かりやすい勧善懲悪でそこがいい作品だ。長く続いている作品としてオチも分かっているし、笑うところもハッキリしている。現代人の若者である筆者としては爺婆世代ほどは楽しめないのだが、それもまた受け手のニーズやツボの差だと思っている。


 さて、エンターテイメントのフローが示されると共にあるポイントが浮かび上がってくる。それは何か。

「○○という形で××を楽しむというスタイルが確立されている」という点である。つまり、エンタメの味わい方が形式化されて決まっているということだ。小説に準えるのであれば、読み方が決まっていると言える。学校で読み方の指摘をされたことはないだろうか? 現代文学にしろ近代文学(特に日本の近代文学)にしろ、「コレはこう読め!」と言われた経験はあると思う。書くスタイルが存在するならば当然読むスタイルも存在するのである。エンターテイメントは楽しめれば勝ちなのは間違いないのだが、それを楽しむ作法というものが同時に決まるものなのだ。こればっかりはある程度の形を得た芸術が避けられない問題である。多様化時代の今でこそマシだが、スタイルを確立し、それが主流となれば絶対に特定の読むパターンが生まれる。なぜなら其れがウケるから。書き手もそれを見越して作っている。これを知ると作る側も読む側も難儀なものだと感じてならない。まぁそのお陰で笑うツボや楽しむポイントがハッキリしている側面もあるので悲観するところではないのだが……ともあれ、エンターテイメントは作品単独で存在しているのはなく読者と共存しているが故の文化と制約があると理解できればここでは十分である。


 大分長くなっているが、ようやく言いたいことの一つが言える。

 書き手/読み手の年代層が変わるとともに、エンターテイメントの至上命題を果たすために求められるスタイルは変わる。作り方も読み方も、だ。これは時代による価値観とブームの変化、時間の経過によるニーズの変化が大きな要因としてある。要するに慣れて当たり前になったら飽きるのだ。食事のようなものと考えていい。オトナのニーズや感性は子供とは一致しないし、仮に合っていたとしてもそんなに長くは続かない。毎日パスタを食べ続ければ絶対に飽きるのと同じだ。エンターテイメントとは一時の充足を得る為の消耗品に過ぎないのだから当然だろう。 物事を楽しむためにはその前提となる経験・教養・文化が要求されるのに、それを持たない人にウケる道理はない。強いてその例外を挙げるなら「新体験への高揚感」ぐらいだろう。

 書き方と読み方の価値観の差は、参考記事においては『観る楽しみ方』と表現されている。私自身もそのように思う。日本近代文学をテクスト論の視点から読んでいると色々な解釈が生まれるのであるが、これは本当に疲れる。読者として労力を要する作業なのだ。その労力の先に見えるものが楽しくて楽しくて仕方がないから丹念に読み込むのが日本文学が好きな読書バカ達なので、好き好んで苦労しているからこれはいい。ゲームをオワタ式でやるようなものと思ってくれれば十分である。マゾヒストとは我々にとっては褒め言葉なのだから。しかしながら、こういった楽しみ方は世代が違えば、嗜好が違えば理解はし難いだろう。私は敢えて難解な日本文学を例に取っているが、ネット小説や「なろう小説」もこの例に外れない。生まれてまだ新しい分野であるが故の作法の無理解といったものもあるだろうが、一つのスタイルとして『観る楽しみ方』は今の若年層の価値観を表しているのであろう。そう考えれば「今の若い子は文字を読まない」とは強ち間違ってはいないのだろう。読めないのではなく、読まない読み方をしているのだから当然であろう。


――と、ここまでつらつらと書いてきたが、ようやくこのエッセイ本番である。長かった。ここまで来るのに何文字書いた? 何、4000字? 筆者よ……もっと上手く纏めて書けんのか。即興で書いているからこんなことになるのだよ読書メン君。 ……自虐はこれぐらいにして考察をしていこう。


 『観る楽しみ方』という点に着目してみよう。読み方にメスを入れるヒントはここだ。

 上で日本近代文学の読みについて若干触れたが、これは「読む」である。テキストを基にそこから正誤情報などを読者が判別しながら作品に入り込んで読み込んでいくため、読み手によって振れ幅が生まれる。作品もまたそれを良しとしている。どういうことかと言えば、作品は「世界観を提示するからそこから自由に読み取ってね」という要求をしているので読者は「こう書いてあるということは……○○なんだな……」と自分で情報を整理して空想を作り上げていく。それでもって、答えとする。あまりにも本文を逸脱していてはよくないが原則として「お前が思うならそうなんだろうな、お前の中ではな」が許されている。答えは無数にあり、そのどれもが答えなのだ。押さえるべき点さえ守られていれば不正解はない。コレという決まった答えがないので読者が自由に答えを生み出すことができるのである。その代わりに読者が自分で答えを探さなければならないという苦行が存在している。この作業を乗り越えなければ作品は意味不明な文字の羅列にしかならない。代表的な作品を出すならば「瓶詰の地獄(夢野久作)」や「水月(川端康成)」あたりか。単純に文字を追って軽く読んだだけでは作品を味わえない。苦痛を伴うのが文学だ。コーヒーの苦味を味わうかのように苦痛を快楽へと転化させる「読む」という作業を達成することで初めて楽しめるのである。

 対して「観る」なろう小説はどうであろうか?

 参考記事に挙げられているような作品は総じて今書いたような作業は必要としない。ライトノベルの目指すところである「ささっと読んで楽しむ」という目的を果たしている。難解な作業を必要としないように作られているからこそ「観る」事が可能なのだと言える。これは小説というよりは劇や大道芸のそれに近い。同じ劇で例えるならば日本近代文学はギリシア劇で、なろう小説はミュージカルのオペレッタあたりの差があるだろう。なろう小説でも「読む」作業を必要とする作品やしっかり考察を加えるべき作品もあるが、むしろその系統はライトノベルよりも文学よりの作品群で主流からは外れるように思う。あくまでなろう小説はライトノベルの系譜として存在する。とするならば、先に挙げた日本近代文学のようなテクスト読解への自由さはない。予め答えやルートが決まっているからこそ、それに沿って眺めているだけでよい。読者に求められるのは作品への理解と没入であり、0からの世界構築(=自分の読みの形成)ではない。読者はあくまで物語を俯瞰する存在として居るのであるからそのような労力は必要とされない。あまりにも説明が足りないか、視点によって情報が極度に制限されているところから予想するのでなければ概ね不要である。読み方や読むための読者の視点位置からして違うからからこそ物語を観る形に落とし込めたと言っていい。ただし、筆者としてはライトノベル黎明期の作品はこのような形ではないと言っておきたい。むしろ、ライトと謳っているが文体のそれは文学とおよそ同一である。概念上のライトだったと思う。なろう小説はそれを更に読み手の作業自体をライトなものへと変える過程で読者の読みを制限したことが大きいと思える。当たり前な話だが、答えや読み方が分かっていない・ハッキリしていないものよりは明確にして限定されているものの方が余計なことを考えなくていいから楽なのは疑いようもない。なろう小説とは「読者の負担がライトなノベル」が正しく形容できているのではなかろうか? 記事でTAS等を引き合いに出しているのもこの辺が大きな要素であると見ている。 昨今のなろう小説のテンプレ化や特定のジャンルが活発化しているのもこれらが先鋭化している証拠だと見ることも出来る。

 ここから転じて、ご都合主義が躍進しているのもまた先鋭化の煽りを受けているとも言い得るし、別の見方をすれば「努力だろうがご都合主義だろうがどうでもいい」とも取れる。なろう小説にとって重要なのは読者が没入して満足感を得ることであって、その為の作品に求められるのは爽快感である。爽快感を得るための物語なのだから一般的な物語や文学作品のような入念に作り込まれた部分は必要なく、些事もいいところである。目的を果たすのに重要でなく無視できるのであればわざわざ細かく練り込むよりはご都合主義で本来の爽快感を重視するのは必然であるということだ。逆に、重厚な作りが作品として求められるのであれば緻密に作り込んでご都合主義に走らないか、ご都合主義それ自体が作品の有用なファクターになっているかのいずれかになっているだろう。「読み」を要求されるなろう小説にはそのような要素があるため、てんで的外れではないだろう。




○日本人の言語特性/没入言語

 ここまではなろう小説を初めとする「小説自体の要素」から考察をしてみたが、ここでは別の視点として「日本語の特徴」という視点から切り込んでみよう。

日本語は世界でも上位に位置する難解な言語であると言われる。その理由は単語数の多さと使い分けと一般的にはされている。実際に複数言語を話せる外国人でも日本語はとても扱いにくいと言う。助詞・助動詞などの品詞問題から始まり「ひらがな・カタカナ・漢字」の複合表記、それに加えて表音文字・表意文字・表語文字が複雑に入り組んでいて適切に使い分けるなんて無理であるそうだ。これは友人に言われたことなのだが、「日本語って新宿駅や大阪駅みたいなものだよ」と表現をしてくれた。地方出身の筆者は大阪駅や新宿駅の迷路のような状態になんじゃこりゃと迷った時期があったが、日本語とはそのような複雑なシステムの上に形成されているのである。とにかく分かりにくいし使いにくい。一文字変われば意味ががらっと変わるなど日常茶飯事。それで正確に読み解くのは……言うまでもないだろう。

だが、これは別の効果を生み出すこととなった。日本語はとにかく複雑である為にその分奥行きが深い。表現の多様性に富み、特にメタファーに秀でている。複雑な言語形態はそれだけの自由性を生み出すとともに、それを扱う日本人に特徴的な感性を与えることとなった。

 日本語と日本人の最大の特徴、それは喚起能力・想起性の強さである。

 ある文章を読んだ時、日本人はそこから視覚イメージと聴覚イメージといった五感をフルに活用した映像を脳内に生み出す能力に強い適性を有する。通常、外国語においてこのような機能はほとんどないか、あってもここまで映像化がハッキリとされたものではない。この能力が物語の没入に使われた場合どのような影響を与えるか、想像してみてほしい。


――想像できただろうか? 別になんでも良い。どんな些細なことであっても構わない。その「想像できる」というのが日本語の最大の強みである。

 筆者の答えを述べるならば、物語、特に語り手やキャラクターに没入しイメージを強く形成することになり、シンパシーを抱きやすくなる。そしてシンパシーを抱いたことによって没入感が更に強まるとキャラクターに成り代わったり内側に入ることで物語をより体験的に味わうことでその世界に完全に入り込む。もはやここまで来ると妄想の領域に読者は突入しているのだが、自分のイメージした空想の世界に没入しやすい日本語の感性は自分自身を主人公としてもう一つの世界を生み出し、そこで仮想体験を作り上げることによって更に深く五感で感じるというサイクルを作り上げる。俗に妄想コンテンツと括られるものは小説にしろアニメにしろコスプレやゲームにしろ同じ原理なのである。日本語はあまりにも「感じすぎてしまう」言語なのだ。

 さて、ここまで感じてしまえる言語を扱っているとある問題が生じてくる。想像が及びすぎて物事の裏の裏まで深読みしようとしてしまうのである。日本近代文学の読みなどまさにコレであり、想像しすぎた結果として文字を文字通りに読まず、音声を言葉通りに捉えず、その裏を探ろうとして保管するシナリオを脳内に作り上げてしまうという独特の行動を取るのである。見に覚えのある人も居るだろう。筆者もそうである。いや、もうここに書いていることそれ自体が答えだと思う。日本語はフィクションとは切り離せない言語であり、あらゆる小説がその産物と言って良いだろう。妄想逞しい日本人ならではである。実際にこの言語機能は言語学者の研究によって明らかにされており、英語やロシア語、中国語等と比較実験も行われて確かなものであると分かっている。日本語は生まれながらにして妄想のためにある言語の地位を確立しているのである。


 この日本語の特徴がエンターテイメントと結びつくとどうなるか。もうおわかり頂けるだろう。

 一つの解が日本近代文学であり、一つの解が純文学であり、また一つの解がネット小説であり、そしてなろう小説である。なろう小説はその中でもとりわけ読者の仮想体験や妄想・願望を前面に押し出した作品群であり、人間の本能的な欲求が込められているように思う。それこそ、男の子なら誰しも小さい頃はサッカー選手や野球選手に対して憧れたのと同じように、小説の中に己の理想や願望を投影しているのである。そして、作り出された物語に読者が己を投影することによって理想の自分を実現する夢を果たしている。こう言っては意外かもしれないが、正常な作用なのだ。

 単一の作用によるものでなく、諸要素が絡み合った結果としてなろう小説の隆盛があるように筆者は思う。日本人独特の感性と若年層の新しい価値観にシンパシーを抱くのは類似する感性を潜在的に持つ若年層である。流行の裏にはここまで書いてきた全てが関わっているのであろうと思う。ゲームの流行が変わったのと同じように考えていいはずである。かつてはローグライクゲームが熱狂的な支持を集め、RPGが絶大な人気を誇り、今ではオープンワールドゲームが主流となり、ゲームの方向性が変わったりニーズが変遷しているのと同様であると。

 古来より時代によって形と内容を変えつつも似たようなものは存在していたわけで、なろう小説とそれまでのエンタメが違うとすらばそれは馴染みない文化的表現でしかない。消耗品としての大衆娯楽の本質は変わってはいない。なろう小説をもう少し広く深く読んでいけばまた別の答えも見えるやもしれないが、それでもこの部分は変わりようがないだろう。




 ここまで長々と書いてきたがこの話をまとめよう。

 なろう小説が人気を博す大きな要因は「日本語の言語的機能と日本人の感性」及び「時間経過による若年層のエンターテイメントに対する嗜好性の変化」が欲求と結びついた結果上手く定着することが出来た事に尽きるのではないだろうか?

 エンタメとしてのライトノベルが疑問視される背景もあり、その中でも商業活動を目的としていたわけではない「なろう小説」が受け入れがたい層もいるとは思うが、大衆芸術としてその役目を果たすのには必ずしも商業性は必要ではない。むしろ、楽しめることが最優先で、これまではその娯楽を買っていたが故に先入観として引きずっているのではないか。確かに素人で書いている人もいるし、物書きも全員が全員小説を書くのが本職ではない以上なろう小説界隈において全体的な技量が芸術として高いわけではないのは認めるべき点であろう。ただ、このエッセイを通して筆者が言っておきたい事は「作品の芸術性・商業性とエンターテイメントの充足感は別物」だということ。草野球だって楽しいものは楽しいのだ。泥仕合であってもプレイする側も観戦する側も楽しければそれでよい。書き手と読み手の双方において求めるところが一致しているのであれば自然と定着するのは道理であるし、下手くそな文章だから人気なのはおかしいというのも的はずれな指摘であろう。


 結論として、読み物としてではない、エンターテイメントとしての創作需要を満たした故の支持であると筆者は言いたい。

色々と読んでいる身ではありますが、物書きではないので拙い表現も多く読みにくいかと思われます。

このようなエッセイをお読み頂き感謝します。


・・・まぁぶっちゃけ、私的なメモを兼ねたエッセイなので「こんなのあったな~」と私が後に黒歴史を懐古することも目的にしています。ですのでどうかお手柔らかにお願い致します。

誤字脱字? たくさんあると思いますが、生暖かい目で見て頂ければ助かります。



もしかしたら今後、別の観点からの分析をするかもしれないし、違う題材でエッセイを書くかもしれません。個人的には「テンプレの変遷」とかをテーマに書いてみたいですしね。「ざまぁ」小説とかの話で。

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[良い点] はじめまして。 賽子ちい華様の活動報告で紹介されてまして、そちらから参りました。 一言で感想を書きますと、ためになりました!なのですが、もう少し述べさせていただきますと、日本語独特の持ち…
[良い点] 感想欄を含めて楽しませていただきました。 面白かったです。 [気になる点] 商業性とエンターティメントは違うのですね。 なんだか、ここだけが引っ掛かります。 わたくしの読み違いでした…
[良い点] 古いエッセイだと承知の上、感想を書かせてください。 とても初投稿とは思えない整った文章で読みやすかったです。 内容も考察、添えたソースともに素晴らしく感動すら覚えました。 例え大学の教…
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