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銀貨3枚で離縁いたします、詐病の旦那様?

作者: 夢見叶
掲載日:2026/04/29

「アデーレ。私は胸の病だ。湯治の費用を、銀貨250枚、追加で頼みたい」


 夫のヴィルヘルム様が、青ざめた顔でそう仰ったのは、7度目の春のことだった。


 私、アデーレ・フォン・ライトハンマー、31歳。ライトハンマー伯爵領、本邸の朝食室にて、夫の胸の病の7度目を、淡々と承る妻、である。


「7度目の発作でいらっしゃいますね、旦那様」


 私は、帳簿に羽根ペンの先を置いたまま、夫の顔を見上げた。


「胸の病でいらっしゃるのに、湯治場の温泉に7年間浸かり続けても治癒なさらない病名を、私は存じ上げませんの」


「な――」


「お差し支えなければ、湯治場の温泉と、夜の歌劇場の桟敷席のうち、どちらが胸に効くのか、書面でご教示いただけますかしら」


 ヴィルヘルム様の喉が、わずかに、動いた。


「そ、それは医師団の見立てだ」


「左様でございますか」


 私は、領地経営台帳の3月分のページを、静かに繰った。


 銀貨250枚――それは、領地の1年分の小麦収穫額の、約3割に相当する。

 今年で7年目。累計、銀貨1,750枚。


 王都に屋敷が1軒、建つ金額である。


「アデーレ」


「はい」


「君は、私の病を、信じてくれぬのか」


 私は、1度だけ目を伏せた。


 そして、もう1度上げた。


「信じておりましたわ。6年前までは」


 ヴィルヘルム様の唇が、薄く震えた。


「では、なぜ……」


「4年前の春、保養地のホテルから届いた請求書に、婦人物の絹のドレスが3着、計上されておりました。

 その翌年は、香水と真珠のネックレス。

 昨年は、王立歌劇場の桟敷席が2席、連続3日の貸切でございました」


「……」


「先ほど私が、湯治場と歌劇場のどちらが胸に効くか、と申し上げましたのは――

 旦那様の7年間が、私の手元の請求書綴りに、すべて記載されているからでございますわ」


 ヴィルヘルム様は、何も仰らなかった。


 ただ、こめかみに汗が、1筋。


 私は、羽根ペンを、置いた。


「旦那様」


「な、なんだ」


「本日午後、領地監査官のヴィクトール卿が、当家の医療費明細の精査にいらっしゃいます」


 ヴィルヘルム様の顔から、血の気が引くのが見えた。


 それは、私が嫁いで7年で、初めて見る、夫の素顔だった。



 ◇



 ヴィクトール・フォン・アシェンバッハ卿。


 28歳、現役で領地監査総監を務める、王国でも最年少の監査官。


 そして、私が嫁ぐ3日前、伯爵家の婚姻契約書に証人として署名された方だ。


 7年前のあの日、私は、彼の名前を、契約書の片隅で、たった1度だけ見た。


 その名を、王宮監査府からの正式な書状で、ふたたび目にしたのは、つい先月のことだ。


『領地監査総監、ヴィクトール・フォン・アシェンバッハ。

 ライトハンマー伯爵家の医療費明細について、精査の申請を受理いたしました。

 申請者――伯爵夫人アデーレ・フォン・ライトハンマー』


 申請者は、私である。



 ◇



 正午。


 伯爵家の正門を、4頭立ての黒馬車がくぐった。


 馬車から降りられた方は、長身で、銀の髪に近い淡い金髪。


 灰青の瞳が、玄関広間の蝋燭の灯りを、ひと撫でするように受け止めた。


「アデーレ・フォン・ライトハンマー伯爵夫人。お初にお目にかかります」


 ヴィクトール卿が、静かに頭を垂れられた。


「お初に、ではございませんわ。閣下」


 私は、片手を、軽く差し上げた。


「7年前、当家の婚姻契約書に、証人としてご署名くださいましたでしょう」


 ヴィクトール卿の睫毛が、わずかに揺れた。


「……ご記憶でしたか」


「契約書の36枚目、左下、第12条のすぐ脇でございました」


「条文番号まで、ご記憶ですか」


「7年間、毎朝、写してまいりましたから」


 ヴィクトール卿の唇が、微かに、確かに、ほどけた。


 それは、笑みではなかった。


 何かを、信じる、という、そういう種類の表情だった。



 ◇



 応接間。


 ヴィルヘルム様は、すでに椅子の上で、両手を膝の上で握りしめておられた。


「ライトハンマー伯爵殿。本日は、医療費明細の精査に参りました」


「し、しかし、私は本当に病だ。当家の主治医、シュタイン医師の診断書もある」


 ヴィルヘルム様が、震える指で、書類を差し出された。


 ヴィクトール卿は、それを受け取り、開きもせず、ただ表紙を、2度、撫でられた。


「シュタイン医師ですね」


「そ、そうだ」


「ご本人は、本日、王宮監査府の取調室にいらっしゃいます」


 ヴィルヘルム様の喉が、ひゅう、と鳴った。


「な、なぜ……」


「他3家の貴族の診断書にも、シュタイン医師の署名がございました。筆跡が、わずかに、しかし均一に、揺れております。本人が記したものではない、と、当方の筆跡審査官が結論を出しました」


「そ、それは……」


「医師の名前を借り、診断書を量産した者がいる、ということでございます。

 本日、その者の氏名は、まだ申し上げません。

 ですが――」


 ヴィクトール卿は、初めて、ヴィルヘルム様の目を、まっすぐに見られた。


「7年間、シュタイン医師の診断書を最も多く受領なさったのは、当家の伯爵殿でございますね」



 ◇



 そのとき、応接間の扉が、軽くノックされた。


「失礼いたします。緊急書類でございます」


 入ってきたのは、40がらみの、痩身の書記官だった。


 頬骨が高く、瞳の下に少し隈がある。


 公証人補佐、ベルトラム氏。


 彼の手には、巻紙が1本、握られていた。


「ベルトラム」


 ヴィクトール卿の声が、低くなった。


「閣下、業務報告です」


「今、報告中だ」


「相互報告と認識し、業務優先と判断いたしました」


「……申せ」


「重要事項。当家の家令ハインリッヒ氏より、過去7年分の領地経営台帳の写しを、本日、王宮監査府に提出済みでございます。提出者の代筆者欄には――」


 ベルトラム氏は、巻紙を開かれた。


「アデーレ・フォン・ライトハンマー伯爵夫人、と、ご記載がございます」


 ヴィルヘルム様が、立ち上がられた。


「な、なぜ、家令が、写しを……!」


「家令ハインリッヒ氏は、当家の長老格、ベルント・フォン・ライトハンマー卿のご指示により、3年前から、台帳の写本作業に従事しておりました」


 ベルトラム氏は、淡々と続けられた。


「ベルント卿は、当家の家門法の第12条発動条件を、2年前に、王宮監査府にて確認なさっております。

 申請者の氏名は――」


「もう、よい!」


 ヴィルヘルム様が、声を上げられた。


「アデーレ! 君は、いつから、これを……」


 私は、領地経営台帳を、静かに閉じた。


「4年前の春、絹のドレス3着の請求書を見た日からでございますわ、旦那様」


 ヴィルヘルム様の膝が、座面に、ぐらりと落ちた。



 ◇



 ヴィクトール卿が、私の手元の台帳に、目を落とされた。


「アデーレ夫人」


「はい」


「貴女が4年前から、領地の井戸を、毎朝数えておられたことを、私は存じ上げております」


 私の指が、台帳の角で、止まった。


「……閣下、何を、仰いますの」


「4年前の春、当家の領地境界の測量に、私が立ち会っておりました。境界の樫の木の陰から、貴女が領地の井戸を、1つずつ指で数えておられるのが、見えました。

 貴女は、その日、16本の井戸のうち、1本の縁が崩れていることに気づかれ、翌日、修繕を手配されました」


「……」


「翌年も、その翌年も、貴女は同じことを、なさっておられた。

 私は、毎春、境界の測量に出向きました。

 出向くたびに、貴女は、井戸を数えておられた」


 私は、台帳を、両手で、押さえた。


「もう1つ、申し上げてもよろしゅうございますか」


「……どうぞ」


「貴女は、帳簿に羽根ペンを置く前、必ず3度、ペン先のインクを布で拭われます。

 7年間、欠かさず」


 私の喉が、詰まった。


「……閣下、それを、どこで」


「家令ハインリッヒ氏が、台帳の写本を提出する際、毎回、申し添えておりました。

『これは、伯爵夫人が、必ず3度ペン先を拭ってから、写されたものでございます』と」


 ヴィルヘルム様が、ぽかんと、口を開けておられた。


 ヴィクトール卿が、続けられた。


「そして最後に。

 貴女は、保養地のホテルからの請求書を受け取られるたび、左手で胸を1度押さえてから、封を切られていた。

 7年間、欠かさず」


「……」


「胸を押さえる方は、貴女のほうでございました」


 私の指先が、白くなるのが、自分でも、わかった。


「閣下」


「はい」


「閣下は、なぜ、当家の婚姻契約書に、ご署名くださいましたの」


 ヴィクトール卿は、ヴィルヘルム様の方を1度ご覧になり、それから私に、目を戻された。


「私の父は、領地監査官の在職中に、毒殺されました」


「……」


「父が摘発した不正貴族の1人が、父の馬車の御者を買収し、茶に毒を盛らせました。

 私が、12歳の春でございます」


 私は、息を、止めた。


「父は、死の前夜、私にこう申しました。

『監査官は、誰かの帳簿を見続ける役だ。

 帳簿の数字の向こうには、必ず、その家を支えてきた誰かの指がある。

 その指を、見失うな』と」


 ヴィクトール卿は、応接間の窓辺の蝋燭を、1度だけ見つめられた。


「7年前、当家の婚姻契約書に証人として呼ばれた日――

 私は、ヴィルヘルム殿のご署名の傍に並んでいた、貴女のお名前を見ました。

 そしてその直後、ヴィルヘルム殿の手元の保養地申請書類に、

 すでに虚偽の医師署名が混じっていることを、見抜きました」


「……」


「私の権限では、結婚そのものを止めることは、できませんでした。

 ですから――その日から、私は、貴女の指を、見失うまい、と、

 そう、決めたのでございます」



 ◇



 ヴィルヘルム様の取り調べは、その日の夕刻まで続いた。


 家門会議は、翌週、王都の長老格邸宅で開かれた。


 ベルント卿が、長老格として、議長席に着かれた。


「ライトハンマー家家門法、第12条」


 ベルント卿の声は、低く、しかし確かに通った。


「『正室の医療経費を虚偽請求した夫は、伯爵位を剥奪される』

 ヴィルヘルム・フォン・ライトハンマー。

 過去7年、累計銀貨1,750枚。

 そなたの伯爵位を、本日付で、剥奪する」


 ヴィルヘルム様が、口を開けようとされた、そのときであった。


「失礼。緊急書類でございます」


 会議室の扉が、軽くノックされた。


 ベルトラム氏が、巻紙を1本携えて、入って来られた。


「ベルトラム」


 ベルント卿の声が、低くなった。


「議事中である」


「相互議事と認識し、議事優先と判断いたしました」


「……申せ」


「重要事項。シュタイン医師の名義を借りて診断書を量産していた者の氏名が、本日午前、特定されました」


 ベルント卿の眉が、わずかに、上がった。


「氏名は」


「保養地のホテル支配人ヘルマン氏。

 ホテル付き常駐医師ロート氏。

 そして――」


 ベルトラム氏は、巻紙を、1段、繰られた。


「ロザリンデ・フォン・グライスナー嬢。

 3名の取り調べが、本日昼、王宮監査府にて開始されております」


 ヴィルヘルム様の喉から、声にならない音が、漏れた。


「ロザリンデ嬢は、保養地の架空の医療費請求書に、ご自分の筆跡で、追加の品目をいくつか書き加えておられました。

 絹のドレス3着分、香水と真珠のネックレス分、そして歌劇場の桟敷席分」


「……」


「金額にして、銀貨430枚分。

 全額、ご自分のために、計上されておられました」


 ヴィルヘルム様は、立ったまま――いや、座ったまま、何かを言おうとされた。


 しかし、声は、出なかった。



 ◇



 ◇ ◇ ◇



 ◇



 ――ヴィルヘルムは、王都の屋敷の応接間で、ひとり、暖炉の前に座っていた。


 私は、本当に病気なのだ。


 7年間、ずっと胸が苦しかった。


 胸が苦しいと申し上げるたびに、アデーレは、ただ帳簿に羽根ペンを置いた。


 涙ひとつ、こぼさなかった。


 数字に強いだけの女には、男の繊細な心の機微など、わかるはずもない。


 ロザリンデは、違った。


 保養地のホテルの白い窓辺で、ロザリンデは私の手を取り、こう申された。


「あなたは、誰よりも繊細なお方ですわ。アデーレ様は、あなたを理解しておられないのです」


 そうだ。


 ロザリンデこそ、私の本当の理解者だ。


 絹のドレス3着、真珠のネックレス、歌劇場の桟敷席――


 そんなものは、ロザリンデの繊細な心への、当然の感謝の印だ。


 あの女は、台帳の片隅で『医療費』の3文字に書き換えた私を、責めるかもしれぬ。


 だが、ロザリンデは、私の本当の伴侶だ。


 伴侶への贈り物が、家計の医療費に紛れて何が悪い。


 帳簿の数字でしか人の心を測れぬ女には、わからぬ世界だ。


 銀貨3枚で離縁?


 ふん、可哀想に。


 あれは、私が頭を下げて慰めてやれば、明日にでも泣きついてくる女だ。


 7年間、私を愛しすぎて、ついに頭がおかしくなったのだろう。


 家門法第12条など、長老格の老いぼれの戯言である。


 王は、私の父の代から、当家を信頼してくださっている。


 明日、王宮へロザリンデを連れて参り、直訴すれば、家門会議の決定など、すぐに覆るに違いない。


 ロザリンデは、王宮で泣いてくれるだろう。


「殿下、ヴィルヘルム様は本当に病なのです。

 アデーレ様は、ヴィルヘルム様を理解しておられないのです」と。


 王は、私の肩を叩き、こう仰るに違いない。


「ヴィルヘルム、よくぞ申した。家門会議の決定は、王命により、取り消す」と。


 そうだ。


 私は、王に愛されている。


 私は、ロザリンデに愛されている。


 私は、アデーレに、7年間も贅沢をさせてやった、優しい夫である。


 明日、ロザリンデと、新しい屋敷の図面を見るのだ。


 王都の中央広場に面した、銀貨1,750枚分の屋敷。


 居間は、東向き。


 応接間には、銀のシャンデリア。


 ロザリンデの寝室には、絹のカーテンを、紫色で。


 そう、紫色がよい。


 ロザリンデは、紫が好きだと、何度も申された。


 明日、私はロザリンデに、新しい指輪を買って差し上げよう。


 銀貨100枚ぐらいで、よかろう。


 何しろ、私には、銀貨1,750枚分の屋敷を建てる予定があるのだ。


 そう、1,750枚――。


 1,750枚?


 待て。


 その銀貨は、誰の銀貨であった。


 私の名義の口座か。


 いや、それは、領地経営口座から、毎春、引き出されたものだ。


 領地経営口座の名義は――ベルント卿の代理署名で、アデーレ。


 馬鹿な。


 それが、本当の名義人だなどと――。


 まあ、よい。


 家門会議の決定が、王命で覆れば、すべて元に戻る。


 私は、明日、ロザリンデを連れて、王宮へ……。



 ◇



 ――翌朝。


 ヴィルヘルムは、王都駅舎の前で、茫然と立ち尽くしていた。


 財布の中には、銀貨3枚しか、残っていなかった。


 それは、王宮監査府から「離縁の慰謝料の上限」として、伯爵家の代理人から手渡された、たった3枚の銀貨だった。


 ロザリンデの屋敷は、すでに別の貴族の名義に書き換えられていた。


 ロザリンデは、ヴィルヘルムが扉を叩いても、出てこなかった。


 代わりに、別の貴族の家令が出てきて、淡々と告げた。


「ロザリンデ様は、本日付で、リープクネヒト侯爵家の保養地行きにご同行なさいます。

 元伯爵殿への手紙の受取は、本日付でお断りでございます。

 どうぞ、お引き取りくださいませ」


 馬車賃も、なかった。


 ヴィルヘルムは、王宮の門前に向かって歩き始めたが、王宮の衛兵に、入門を拒否された。


「元伯爵殿、王宮への面会申請は、家門会議の決定により、本日付で停止されております」


「な、なぜ……」


「家門法第12条に基づく、公式の処分でございます」


 ヴィルヘルムは、駅舎の前のベンチに、座り込んだ。


 馬車が来ても、乗れない。


 宿に行っても、泊まれない。


 故郷の領地に戻ろうにも、もはや当家の馬車は、彼を迎えに来ない。


 銀貨3枚を、手のひらの上で、見つめた。


 それは、彼が7年間、自分の妻に「贅沢をさせてやった」と思い込んでいた、嫁入り道具の銀貨袋の1枚――では、なかった。


 ただの、王宮監査府が発行した、離縁の最低慰謝料、銀貨3枚。


 寒風が、駅舎の屋根を、鳴らした。



 ◇



 ◇ ◇ ◇



 ◇



 家門会議から、3日が経った。


 ライトハンマー伯爵領、本邸の書庫。


 私は、嫁入り道具の銀貨袋を、初めて、本気で開けた。


 7年間、1枚も使わなかった、私の銀貨。


 数えてみると、ちょうど、1,750枚。


 ヴィルヘルム様が7年間で、保養地に費やした、累計と同額。


 私が、嫁いだ日から、7年間、ずっとこの袋に手をつけなかったのは、何故だったのだろう。


 書庫の窓辺に、銀貨を3枚、並べた。


 夕日が、差し込んだ。


 3枚だけが、赤く、光った。


 それは、家門法第12条にも、領地経営台帳にも、どこにも記録されていない、私だけの、3枚だった。


 私は、その3枚を、両手で、包んだ。


 包んだ手の、指の関節が、白くなった。



「アデーレ嬢」


 低く、静かな声。


 私は、振り向かなかった。


 振り向かなくとも、わかった。


 ヴィクトール・フォン・アシェンバッハ卿が、書庫の入り口に、立っておられた。


「閣下」


「お邪魔して、よろしゅうございますか」


「銀貨を、数えておりますの」


「数え終わられましたら、お声を、頂戴できますか」


 私は、ふっと、息を吐いた。


「もう、数え終わりました」


「枚数は」


「1,750枚」


「過不足は」


「ございません」


 ヴィクトール卿が、書庫の中に、ゆっくりと、入って来られた。


 そして、私の正面に、立たれた。


「アデーレ嬢」


「はい」


「私が、貴女に、申し上げたいことが、17項目ございます」


 私は、顔を、上げた。


「……ずいぶん、たくさんでございますね」


「医師団の問診と、業務報告と、私事報告を、まだ分類できておりません」


「閣下」


「はい」


「分類は、後ほどでよろしゅうございますわ」



 ◇



 ヴィクトール卿が、目を、伏せられた。


 そして、もう1度、上げられた。


「では、最も短い1項目だけ、先に申し上げます」


「どうぞ」


「貴女が4年前から、領地の井戸を、毎朝数えておられたこと。

 帳簿に羽根ペンを置く前、必ず3度、ペン先のインクを布で拭われていたこと。

 保養地のホテルからの請求書を、左手で胸を1度押さえてから、封を切られていたこと――

 私は、見ておりました」


「……はい」


「貴女が、見ていてほしくない方を、選び続けておられた7年を、私は、別の場所から、見ておりました」


 私は、銀貨を握る手を、少し、緩めた。


「閣下」


「はい」


「私は、7年間――」


 声が、震えた。


 止まらなかった。


「私は、7年間、たった1人だけ、誰かに、私の帳簿を、見ていてほしかったのです」


 それは、私が、7年ぶりに、自分の口から零した、感情の言葉だった。


 ヴィクトール卿は、何も仰らなかった。


 ただ、私の銀貨袋に、ご自分の左手を、そっと添えられた。


「アデーレ嬢」


「はい」


「7年間、私が見ておりました帳簿は、銀貨の数ではございませんでした」


「では、何を」


「貴女が、ペン先を、3度拭われる、その回数でございます」



 ◇



 私は、口元を、押さえた。


 そして、笑った。


 声が、出なかった。


 代わりに、涙が、1粒、銀貨の上に、落ちた。


 銀貨は、夕日を吸って、まだ、温かかった。



「閣下」


「はい」


「私の手は、もう、銀貨を数える手では、なくなるのですか」


 ヴィクトール卿は、私の指先に、ご自分の指先を、重ねられた。


「いいえ」


「いいえ?」


「これからは――貴女の指が数えるのは、私の心拍だけ、でよろしゅうございますか」


「……心拍」


「医療上、健全な範囲です」


 私は、頬を、押さえた。


 頬が、熱かった。


 ヴィクトール卿の唇が、また、微かにほどけた。


 笑みのような、信じている、という種類の表情。


「アデーレ嬢」


「はい」


「私の心拍は、貴女がこの書庫に入って来られた瞬間から、毎分8回ほど上昇しております」


「……それは」


「申し上げました通り、医療上、健全な範囲です」


「閣下」


「はい」


「分類は、本当に後ほどで、よろしゅうございますわね」



 ◇



 そのとき、書庫の扉が、軽くノックされた。


「失礼いたします。緊急書類でございます」


 ベルトラム氏だった。


 ヴィクトール卿が、私の指先から、ご自分の指を、まだ離されていないまま、扉に目を向けられた。


「ベルトラム」


「閣下、業務報告です」


「今、業務中ではない」


「相互業務と認識し、業務優先と判断いたしました」


「……申せ」


「重要事項。元伯爵殿は、本日昼、王都駅舎の前のベンチに、12時間滞在しておられました」


「処理は」


「不要です」


「妥当だ。次は」


「元伯爵殿より、当家宛に、復籍嘆願書が、本日7通、届いておりまして」


 ベルトラム氏は、巻紙の束を差し出された。


 ヴィクトール卿が、それを受け取り、開きもせず、暖炉の方を見られた。


「アデーレ嬢」


「はい」


「処分は、貴女のご意向に従います」


 私は、銀貨袋の口を、閉じた。


「閣下に、お任せいたしますわ」


 ヴィクトール卿は、復籍嘆願書7通を、暖炉の火に、静かに、投じられた。


 紙が、赤く燃えた。


 銀貨と、同じ色だった。


「ベルトラム」


「はい」


「焼却完了。次は」


「相互感染確認、と、申し添えるべきところでございますが」


「ベルトラム」


「はい」


「業務外でした」


 ベルトラム氏は、深く、頭を垂れられた。


 そして、扉を閉めた。



 ◇



 書庫に、2人、残された。


 ヴィクトール卿の指先が、まだ、私の指先に、重なっていた。


「アデーレ嬢」


「はい」


「私が、貴女に、申し上げたいことの、残り16項目――」


「閣下」


「はい」


「明日から、毎朝、井戸を数えに参りましょう。

 1項目ずつ、伺います」


「……承知いたしました」


「銀貨は、もう、数えなくてよろしゅうございますね」


「ええ」


 私は、銀貨袋を、ヴィクトール卿の手のひらに、静かに乗せた。


「これは、これからは、閣下の銀貨でございますわ」


 ヴィクトール卿は、銀貨袋を、両手で受け取られた。


 そして、ご自分の胸の、上着の内ポケットに、しまわれた。


「アデーレ嬢」


「はい」


「銀貨は」


「はい」


「温かいものだったのですね」



 ◇



 ――銀貨は、温かかった。


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