第二章/花になっていた話
それが体の中にある、と気づいたのは、強い痛みや衝撃があったからじゃない。
むしろ逆だった。
あまりにも、自然すぎた。
異物なら、もっとはっきりと主張してくるはずなのに。引っかかりも、重さも、位置もない。
ただ、最初からそこにあったみたいに、俺の中に散らばっている。
――そして、海藻を吸い込んだ。
そう思った記憶は、確かに残っている。
でも、その言葉が示している行為と、今の状態は、どうにも一致しなかった。
体の内側に、かすかな違和感がある。
見て確認できるわけじゃない。深海は暗いし、そもそも「見る」という感覚自体が、もう当てにならない。ただ、花に触れていたあたりから、何かが移ってきたような感触だけが残っていた。
色、と呼ぶには曖昧だ。形もない。でも、あの海藻が持っていた鈍い光沢だけは、感覚として身体に残っている。表面に付いたんじゃない。内側に、じわりと染み込んだ感じだった。
満たされた、とは言えなかった。
空腹が消えたわけでもない。ただ、「空腹」という言葉そのものが、今の状態を説明できなくなっている。
俺は、取り込んでいるのだと思っていた。
でも、「吸収」という言葉を当てはめようとすると、どこかズレる。吸収する側と、される側。その境界が、最初から曖昧だった気がしてならない。
……なんだ、これ。
そう考えるより早く、理解してしまった。
思考じゃない。感覚だ。
そうだ!俺は、すでに先に花に取り込まれていたんだ。
海藻は外側に見えていただけ。本当は最初から、俺は花の内側にいた。
そう受け入れた瞬間、今までの違和感が、一本の線でつながった。
じゃあ、どうしてだ?
どうして、意識と感覚は、まだ俺のままなんだ?
取り込まれているのに、考えることはできる。境界が溶けているのに、俺はまだ「俺」として在る。
浮かんだ答えは、一つしかなかった。
寄生、という言葉では足りない。
俺は何かに寄りかかって生きているのではない。もっと単純で、もっと決定的なことが起きていた。
最初に、俺は取り込まれた。
何だったのかは、わからない。ただ、あの瞬間、吸い込まれたと感じた時点で、俺はもう花になっていた。
境界が溶けたのではない。変化したのだ。意識と感覚が残っているのは、取り込まれた俺が、そのまま花として続いているからだ。
そう理解した瞬間、体の内側で、何かが決まった。
――なら、逆はどうだろうか?
試すように、花そのものを、今度は俺が取り込もうとする。
拒絶はなかった。
抵抗も、痛みもない。ただ、境界がほどけて、花と呼んでいた存在が、俺の中へと溶けていく。拍子抜けするほど、あっさりと。
その直後だった。
体の一部じゃない。俺という形そのものが、静かに波打ち始める。
どこが始まりなのかわからない揺れが、内側から外側へと連なって伝わっていく。上下も前後もなく、ただ形が変わり続ける。
俺は、何もしていない。
体が、勝手にそうなっていた。
その波の中で、役目を終えたものだけが、自然に切り離されていくのがわかった。
短く、何度か、全体が強張る。
呼吸が浅くなり、出すための反射が、俺を整えていく。苦しい、というほどではない。
でも、出さなければ終わらない。そんな感覚だけは、はっきりしていた。
そして――
波が一つ、抜け落ちる。
ふぅ、と。
思わず気が抜けるほど、全体が静まった。
海藻と、花の外側だったもの。色も形も意味も失ったそれは、俺の輪郭から外れ、水の流れに任せて離れていく。
それを取り戻そう、とは思わなかった。
もう、俺の体は、あれを「俺ではない」と判断していた。
役目を終え、使い切られたあとに残った、ただの出がらしのようなものだ。
残ったのは、俺だけだ。
出がらしを外へ押し出したあと、俺はもう花ではなかった。
そう気づいたのは、形が定まらないことよりも先に、「在り方」が変わっていると感じたからだ。
地面に落ちていたはずなのに、根を張る感覚も、花弁を広げる感覚も、もうない。
花ではないのなら、俺は何なのか?
答えを探そうとして、ふと、思い出す。
花に吸い込まれる前のことを。
あのとき、俺は確かに移動していた。速くもなかったが止まってもいなかった。
水の流れにただ流されるのともちょっと違う。
意識する前に、少しずつ位置が変わっていく――そんな移動の仕方だった。
では、どうやって動いていたのか?
考えるより先に、体が反応した。
俺は、体を伸ばす。
次に、縮める。
それだけで、わずかに周囲との距離が変わるのがわかる。
前後や上下は相変わらず曖昧だけれど、「動いた」という実感だけは、はっきり残った。
もう一度、伸ばす。今度は、少しだけ意識してみた。
すると、今まで輪郭のなかった自分の形が、感覚として浮かび上がってくる。広がり、細まり、また戻る。その繰り返しの中で、俺はようやく、色を取り込んだことによって、自分の体を“確認できる状態”になった。
そして、俺の体には、色が加わった。
はっきりと見えるわけじゃない。けれど、感覚としてわかる。海藻の鈍い色と、花が持っていた色が、混ざり合っている。
以前、気づかなかったのは、きっと透明だったからだろうか?
周囲と同化して、境界を持たないまま漂っていた。
だから、自分自身の色を、認識できなかったのだと思う。
そして、今は違う。
混ざり合った色は、俺が何かを取り込み、何かを手放した証だった。
花でもない。
けれど、元の何かにも戻っていない。
俺は、伸び縮みしながら、静かにそこに在った。
そのまま、何となく体の内側に意識を向けてみた。
すると、色が動いた。
混ざり合っていたはずの色が、ゆっくりと渦を巻くように巡りはじめる。海藻の鈍い色と、花の色が、境界を持たないまま入れ替わり、溶け、また分かれる。
集中すると、色は沈んで見えなくなり、手放した瞬間に、またゆっくりと浮かび上がってきた。
次は、花の色だけを残してみる。
体の中から、海藻の色が引いていく。巻き付いていた感触が薄れ、花だった頃の色合いだけが、俺を形作る。
今度は、体の形そのものを変えてみる。
海藻の形にしてみたり、花の形にしてみたりする。形を定めた瞬間、俺は気づいた。色は勝手に変わるのではない。海藻の形なら海藻の色を、花の形なら花の色を、自分で選んで呼び出せているのだ。
海藻のときは、根のような部分まで再現される。絡みつくための形は現れるが、実際に支点を探して動くわけではない。ただ、地面に横たわったまま、形だけがそうなっている。
花にしたときも同じだった。巻き付いていた部分と、花弁のような広がり。その両方を、思い出すように再現できる。
けれど、それ以外の形になろうとすると、どうしても戻ってしまう。
なれたのは、海藻か、花。そのどちらかだけだった。
……なんだ、これ?
俺は、気づいてしまった。
この体は、取り込んだものを、ただ失ったわけじゃない。必要に応じて、呼び出せる形として、内側に残している。
俺は、何者かになったのではない。
俺は、変えられる存在になっていたのだ。




