第一章/花に吸い込まれた話
目を覚ました瞬間、詰んだと思った。
真っ暗。
冷たい。
そして――水の中だろうか?深海のようだ。
いや、待て。深海って時点で普通は即死だろ。
なのに、なぜか俺は生きている。それどころか、妙に頭が冴えていた。
ただ一つ、はっきりしていることがある。
――腹が、減っている。
理由はわからない。身体がどうなっているのかもわからない。それでも空腹だけはやけにリアルで、考えるより先に「生きなきゃ」という衝動が湧き上がっていた。
俺は、なんとか動いた。
正確には、身体のどこかに力を入れた“つもり”になっただけだ。
押したのか、引いたのか、掻いたのかもわからない。だが次の瞬間、視界がわずかにずれた。
――動いた。
そう思えた。
手足の感覚は曖昧で、そもそも手足と呼べるものがあるのかも怪しい。
今の俺って、なんなんだ? そんな疑問が浮かびかけて、すぐに形を失った。考えるより、生き延びることの方が先だったからだ。身体の輪郭は水に溶けたみたいに定まらず、それでも何かが、どこかに引っかかった。
引っかかった場所を支点に、俺は少しずつ身体をずらす。
ずるり、と内側が擦れるような感覚。前に進んでいるのか、落ちているのかも判然としないまま、必死に移動していた。
どれくらい時間が経ったのかはわからない。
深海には昼も夜もなく、時間を測る基準がなかった。ただ、空腹だけが確実に増していく。
――このままじゃ、終わる。
そう思った時、視界の先がぼんやりと明るくなった。
広大な見渡す限りの花畑があった。
ありえない。深海に、こんなものがあるはずがない。
淡く光る花が群生し、周囲とは明らかに違う生命力を放っている。その中心に、ひときわ異質な一輪があった。色は言葉にしにくく、青にも紫にも見え、見る角度によって微かに揺らいでいる。
形も花というより、深海の生物と宝石の中間のようで、整っているのに不自然だった。それなのに、目を離せない。恐ろしいはずなのに、思わず息をのむほど美しかった。
理由はわからない。
だが、近づかずにはいられなかった。
空腹でも、本能でもない。もっと曖昧で、もっと深い何かが、あの花の方へ俺を引っ張っていた。
鼻の奥に、匂いが引っかかる。
懐かしいような、危険なような――考える前に、身体が反応した。
次の瞬間、世界がにゅるりと歪んだ。
吸い込まれた?
何に、どうやってかはわからない。ただ、確実に“中”へと引きずり込まれた感覚だけが残っている。
気づいた時、俺は動けなくなっていた。
何が起きたのかは、正直よくわからない。
気づけば、さっきの花に吸い込まれたらしい状態になっていた。世界はぐちゃりと混ざり合い、上下も前後も曖昧で、何が何だかわからない。
それでも不思議なことに、意識だけははっきりしていた。
混乱しているのは状況であって、俺自身じゃない。ちゃんと考えているし、感じているし、「俺だ」という感覚も消えていない。
身体は何かに固定され、意思とは関係なく支えられている。だが、それを外側から眺めているような感覚はなかった。
――違う。
俺は、あの花になっているんだ。
そう気づいた瞬間、視界という概念がほどけた。代わりに、言葉が頭の中にあふれ出す。
白地に、オーロラのような螺鈿――。
青とも紫ともつかない色彩が、内側から滲み、揺らぎながら光を宿す花弁。深海の闇の中で、あれほど不自然で、あれほど美しい存在は見たこともない。
だが、次の瞬間、ひっかかった。
……螺鈿?
なぜ今、その言葉が浮かんだのかがわからない。記憶を辿ろうとしても、何も見つからなかった。ただ、その表現だけが、最初から知っていたもののように、自然にそこにあった。
今、その中心にいるのが、俺自身なのだと理解した。
だが――
空腹感が、ない。
満たされたわけじゃない。ただ、欠けていない。腹が減っていないという事実に、少し遅れて気づいた。
……おかしいだろ、これ。
違和感はあった。それでも、不安は湧かなかった。身体は動かないが、なぜか生きている確信だけはあった。
けれど、このままでいいとは思えなかった。
そして、俺は動こうとした。
身体を固定している根のようなものを、必死に引き剥がそうとする。
その瞬間、空腹が戻ってきた。
じわじわと、確実に。根が外れるたびに、身体の奥がひりつくように空いていく。どうやら俺は、この海藻から栄養をもらって生きていたらしい。
耐えきれず、俺はまた“吸い込んだ”。
何を吸い込んだのかはわからない。それでも空腹は少しだけ紛れた。
……ほんの少しだけ、だ。
吸い込むたびに、意識が花の内側と外側を行き来する。支えになっていた感覚が、少しずつ薄れていくのがわかった。
固定されているはずの身体が、わずかにずれる。根のようなものが、きしむ音もなく緩んでいく。
――まずい。
そう思った時には、身体と呼んでいいのかもわからないが俺自身、逆さになっているようだ。 上下の感覚が反転し、世界が裏返る。その中心で、俺はかろうじて引っかかっている。
花の奥から伸びていた、根っこのような部分が、海藻に絡みつき、辛うじて俺を支えていた。
今にも千切れそうなその細い接続だけが、落下を引き延ばしている。
絡みついている感覚が、少しずつ、確実に弱まっていくのがわかった。
一本、また一本と、支えがほどけていく。完全に外れてはいないのに、もう元の状態には戻れない。
重さが移動する。支点がずれる。引っ張られていた感覚が、耐えきれず悲鳴を上げるように細くなっていく。
そして、最後の一本が――
支えが、完全に外れた。
落ちる。
深海の底へ、真っ逆さまに。
着地の衝撃はなかった。ただ、完全に切り離された感覚だけが残る。
海藻からの栄養も、途絶えた。
空腹が、一気に押し寄せる。
……やばい。
俺、やっちゃった?
そう思うより先に、俺は必死に吸い込んだ。
生きるために、考えるより先に。
――そして、気づいた。
さっきまで、確かにそこにあったはずのものが、ない。
絡みついていた感覚が消えている。視界の端にも、あの海藻の影は見当たらない。
……あれ?
遅れて、理解が追いついた。
俺は、海藻そのものを吸い込んでいたようだ。
それが捕食なのか、同化なのか。
そもそも俺が何者なのかすら、もうはっきりしない。
ただ、不思議なことに。 あれほど苦しかった空腹感は、今は少しだけ遠のいていた。
完全に満たされたわけじゃないが、確かに、さっきよりは楽になった。
……俺は、何なんだ?
これから、どうすればいい?
不安が遅れて押し寄せた。考えれば考えるほど、答えは見つからなかった。
それでも、一つだけはっきりしているのは、俺は死にたくない。
その思いだけだった。
だからここで、必死にできることを探すしかない。この深海で、この姿のままで。
どう生き延びるのかを考え続けなければならない。
この瞬間から、俺はこれまでとは違うやり方で、生きていくしかなくなった。




