表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/2

第一章/花に吸い込まれた話


 目を覚ました瞬間、詰んだと思った。

 

 真っ暗。


 冷たい。


 そして――水の中だろうか?深海のようだ。


 いや、待て。深海って時点で普通は即死だろ。

 なのに、なぜか俺は生きている。それどころか、妙に頭が冴えていた。

 ただ一つ、はっきりしていることがある。


 ――腹が、減っている。


 理由はわからない。身体がどうなっているのかもわからない。それでも空腹だけはやけにリアルで、考えるより先に「生きなきゃ」という衝動が湧き上がっていた。


 俺は、なんとか動いた。

 正確には、身体のどこかに力を入れた“つもり”になっただけだ。

 押したのか、引いたのか、掻いたのかもわからない。だが次の瞬間、視界がわずかにずれた。


 ――動いた。


 そう思えた。

 手足の感覚は曖昧で、そもそも手足と呼べるものがあるのかも怪しい。

 今の俺って、なんなんだ? そんな疑問が浮かびかけて、すぐに形を失った。考えるより、生き延びることの方が先だったからだ。身体の輪郭は水に溶けたみたいに定まらず、それでも何かが、どこかに引っかかった。

 引っかかった場所を支点に、俺は少しずつ身体をずらす。

 ずるり、と内側が擦れるような感覚。前に進んでいるのか、落ちているのかも判然としないまま、必死に移動していた。


 どれくらい時間が経ったのかはわからない。

 深海には昼も夜もなく、時間を測る基準がなかった。ただ、空腹だけが確実に増していく。


 ――このままじゃ、終わる。

 そう思った時、視界の先がぼんやりと明るくなった。

 広大な見渡す限りの花畑があった。

 ありえない。深海に、こんなものがあるはずがない。

 淡く光る花が群生し、周囲とは明らかに違う生命力を放っている。その中心に、ひときわ異質な一輪があった。色は言葉にしにくく、青にも紫にも見え、見る角度によって微かに揺らいでいる。

 形も花というより、深海の生物と宝石の中間のようで、整っているのに不自然だった。それなのに、目を離せない。恐ろしいはずなのに、思わず息をのむほど美しかった。

 理由はわからない。

 だが、近づかずにはいられなかった。

 空腹でも、本能でもない。もっと曖昧で、もっと深い何かが、あの花の方へ俺を引っ張っていた。


 鼻の奥に、匂いが引っかかる。

 懐かしいような、危険なような――考える前に、身体が反応した。


 次の瞬間、世界がにゅるりと歪んだ。


 吸い込まれた?


 何に、どうやってかはわからない。ただ、確実に“中”へと引きずり込まれた感覚だけが残っている。

 気づいた時、俺は動けなくなっていた。

 何が起きたのかは、正直よくわからない。

 気づけば、さっきの花に吸い込まれたらしい状態になっていた。世界はぐちゃりと混ざり合い、上下も前後も曖昧で、何が何だかわからない。

 それでも不思議なことに、意識だけははっきりしていた。

 混乱しているのは状況であって、俺自身じゃない。ちゃんと考えているし、感じているし、「俺だ」という感覚も消えていない。

 身体は何かに固定され、意思とは関係なく支えられている。だが、それを外側から眺めているような感覚はなかった。


 ――違う。


 俺は、あの花になっているんだ。

 そう気づいた瞬間、視界という概念がほどけた。代わりに、言葉が頭の中にあふれ出す。


 白地に、オーロラのような螺鈿――。


 青とも紫ともつかない色彩が、内側から滲み、揺らぎながら光を宿す花弁。深海の闇の中で、あれほど不自然で、あれほど美しい存在は見たこともない。

 だが、次の瞬間、ひっかかった。


 ……螺鈿?


 なぜ今、その言葉が浮かんだのかがわからない。記憶を辿ろうとしても、何も見つからなかった。ただ、その表現だけが、最初から知っていたもののように、自然にそこにあった。

 今、その中心にいるのが、俺自身なのだと理解した。


 だが――


 空腹感が、ない。


 満たされたわけじゃない。ただ、欠けていない。腹が減っていないという事実に、少し遅れて気づいた。


 ……おかしいだろ、これ。


 違和感はあった。それでも、不安は湧かなかった。身体は動かないが、なぜか生きている確信だけはあった。

 けれど、このままでいいとは思えなかった。


そして、俺は動こうとした。

 身体を固定している根のようなものを、必死に引き剥がそうとする。

 その瞬間、空腹が戻ってきた。

 じわじわと、確実に。根が外れるたびに、身体の奥がひりつくように空いていく。どうやら俺は、この海藻から栄養をもらって生きていたらしい。

 耐えきれず、俺はまた“吸い込んだ”。

 何を吸い込んだのかはわからない。それでも空腹は少しだけ紛れた。  


 ……ほんの少しだけ、だ。


 吸い込むたびに、意識が花の内側と外側を行き来する。支えになっていた感覚が、少しずつ薄れていくのがわかった。

 固定されているはずの身体が、わずかにずれる。根のようなものが、きしむ音もなく緩んでいく。


 ――まずい。


 そう思った時には、身体と呼んでいいのかもわからないが俺自身、逆さになっているようだ。  上下の感覚が反転し、世界が裏返る。その中心で、俺はかろうじて引っかかっている。

 花の奥から伸びていた、根っこのような部分が、海藻に絡みつき、辛うじて俺を支えていた。

 今にも千切れそうなその細い接続だけが、落下を引き延ばしている。

 絡みついている感覚が、少しずつ、確実に弱まっていくのがわかった。

 一本、また一本と、支えがほどけていく。完全に外れてはいないのに、もう元の状態には戻れない。

 重さが移動する。支点がずれる。引っ張られていた感覚が、耐えきれず悲鳴を上げるように細くなっていく。


 そして、最後の一本が――

 支えが、完全に外れた。


 落ちる。


 深海の底へ、真っ逆さまに。

 着地の衝撃はなかった。ただ、完全に切り離された感覚だけが残る。

 海藻からの栄養も、途絶えた。

 空腹が、一気に押し寄せる。


 ……やばい。


 俺、やっちゃった?


 そう思うより先に、俺は必死に吸い込んだ。

 生きるために、考えるより先に。


 ――そして、気づいた。


 さっきまで、確かにそこにあったはずのものが、ない。

 絡みついていた感覚が消えている。視界の端にも、あの海藻の影は見当たらない。


 ……あれ?

 遅れて、理解が追いついた。

 俺は、海藻そのものを吸い込んでいたようだ。

 それが捕食なのか、同化なのか。

 そもそも俺が何者なのかすら、もうはっきりしない。

 ただ、不思議なことに。  あれほど苦しかった空腹感は、今は少しだけ遠のいていた。

 完全に満たされたわけじゃないが、確かに、さっきよりは楽になった。


 ……俺は、何なんだ?


 これから、どうすればいい?

 不安が遅れて押し寄せた。考えれば考えるほど、答えは見つからなかった。

 それでも、一つだけはっきりしているのは、俺は死にたくない。

 その思いだけだった。

 だからここで、必死にできることを探すしかない。この深海で、この姿のままで。

 どう生き延びるのかを考え続けなければならない。


 この瞬間から、俺はこれまでとは違うやり方で、生きていくしかなくなった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ