AI、ごめん。この恋は計算外(バグ)だわ
『本日のデートプラン:午後1800、港区第3統括エリア「リストランテ・ルナ」にてディナー。推奨会話トピックは「昨今の都市緑化政策と酸素供給効率について」。成功率予測、98.5%』
視界のど真ん中に、淡いブルーのフォントが浮かんでいる。
私は――エマは、その文字列越しに自分のマニキュアを何度も確認しながら、小さく息を吐いた。
視界の右下には、常に緑色のグラフが波打っている。
『現在の心拍数:102(軽度の緊張)』
『表情スコア:65点(口角の上がりが不足しています)』
『推奨アクション:深呼吸をして、15度の角度で微笑んでください』
(……分かってるってば)
私は意識的に口角を持ち上げる。
すると、警告アイコンが消え、『Good』というポップアップが表示された。
まるで、ゲームのキャラクターになった気分だ。
政府公認の恋愛支援AI『クピド』。
国民の遺伝子情報、大脳生理学データ、過去二十年分の行動ログを解析し、最適なパートナーと、1ミリの誤差もないデートプランを提案するシステム。 この国において、『クピド』は神様よりも信仰されている預言者だ。
『クピド』に従っていれば、絶対に傷つかない。
会話が途切れる気まずさも、趣味が合わない徒労も、価値観の違いによる喧嘩も存在しない。
最短ルート、最少コストで、幸福な結婚というゴールテープを切ることができる。
そう教えられて育ったし、私もそう信じて疑わなかった。
(落ち着いて、エマ。相手はマッチング率99%の「運命の人」なんだから)
99%。
それは天文学的な確率だ。
過去の事例を見ても、この数値を叩き出したカップルの離婚率は0.0001%未満。
つまり、今日来る彼は、私の魂の半身そのものだということになる。
待ち合わせ場所である「クリスタル・スクエア」の噴水前に行くと、すでに彼は来ていた。
ハル。
AIから送られてきたプロフィール画像よりも、実物は数段、存在感があった。
少し長めの黒髪が、ビル風に吹かれて無造作に揺れている。
着ているのはラフなジャケット。
AIが推奨する「清潔感のあるスマートカジュアル」の基準ギリギリのラインだけれど、その着崩し方が、かえって彼独特のアンニュイな色気を引き立てていた。
周囲には、AI推奨の完璧なスーツを着た男性たちが溢れているのに、なぜか彼だけが、色彩を持って浮き上がって見える。
「お待たせ、エマ」
彼が私に気づき、片手を挙げる。
その声の周波数は、私の聴覚野が最も好むと分析されたトーンそのものだった。
「ううん、私も今来たところ。……その服、すごく似合ってるね」
私がそう言うと、視界の隅で『好感度ポイント+5』『相性同期率上昇』のエフェクトがキラキラと舞った。
よかった、正解の挨拶だったみたいだ。
「ありがとう。エマも、そのワンピースの色、空みたいで綺麗だ」
「えっ……あ、ありがとう」
『相手の褒め言葉に対し、謙遜しつつ3秒以内に肯定的な反応を返してください』
矢継ぎ早に出る指示に従い、私は頬を赤らめる。
「行こうか。予約してあるんだろ?」 「うん。AI評価星4.8のお店だよ。完全予約制で、三ヶ月待ちの」
私たちは並んで歩き出した。
手をつなぐタイミングも、歩く速度も、すべてAIが矢印でガイドしてくれる。
私はそのガイドの上をなぞるように歩く。
完璧なデート。
失敗のない夜。
約束された幸福。
それなのに、なぜだろう。
私の胸の奥、心拍数モニターにも表示されない深い場所に、鉛を飲み込んだような重苦しさが沈殿していた。
***
レストランは、完璧の一言に尽きた。
地上50階、夜景の見える窓際の席。
提供された料理は、個々人のDNAデータに基づいてアレルギー物質が排除され、不足している栄養素を補うように分子レベルで調理されている。
BGMは会話を邪魔しない環境音楽。照明は肌を最も美しく見せるルクス数。
けれど、私たちの会話は、まるで三流の台本を読み合っているようだった。
「……それで、最近の緑化政策だけど、君はどう思う?」
ハルがグラスを回しながら尋ねる。
私の視界には、即座に『模範解答A』『模範解答B』『ユニークな回答C』が表示される。
私は迷わずAを選んだ。
「ええ、とても効率的だと思うわ。特に第7エリアの植生管理システムは、CO2削減に大きく貢献しているし……素晴らしい進歩よね」
「そうだね。僕もそう思うよ。特に、あの自動剪定マシンのアルゴリズムは興味深い」
ハルが『クピド』の推奨トピックを口にし、私が『クピド』の推奨回答を返す。
会話が弾んでいるように見える。
音声解析AIも『会話の盛り上がり度:Aランク』と判定している。
でも、そこには「私たち」がいなかった。
情報のキャッチボールをしているだけで、感情の交換がない。
ふと、ハルの瞳を見た。
吸い込まれそうな黒い瞳。その奥が、どこか退屈そうに濁っているのに気づいてしまった。
(どうしよう。何か間違えた?)
心拍数が上がる。警告アラートが黄色に変わる。
(表情スコアは? 声のトーンは? 姿勢が悪かった? それとも、もっと知的な話題を選ぶべきだった?)
焦れば焦るほど、思考がAIの指示に依存していく。
もっと指示を。もっと正解を。
失敗したくない。嫌われたくない。運命の人なのに。99%なのに。
その時だった。
カチャン、と乾いた音が響く。
ハルが不意に、シルバーのカトラリーをテーブルに置いたのだ。
「ねえ、エマ」
「は、はい!」
「この店、息苦しくない?」
ドキリとした。
網膜ディスプレイに、毒々しい赤色の文字が点滅する。
『警告:会話の流れが予測パターンから逸脱しています』
『推奨対応:話題を変えてください。相手の体調を気遣ってください』
「えっと……そ、そうかな? 空調は最適化されてるはずだけど……もし寒かったら、店員さんに言って……」
「そうじゃなくてさ」
ハルは苦笑すると、綺麗に折りたたまれたナプキンで口元を拭い、ぐっと身を乗り出した。
その瞳から、「退屈」の色が消え、強い光が宿る。
「AIの言う通りにするの、今日はもうやめない?」
「え?」
「たまにはさ、AIが絶対におすすめしないような場所に行ってみないか」
思考が停止した。
脳内の処理速度が追いつかない。
AIに従わない?
そんなことをしたら、どうなる?
今日のデート評価はEランクになる。相性診断のスコアが再計算され、下落する。
婚期が遠のく。
それどころか、社会的な信用スコア(ソーシャル・クレジット)にだって傷がつくかもしれない。
私の視界は、警告ウィンドウで埋め尽くされ、真っ赤に染まっていた。
『警告:不合理な行動です』『警告:会話の流れが予測から外れています』
「で、でも……『クピド』はまだデザートの時間だって……それに、この後のプランも……」
「いいじゃん、バグだと思えば。……俺、エマの『推奨回答』じゃない言葉が聞きたいんだよ」
ハルの真剣な瞳に射抜かれて、私は言葉を失った。
推奨回答じゃない言葉。
AIが生成したテキストではない、私自身の言葉。
それは、私の本音ということ?
私の本音なんて、どこにあるんだろう。データの中に埋もれて、私自身も忘れてしまった場所に?
ハルが、テーブル越しに私の手を握った。
AIが指示したタイミングではない。
彼自身の意思による、唐突な接触。
熱い。
手のひらから伝わる体温が、警告アラートよりも強烈に、私の神経を揺さぶった。
「……ね、行こうよ」
短く、彼は言った。
私は震える指先で、こめかみのデバイスに触れる。
そこには、網膜ディスプレイの強制終了スイッチがある。
これを押すことは、現代社会において、目隠しをして高速道路を歩くようなものだ。
でも。 このまま「正解」を選び続けて、あくびが出るような幸福な一生を送るの? ――それは、なんか嫌だな。 私の奥底で、小さな、でも明確な拒絶が生まれた。 私は恐る恐る、そのスイッチを押し込んだ。
プン、という電子音がして、視界から光が消える。
心拍数も、表情スコアも、会話のヒントも、すべてが消失した。
残ったのは、目の前にいる生身のハルと、窓の外に広がる無機質なほど綺麗な夜景だけ。
そして、自分の心臓が早鐘を打っている音だけが、耳の奥でガンガンと響いていた。
でもそれは、先ほどまでの「失敗を恐れる緊張」とは、決定的に違う種類のドキドキだった。
怖い。けれど、ワクワクする。
「……どこに行くの?」
私の口から出たのは、AIのデータベースにはない、震えた声だった。
ハルは、少年のように悪戯っぽく笑った。
「それは行ってからのお楽しみ」
彼は私の手を取って席を立った。
ウェイターのアンドロイドが困惑したように瞬きをするのを尻目に、私たちは「完璧な楽園」から逃げ出した。
***
ハルが連れて行ってくれたのは、都市の最下層。
再開発計画から取り残され、忘れ去られた「旧市街エリア」だった。
整然とした上の世界とは違い、ここは混沌としていた。
壊れかけたネオン看板が不規則に明滅し、路地裏からは得体の知れない蒸気が噴き出している。
様々なスパイスの匂い、油の匂い、人々の生活臭が混じり合った、濃厚で雑多な空気が漂っている。 もしAIが稼働していれば、『警告:治安レベルE。衛生環境リスク極大。即時退去を推奨』と叫び続けていただろう。
「ここ、一度来てみたかったんだ」
ハルが立ち止まったのは、高架下の古ぼけた屋台の前だった。
ビニールシートの隙間から、オレンジ色の暖かい光が漏れている。
『おでん』と手書きされた提灯が、煤けて揺れていた。
「こういう店、初めて?」
「うん……歴史のデータベースでは見たことあるけど……実物は初めて」
「栄養バランスとかカロリー計算とか、今日は全部なし。座ろうぜ」
促されてパイプ椅子に座ると、ガタッと音がして少し傾いた。
不安定な座り心地。
テーブルも少しベタついている気がする。
不潔だ、と以前の私なら眉をひそめていただろう。
でも今は、その「汚れ」すらもが、誰かが生きてきた証のように感じられて、不思議と愛おしかった。
無愛想な店主が出してきたのは、色が染みすぎて黒くなった大根や、正体不明の練り物たち。
湯気が、私の顔にかかる。
熱い蒸気の匂い。出汁の香り。
「食べてみて。保証はしないけど」 ハルが笑う。
私は恐る恐る、箸で大根を切り、口に運んだ。
熱っ!
舌が痺れるほどの熱さと、強烈な塩気が口いっぱいに広がる。
口の中を火傷しそうになりながら、ハフハフと息を吐く。
味が濃い。塩辛い。雑味がある。
分子調理された完全栄養食のような、洗練された味じゃない。
でも――温かい。
喉を通った熱が、胃袋から全身に染み渡り、冷え切っていた私のコアを溶かしていくようだ。
「……おいしい」
思わず漏れた言葉に、ハルが目を丸くし、それから吹き出した。
「だろ? AIなら『塩分過多』で一発アウトだけどな」
「ふふ、確かに。レッドカードが出ちゃうわ」
私もつられて笑った。
不思議だ。
さっきまでの高級レストランより、座り心地の悪いパイプ椅子の上の方が、ずっとリラックスしている。
AIの指示がないから、何を話せばいいのか分からない。沈黙が訪れることもある。
でも、その沈黙が怖くない。
ただ隣に座って、同じ湯気を浴びているだけで、心地よかった。
私たちは、おでんの湯気を挟んで、たわいもない話をした。 子供の頃に見た古い映画の話。 実はピーマンが苦手だという話。 ハルが、猫アレルギーなのに猫動画を見るのがやめられないという話。
どれも『クピド』には登録されていない、些細で、無意味で、生産性のない情報ばかり。
でも、その一つ一つが、ハルという人間を形作るパズルのピースだった。
データ上のスペックじゃない。「彼」自身の手触り。
「ねえ、ハルくん」
「ん?」
「私、実はAIの診断結果を見た時、すごく不安だったの」
私は箸を置いて、自分の膝を見つめた。
「不安? 99パーセントなのに?」
「うん。99パーセントの人となら、絶対に幸せにならなきゃいけないって。失敗したら、それは私がダメな人間だからだ、って思ってた」
口に出してみて、初めて気づいた。
私は恋をしていたんじゃない。テストを受けていたんだ。
「幸福な結婚」という正解を出し続けなきゃいけないという、終わりのないテストを。
ハルは串を置いて、私の目を見た。
その瞳は、屋台の裸電球と、遠くのネオンの光を反射して、優しく揺れている。
「俺もだよ。自分が決められたレールの上を走るロボットになった気分だった。……でもさ」
彼の手が、テーブルの上で私の手に触れた。
ザラついたテーブルの上で重なる手。
AIの指示じゃない。彼自身の意思による温度。
「大根で火傷して、変な顔して笑うエマの方が、ずっと可愛いよ」
「っ、変な顔ってひどい!」
「あはは、褒め言葉だって。スコア100点の作り笑いより、ずっといい」
私たちはまた笑い合った。
ふと、私は切っていた網膜ディスプレイを起動してみたくなった。
一瞬だけオンにする。
予想通り、視界は真っ赤な警告だらけだ。
『警告:非推奨エリアに滞在中』
『警告:摂取カロリー及び塩分濃度が基準値を超過』
『警告:会話内容に生産性が認められません』
そして、二人の相性診断スコアは――。
数値が激しく乱高下し、『再計算中』となり、エラーを起こしていた。
『エラー:論理的整合性が取れません。両者のドーパミンおよびオキシトシン分泌量が、傾向と矛盾した異常値を記録中』
可哀想なAI、と思った。 あなたの完璧な計算式には、この不格好な「おいしい」も、生産性のない「楽しい」も、入力できないのだ。 バグっているのは私たちじゃなくて、この世界の方かもしれない。
「……ねえ、ハルくん」
「ん?」
「次は、あそこの射的やってみたい」
私はディスプレイを再びオフにして、彼の手を強く握り返した。
世界から色が戻ってくる。
文字情報のない、鮮やかで、汚れていて、美しい世界が。
「いいじゃん。景品、全部獲ってやるよ」
計算で塗り固められた完璧な相性よりも、私たちは、このバグだらけの夜を選んだ。
都市の空を見上げても星は見えないけれど、隣にいる人の体温だけは、確かにリアルだった。




