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竜障害  作者: 敷知遠江守
第一章 混乱 地二級編

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第46話 しばしのお別れ

 六月の四戦は三着、五着、六着、五着。

 三月の復帰からここまで、雑賀は何気に一度も七着以下になっていない。それをどう捉えるか、厩舎の意見は割れている。

 本調子にはまだ程遠い、今はまだ本来の調子に戻っていないだけだと諏訪は言ってくれている。

 一方で高遠主任は、競竜と竜障害の差が埋められていないと、雑賀に才能の壁のようなものがあるのではと指摘している。

 保科はまだ厩舎も雑賀も若いだけ、時間が解決すると言ってくれている。

 だが、津田、坂崎の二人は、もしかして、この辺りが諏訪厩舎の限界なんじゃないかという意見であった。


 

 この一月、雑賀は毎週のように春香に会いに行っている。

 当初は『篠崎さん』『雑賀さん』と呼び合っていた二人だったが、先に雑賀が『春香ちゃん』と呼んだ。それでも春香は『雑賀さん』のままだった。だが徐々に距離が近くなり、いつの頃からか『重さん』と呼ぶようになっている。


 いつものように、二人で音楽堂へ演奏を聞きに行き、その後で喫茶店で珈琲を前に談話。ところがこの日は、どうにも雑賀の表情がすぐれない。その事は、音楽堂に行く前から気になっていた。というより、前の週もどこか元気が無かった。もしかして自分に何か落ち度があったのかもと感じていた春香は、恐る恐る雑賀にその事をたずねてみる事にした。


「どうしたん? 重さん、今日なんか変よ? もしかして、成績の事で悩んでるとか?」

「そうじゃないんだよ。実は、来月から遠征に行く事になったんだ」

「遠征って? どこに行くん?」


 場所を答える前に、雑賀が大きくため息をついた。その段階で春香は、もしかしたら外国に行ってしまうのかもと危惧した。


「場所は鈴鹿だよ。来月からそっちの競争に出走する事になるんだ」

「へえ、そうなんや。どんくらい行かはんの?」


 春香の目をじっと見て、雑賀は右手の指を四本立てた。


「そう、四週間も会えへんくなるんやね」


 残念そうにする春香に雑賀は無言で首を横に振った。


「えっ? ほな、四か月!?」

「そうなんだよ。七月から二節、十月一杯まで」

「その間、全く会えへんの?」

「いや、時間を見つけて会いに戻ろうとは思ってるよ。だけど……」


 雑賀が危惧しているのが、自分の身の安全だという事は春香も察してくれている。これまで雑賀は、事あるごとに何かあったらすぐ駆けつけると言っているのだから。雑賀としては、約束が守れないような気がしてしまっているのだった。


「私やったら平気よ。あれから変な人には一度も絡まれてへんもん。しばらく会いづらくなるんは寂しいけど、会えへんわけやないし、詩織ちゃんもおるし」

「ごめんね。どうしても春香ちゃんより仕事の方を優先しないといけないんだよ。俺の成績に厩務員さんたちの生活がかかってるから」

「うん、わかってる。私ね、竜障害の事、自分なりに勉強してるんよ。その中でね、公正競争いう考えがある言う事を知ったの。八百長ができひんように厳重に管理されてるんやって。だから、色々な事はしゃあないって思ってる。そら、寂しう無い言うたら嘘になるけど」


 眉を寄せ、少しはにかんだ表情をする春香に、雑賀は胸の高鳴りを感じた。はからずも春香の顔をじっと見つめる雑賀。そんな雑賀に春香はにこっと微笑んだ。


「ほな、こうしよ。会いに来てもろて、その疲労で調子落とされたら私も嫌やから、電話ちょうだい。三日に一遍くらいでええから。忙しくても三日に一遍くらいやったら電話できるでしょ?」

「もちろん! 何なら調整棟に入って無い時は毎日するよ!」


 屈託の無い笑顔を向ける雑賀に、春香は少し恥ずかしさを覚え顔を赤らめてしまった。


 その後繁華街を歩き、夕飯を終え、外に出ると上空は星々が煌めていた。これから四か月、今までのように簡単には会う事ができなくなる。そう考えるとお互い、どうしても口数が少なくなってしまっていた。


「あ、重さんったら、口元に夕飯のタレが付いてる。取ったげるから目ぇ瞑って」


 そう言って春香は鞄から小さなハンカチを取り出した。

 言われるがままに目を閉じる雑賀。頬に春香の少し冷たい手が触れる。その感触から、細い指だなと感じていた。すると何か甘酸っぱい良い香りが漂った気がした。次の瞬間、唇に柔らかい何かが触れる。これはハンカチじゃない。


「お仕事、頑張ってね。私、応援してるから」


 これまで見た事もない真っ赤な顔、真っ赤な耳で、春香は言った。よほど恥ずかしかったのだろう。走って雑賀の前から立ち去ってしまった。だが、春香の残り香だけが漂い続けている、そんな錯覚を覚えた。


 ◇◇◇


 翌日、諏訪厩舎の面々は、鮎川厩舎の面々と共に、高速鉄道に乗り込んで鈴鹿へと向かった。


 四か月の滞在と言っても、寮があり、生活の基盤は整えてくれている。着替えだけあれば、全ては寮に揃っている。寮で自分でやる家事といえば、せいぜい掃除と洗濯くらい。その洗濯すら、お願いしておけばやってもらえる。


 寮の使用料というのは、厩舎の方で福利厚生という事で払ってくれている。しかも、竜障害協会の傘下の厩務員生活支援局という組織に支払うため、遠征だからと言って余計にお金を取られるという事はない。


 ただし竜の運搬費や厩務員たちの移動費などは別で、これは厩舎が経費として支払わないといけない。昨年、諏訪厩舎は全てを会派からの支援で運営していた。そのせいで遠征費用を出して貰えなかった。諏訪厩舎にとって、これが初めての遠征となったのだった。


 鈴鹿駅を降り、そこから伊勢神宮へ向かう『神宮線』に乗り込み神宮方面に一駅行った稲生駅で下車。駅を出ると、目の前に真っ直ぐの道が整備されており、その左右には大型商店や飲食の店がひしめき合っている。その中の一角、まるで大宿のような立派な建物があり、そこが鈴鹿競竜場の寮であった。


 まずは諸々の事務手続きを先にしないといけない。寮を横目に道を真っ直ぐ歩いて行き、競竜場へ向かう。その間も、左右は居酒屋や食事処が数多く立ち並んでいた。

 諏訪と高遠が事務棟で事務手続きを行っている間、雑賀たちは隣の食堂で珈琲を飲みながら、あの食事処が美味しそうだったという話で花が咲いていた。


 事務手続きを終え、来た道を戻って寮へと向かう。

 中に入ると受付があり、そこで部屋の鍵を貰う。守衛のお爺さんに言えば誰でも入れてしまう岡山とは大違い。

 受付を終え、ふと横を見ると、そこに大熊調教師、柿崎主任、篠原騎手が立っていた。


「お疲れさん! 待ってるから荷物置いて来いよ。予約入れてあるから呑みに行こうぜ」

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