第43話 春香と逢引
翌日から雑賀の気分は高揚しっぱなしであった。どうやら何か良い事があったらしい。それは誰から見ても明らかであった。年齢的にそんな騒ぐほどの事でも無いと、保科を始め男性陣は見て見ぬふりをしていたのだが、女性陣はそうでは無い。中でも一番若い石川は興味津々であった。
「雑賀さん、何かあったん? なんやウッキウキやね」
「え? そうですか? そうかなあ。いつもと同じだと思うけど」
「それで? そんな地に足付いてへんのに? ああ、なるほど。その反応は女やな」
あまりに誤魔化しが下手な雑賀に、仁科が背を向けて肩を震わせて笑っている。石川は逃げ出そうとする雑賀の退路を塞ぎ、ニヤニヤしながらジリジリと近寄っていく。
「ち、違いま――」
「違わへんよねえ。そうやなかったら、そんな背中に羽生やしてパタパタさせへんよね。正直に吐いてもうた方が楽になるで、雑賀さん」
「いや、俺は……」
このままだと勢いで財布を出してしまいそうな雑賀を憐れに思い、仁科が口を挟んだ。
「何、何。楓ちゃん、もしかして雑賀の事気になってたの?」
「え?」
仁科に指摘され、石川がいくつかの角度から雑賀の顔をじろじろと観察する。雑賀が精一杯の作り笑顔を向ける。
「良い線は行ってる思うんですけどね。騎手やから背ぇが低いんは目を瞑るとしても、私はちょっと無いですね。こういうはっきりせん人って苛々してまうんですよ。仮に付き合うたとしても、最初の逢引で手ぇ出てしまいそうやわ」
「散々な言いようだな」
仁科と石川がゲラゲラと笑い合う。その横で雑賀はぶすっとした顔をしていた。
◇◇◇
外野がどんなにからかおうと、春香との出会いは雑賀のやる気を大きく掻きたてた。それはそのまま、成績に反映されている。四月の予選四戦は、五着、六着、五着、四着。周囲からしたらまだまだという感はあるものの、およそ昨年一円も稼げなかった騎手とは思えない堂々とした成績であった。
五月から節が替わって『赤穂特別』が始まるのだが、結果次第では七月から地一級へ昇級もという声が厩務員たちから上がっていた。
朝も早くから春香に誘われるがままに音楽堂へ行って交響曲を聞き、岡山駅前の一軒の定食屋でお昼を取ろうという事になった。
あの出会いから今回で三度目の逢引となる二人。すでに何となくお互いの事がわかりはじめ、かなり二人の仲は深まっている。
最初こそ騎手が何かすらわからなかった春香だが、そこから色々と学び、今では少しだけ竜障害について話をする事ができるまでに知識を付けている。
一方の雑賀だが、春香から音楽について色々と話を聞くのだが、今だに楽器の名前すらわからない。春香の吹いている『ファゴット』という管楽器の名前すら覚えられず「長筒」と呼んでいる。
「ああいう曲ってどうも良さみたいなのがわかんないんだよね。学生時代の授業で聞いたっていう悪い印象だけしか残って無くってさ」
「そうやったんや。私なん、学校の音楽の授業って大好きな曲がタダで聞ける思うと、なんや得した気ぃになってたけどね」
「聞くだけなら勝手に流してくれれば良いんだけどさ、笛吹かされたり木琴叩かされたりとか、色々やらされるじゃない。楽譜をちゃんと見なさいとか怒られるけどさ、その前に見方を教えてくれよって思うんだよね」
そんなやんちゃ坊主のような愚痴を言う雑賀に、春香は口元を手で隠してくすくすと笑う。
「音楽てね、算数と同じなんよ。足し算、掛け算、方程式。そうやって順に体に沁み込ませていくもんなんよ。楽譜読むのなん、算数で言ったら足し算引き算よ。そんなとこがわからへんかったら、そら、そっから先はなんもわからへんよね」
「それは何、俺が落ちこぼれって事?」
「ん……そういう事になるかな。楽譜が読めへん、吹き方がわからへん、拍が取れへん。算数がどっかで躓くとそれ以降なんもわからへんくなるように、音楽も一緒なんよ。そやけども、そういうんって、竜に乗るんも同じやったりするんとちゃうの?」
そんな事、これまで考えた事も無かった。改めて競竜学校での事を思い出してみるも、最初に乗り方と注意事項を言われ、それだけで竜に乗せられて、さあ走ってみせろという風に言われたように思う。だから騎乗というのは跳び箱のように体で覚えるものという印象しかない。
「それは雑賀さんの運動神経が良えからよ。教わらんでも一足す一が二って知ってるように、教わらんでも途中までの知識が最初から身に付いてるんよ。もし私がそんなんされたら、怖い、嫌や、下ろしてって泣き叫ぶと思う」
「いやいや、竜に乗るだけなら、そんなに怖くはないよ」
「怖いよ! 怖いに決もうてるやん。だって乗った事ないんやもん。そんなら、私のファゴット貸すから吹いてみて。できひんでしょ? それと一緒よ」
春香の口調というのはどこかふわふわしたようなものを感じるのだが、感情が少し昂ってくると、同じ口調でも語気が強くなる。それはそれで可愛いと雑賀は感じているのだが。
春香も少し自分がムキになっていると自覚したのだろう。目を細め、口角を上げて笑顔を作った。
「芸術は食事と同じなんよ。食べ物はお腹を満たして、芸術は心を満たすんよ。ああやって競う仕事してると心が飢えるやろから、一緒に音楽堂行って心を満たそうね」
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