第37話 出走前の騒動
十か月ぶりの騎乗という緊張で、胸の鼓動が早鐘のように高鳴っている。
調整棟に入るのも当然十か月ぶり。この空間で篠原、長井に会うのも当然十か月ぶりという事になる。この間の十か月の思い出話を、二人は雑賀に笑い話として語っていた。
今度、鈴鹿に行ったら一緒に呑もうなんて話をしていると、そんな雑賀をからかう者が現れた。
「お? 新人騎手か? なんや見慣れん奴がおるな」
「おいおい、忘れちまったんか。そいつは昨年一節だけ走って、あまりの成績の悪さにケツまくって逃げ出したヘタレやないけ」
「おお、そうやった、そうやった。あれ? あのなんとかいう厩舎は調教師が夜逃げしたて聞いたけど、なんでこいつここにおんの?」
「おいおい、夜逃げとちゃうやろ。失踪やんな。こいつの騎乗があまりにも酷すぎて、先生に逃げられてもうたって俺は聞いたで。何にしても、調教師に逃げられたとか前代未聞やな」
ギャハハという下品な笑いを雑賀に浴びせる騎手たち。篠原が必死に気にするなと雑賀に声をかける。どうやら諏訪がいなくなったというのは岡山競竜場中に知れ渡ってしまっているらしい。一節走っただけで調整棟で雑賀の姿を見なくなってしまったのだ。当然と言えば当然かもしれない。
「厩舎解散して、別の調教師にでも拾ってもろたんか? こんな零点の騎手拾ってくれる先生がおった事に驚きやわ」
「なんや、お前知らんのかいな。そいつの先生、連れ戻されたんやで」
「ほんまかいな。つくづく恰好悪い話やな。騎手が騎手なら、先生も先生や」
またもギャハハという下品な声をあげる騎手たち。それまで黙っていた雑賀だったが、さすがに自分の成績の事で諏訪まで煽られては黙っていられなかった。
「騎手が騎手なら、先生も先生か。どうやら、こいつらの先生ってのは余程上品な人らしい」
「あん? なんやと、このガキ! もう一遍言うてみいや!」
三人ほどの騎手が雑賀を取り囲む。だが雑賀は無視して顔を背けている。一人の騎手がそんな雑賀の服を掴んで引っ張った。そのせいで椅子に腰かけていた雑賀が立ち上がる形となった。
「もう一遍言うてみい言うてんのが聞こえへんのか!」
その挑発も雑賀は顔を背けて無視。掴んだ手を面倒そうに手の甲で払う。顔を近づけられると、口臭が匂うと言わんばかりに鼻を摘まんだ。
「なんや、ガキ! その態度は! しばき倒したろか!」
一触即発。談話室の空気がピリピリと張りつめる。
すると、その騎手の腕に篠原が手を置いた。
「福間さん。あんた、また運営に報告されて減点処分を受けたいのか? 次同じ騒ぎを起こしたら、今度は騎乗停止処分と言われてたよな。この手は、もう口が悪いという言い訳では納得してもらえないぞ」
篠原の指摘に福間がぱっと手を離す。
「ちょっとした冗談やんけ、篠原。そう怒んなや」
「俺はてっきり処分覚悟でそういう態度を取ってるのかと思ったんだが、そうか手を離すのか。恰好悪いな、あんた」
ギリギリと歯を食いしばる福間。そんな福間を睨みつける篠原。するとそこに小早川騎手が現れ、篠原の肩をポンと叩いた。
「その辺で勘弁しといたれ、篠原。そいつ、次騒ぎ起こしたらクビやって先生から言われとんのや。にも拘わらずこういう態度取るようなアホなんやぞ。まともに相手したら損こくで」
鼻で笑って去っていく小早川。その後ろ姿を睨みつける福間。そんな福間たちを横目に、篠原、雑賀、長井も「ここは空気が悪い」と言って場所を移動した。
◇◇◇
翌朝。朝食を食べていると、昨晩雑賀を煽っていた騎手の一人が青い顔をして雑賀たちの机にやって来た。
「お前ら、なんで運営にチクったんや! 福間のやつかて冗談や言うてたやんけ」
三人が同時に首を傾げる。
「とぼけんな! あいつ、朝一で運営に呼び出されたんや。お前らがチクったんやろが!」
「俺たちじゃねえよ。他の奴らだろ」
「お前たちやなかったら、誰がそんな真似するいうねん」
「あいつが欠場になればその競争は七頭立てになる。昨日の俺の話を聞いた奴なら、そんな簡単な計算くらい誰だってできるだろ。それだけ内心でお前たちの事を煙たがっていた奴は多かったって事だ。あんたも気を付けた方が良いぞ」
ぎろりと睨みを効かす篠原に、その騎手は怯み、とぼとぼという足取りで去って行った。
何事も無かったように食事を続ける篠原。長井は最初からそんな喧噪を無視して食事を続けている。どうやら、自分がいなかった十カ月間、調整棟で色々な事があったのだろうという事を、二人の態度で察した。
「でも、一体誰が報告したんですかね。篠原さんじゃないんでしょ?」
「俺じゃないよ。もちろん長井でもない。あれから俺たちは小早川さんに近づいたんだ。コバさんから智慧を借りて、あいつらの暴言に対抗してたんだよ。今回のは多分、同じようにあいつらにいびられた経験のある人だろうね」
「そうだったんだ。さっきの人呼び出しって言ってたけど、どうなっちゃうんだろうね」
「前回言われてたのは二週間の騎乗停止だったな。でもコバさんの話だと先生が怒ってるらしいから。クビかもな」
それまで黙々と食事をしていた長井がぼそっと「因果応報だ」と呟いた。
朝食後には体重測定が待っている。少し体を軽くしてくると言って便所に駆け込む者、汗を流してくると言って霧風呂に出かける者、そんな人がちらほらと出ている。ここまで体重管理をきっちりと行って来たとはいえ、十か月ぶりの測定である。思わず緊張が走る。
下着一枚で体重計に乗ると、目の前の目盛りがくるりと動く。
「ん? 雑賀騎手、申告より体重ちょっと軽いですね。追加で重りを下げてください」
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