第33話 安見調教師
大きく月日が過ぎて十二月、竜障害は最後の一節が開催されている。それももう予選を終え、さらに準優勝戦も終え、決勝を残すのみとなっている。そんな、今年も残すところあと二週間ほどという頃、突然その日はやってきた。
雑賀が高遠主任と二人で今日の調教をどうしようと相談している所に、諏訪は帰って来た。
事情は色々と聞いてはいるが、諏訪の姿を見た皆の胸中は複雑であった。雑賀ですら手放しでは喜べなかった。高遠はほっと一安心という安堵の顔ではあったが。
諏訪は一人で戻ってきたわけではなく、一人の男性を連れて戻って来た。どちらかというと、雑賀にしても高遠にしても、そちらの方が感動があった。
「あっ! 安見先生じゃないですか! お久しぶりです!」
「おお、おお、高遠君。久々だねえ。元気にしておったかな。急に諏訪君を借りてしまったから、さぞかし苦労しただろう」
「……え、ええ、まあ」
急に笑顔を引きつらせた高遠を見て、安見はぷっと噴き出してしまった。
「言いたい事はわかっとる。思う所があって指示した事とはいえ、君の負担はかなり大きかっただろう。話は後でゆっくり聞こうじゃないか」
そう言って、安見は高遠の肩を少ししわがれた手でポンと叩いた。諏訪も高遠を見て無言で頷いた。
調教を終え帰ってくると、安見と諏訪が二人応接椅子に腰かけて談笑していた。少し離れた事務机で、ぶすっとした顔で高遠が事務を行っている。
調教が終わったと報告すると、諏訪は「ご苦労さま」と言って労った。何か月ぶりだろうか。こうやって労ってもらうのは。数か月の事ではあるが、もう何年も会わなかったような、そんな懐かしさを覚える。
安見は応接椅子に深々と腰かけ、ぐるりと事務室の様子を観察している。
「諏訪君、君は珈琲は飲まないのか? こうしてお茶が出るという事は飲まないのだろうな」
「飲まないわけじゃないですけど、どちらかというとお茶の方が落ち着いて良いですね。それがどうかしたんですか?」
「竜具、とくに長靴な、思った以上に匂うんだよ。珈琲を淹れた後の豆をな、下駄箱に入れておくんだ。そうすると自然と匂いが減るんだよ」
『下駄箱』という単語に、思わず雑賀が噴き出してしまうと、安見が「どうかしたのか?」と真顔でたずねた。
「いえ、下駄箱なんて単語久々に聞いたもので、思わず。すみません」
「下駄箱は下駄箱だろ。だったら他に何て言うんだよ」
「……靴箱とか」
「何が靴箱だ。洒落た言い回ししやがってからに。暫く会わんうちに、随分と生意気になりおって。昔はおどおどと小動物みたいだったのに。諏訪君が甘やかすからこういう事になるんだ」
「すみません」と言って雑賀がぺこりと謝ると、諏訪が笑いを必死に堪えていた。ふと見ると高遠は背を向けて肩を震わせている。
雑賀が手に付いた竜の油を石鹸で落とし、顔に付いた埃を洗い流すところを、安見はじっと見続けていた。綿布で塗れた顔を拭き終えたのを見て、諏訪の隣に座るように促す。
言われるがままに座ろうとして、諏訪と安見のお茶が無くなっているを見て、雑賀は先にお茶のお替りを淹れに行った。
「多米から聞いたよ。茂木まで来たんだってね。どう感じた?」
「こことは比べ物にならないくらい栄えてました。競竜場の前に呑み屋街があってビックリです」
その雑賀の返答に、安見は思わず飲もうとしてたお茶を噴き出しそうになってしまった。諏訪もその解答に大笑い。
「そんな話をしてるんじゃねえよ! 竜障害の話に決まっとるだろうが! 誰がわざわざ呑み屋の話を聞くか、馬鹿もんが!」
「す、すみません……」
「で、どうだった? まさか、調教とか何も見なかったのか?」
「あ、はい。諏訪先生を探すので必死で、他は何も」
安見はその銅鑼のような丸い顔を前後させ、静かに「そうか」と呟いた。
「雑賀。人はな、視野が広い者と、一点を集中で見る者とがいる。お前さんは後者の方なんだな。だが竜障害の騎手はそれではいかん。もう少し色々なところが見れるように自分で訓練していきなさい」
「具体的には、どうしていけば良いのでしょう?」
「申し訳ないが、俺にはわからん。色々な所を見ると当然注意は散漫になるだろう。そうならないように、今の集中力で視野を広げていけという事しか俺には助言できん」
「つまり、それが俺の今後の課題という事ですね」
「そう言う事だ」と言って安見はにこりと微笑んだ。
「雑賀。多米から色々な話を聞かされただろう。少し騎乗の指導もしたと聞いた。どうだ、少しは自信が付いたか?」
「まだあれ以降、競争で走っていないので、そこまでは」
「そうだな。一勝できないと中々難しいかもな。だがな、お前さんの弱気は必ず竜に伝わってしまう。そうなれば竜は戸惑い、障害を怖がるようになる。卵が先か鶏が先かみたいな話ではあるが、お前さんの心構えができなければ、なかなか勝利はおぼつかない。それだけは覚えておけ」
無言で頷く雑賀の肩に安見はそっと手を置いた。
「大丈夫。お前たちは必ず天一に行ける。うちも天一に行く。そこで一緒に竜を競わそうじゃないか」
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