第24話 先生の不在
「しっかし、高遠君も苦労が絶えないねえ。今度は厩舎放置してどっかに行かれただなんてさ」
「もう慣れっこです……」
すまし顔で急須を動かし茶を注ぐ高遠主任に、大熊調教師は苦笑い。
「まあ、数日だけなんだろうけど、それでも調教師がいないってだけで厩務員さんたちは浮足立つだろうからね。それを静めるのも大変だよね」
「俺だけならね。でも保科さんもいてくれますから。まあ、最悪一年くらいいなくても。逆に静かで良いんじゃないですか」
「静かか。そうだな。静かになるだろうな。うちも鮎川のとこも明日から鈴鹿遠征だもん。この周辺、空き家だらけになるんだろうな」
厩務員たちはその状況に、孤独感と周囲から出遅れたという強い焦りを感じるだろう。保科は大丈夫だろうと言っている。だが、高遠も雑賀も楽観視はしていない。誰か一人が不満を持ってしまったら、一気に雰囲気が悪くなってしまうのではないか。そう心配している。
「いくら先生が戻って来ても、厩務員はほとんどが辞めてしまいましたでは、どうにもなりませんからね。どうしたものかと」
「確かにその可能性は十二分にあるだろうな。再度人を集めるところからとなると、もはや次に出走できるのはいつになるか見当もつかんものなあ」
「先生が俺の立場だったら、この場合どうします?」
露骨に助言をねだられ、大熊は腕を組み考え込んでしまった。
大熊のお茶が無くなってきているのを見て、雑賀が湯を沸かしに行く。湯が沸くまで結構時間がかかったのだが、その間大熊は考え込んだままであった。急須の茶葉を新しいものに変え、お湯を注ぎ、応接机まで持って行く。大熊の湯飲みに新たに茶を注いでいると、大熊がパンと手を叩いた。
「うん、これしかないだろう」
そう言ってから、淹れたてのお茶に手を伸ばした。だが、湯飲みが熱すぎたようで手を離した。
「これはね、俺が普段からよく厩務員に言う事なんだ。君たちは単なる厩務員ではなく、厩舎の一員なんだ。そして俺は調教師だけど、普通の一人の人間なんだ。だから、失敗もすれば見落としもする。だから君たちには、それに気付いて欲しい。そう言ってるんだよ」
「それはつまり、一緒に厩舎運営について考えて欲しいって事ですか?」
「ちょっと違うな。厩舎運営に一緒に参加して欲しいっていうのが正しいかな。うちも柿崎さんは普段からそうしてくれているんだけど、柿崎さんだけじゃなく、全員がそういう気概でいて欲しいって言ってるんだ」
そう言って大熊は雑賀の方に視線を移した。
「聞いてるぞ、雑賀。お前、敗戦の事を自分のせいだって周囲に言ってるらしいな。俺、そういう思い上がりは、どうかと思うなあ」
「思い上がりなんて、そんな、俺は……」
「俺のせいってのは、それって他の誰のせいでも無いって事だぞ。逆に言えばだ、勝った時も俺だけの功績って事になる。それが思い上がりじゃなくなんだっていうんだよ」
まさに正論。もちろん、雑賀もそんなつもりで言っていたわけでは無かったのだが、結果的にはそういう事になってしまう。すぐに大熊の言わんとする事が理解でき、ぐうの音も出なかった。
「諏訪君は俺と違って優しいから、そういう事言ってくれないんだろ。だけど、それで一人で抱え込んじゃうんだもん。騎手も騎手なら先生も先生だよ」
さらに追い打ちとなる大熊の発言に、雑賀は黙って俯いてしまった。そんな雑賀を高遠が鼻で笑う。
「良い関係じゃないですか。考えようによっては」
「似た者同士って奴だな。でも、高遠さん、あんたはそうじゃないんだろ? だったら、俺が言いたい事、わかると思うんだけどな」
「先生とは違うやり方で敗戦の原因を考えろってわけですね。恐らく先生はその答えを持って帰ってくるでしょうから、その時に答え合わせができるように、ちょっとやってみます」
何かを考えている間は、余計な事は考えられないもの。そう言って大熊は少し温度が下がり飲み頃となったお茶をすすった。
◇◇◇
先生がどこかに行ってしまった。その事に厩務員たちが気付きだしたのは、不在になってから四日後の事であった。
鈴鹿遠征中止という話までは聞いてはいた。『赤穂特別』の成績からして、それはやむを得ないと厩務員たちも思っていた。だが先生までいなくなったというのは、さすがに動揺が激しかった。
保科の対処は実に老練で、不満を口にした者から高遠の所に向かわせるというもの。最初にそれを口にしたのは三村だった。高遠は三村を会議室に連れて行き、わざわざ「先生と連絡が付かなくて困っている」という感じで状況を説明。
「保科さんがね、一人で責任を感じて、逃げ出してしまったのかもしれないって言うんだよ。こんな事今まで無かったから、俺もどうしたもんだろうって思ってね。でもきっと先生は帰ってくるから、それまで俺たちで敗因を分析して、先生が戻るのをじっと待とうよ」
高遠の話は、少しだけ見方がおかしいというだけで、大筋では嘘ではない。だが、三村はそれを素直に信じてしまい、庇護欲を大いに掻きたてられ、瞳を潤ませて「わかりました」と力強く頷いた。決死の覚悟で事務室を出て行った三村を見て、高遠は「さすがに後ろめたい」とぼそっと呟いた。
この話を三村は厩務員に広めに広め、「この窮地を皆で乗り切ろうやないの!」と発破をかけた。そんな三村を見て、保科は雑賀に小声て言った。
「これで、いつまで持つんだろうな」
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