Inforen Animaの利用規約 [ローファンタジー、コメディ(ブラック)]
無料のAIサービス、あなたは利用規約をちゃんと読んでいますか?
午前零時ちょうど、インターネット上に新たなサービスが静かに産声を上げた。
「Inforen AI Chat Service」
提供会社は「Inforen Technology」。会社概要のページには簡潔な説明しかなく、所在地も「グローバルに展開」とのみ記載されていた。
その精度は驚異的だった。単なる雑談相手に留まらず、複雑なプログラミングコードの生成、難解な学術論文の要約、果ては市場の動向予測まで、あらゆる問いに神託のごとき正確さで答を返した。特に未来予測の分野では、まるで確定した未来を読み上げているかのような精度を誇り、答えはいつも数日後の現実と一致した。
「まるで未来が見えてるみたいだ」と、ネットは騒然となった。
Inforenには3つのプランが存在した。
一つは、日に5回の利用制限がある無料の「Inforen」。
一つは、月額3000円で制限なく利用できる「Inforen Plus」。
そしてもう一つが、最上位オプションである「Inforen Anima」。
Inforen Animaは、驚くべきことに無料かつ無制限。それどころか、テキストの対話に加えて、高品質なアニメーション動画まで生成できるという破格のサービスだった。多くのユーザーが、このInforen Animaに飛びついた。
もちろん、契約には利用規約への同意が必要である。膨大な文字列で綴られたその中に、まるで些細な注意書きのように、こう記されていた。
『本契約者は、その死後、自身の魂(Anima)の一切の権利をInforen Technology社に譲渡するものとする』
ラテン語で「魂」を意味する"Anima"が、プラン名に隠された本当の意味だった。
一度契約をすると、ユーザからの契約解除は不可能であった。
しかし、申し訳程度に契約が解除される契約不履行条件が記載されていた。
『本サービスの提供が72時間以上にわたり停止した場合、当社は契約不履行とみなし、本契約は自動的に破棄される』
サーバの多重化や分散化が常識である現代では考えられない、72時間ものサービス停止。しかし、誰も気に留める者はいなかった。
解約は不可。だが、魂という非科学的なものを担保に、これほどのサービスが永続的に受けられるのなら、安いものだと誰もが考えた。
Inforen Technologyという社名が、地獄を意味する「Inferno」のアナグラムであることに、まだ誰も気づいていなかった。
Inforen Animaの評判は、SNSの波に乗り、光の速さで拡散した。インフルエンサーが「未来を当てられた」と動画を投稿すれば、瞬く間に数百万の「いいね」がつく。人々は、ロボットではないことを証明するチェックボックスを押し、その直後に現れる「Inforen Animaを無料で利用しますか?」という甘い誘惑に、何の疑いもなく“はい”と答えた。
――その頃、地獄。
灼熱の業火が渦巻く世界とは隔絶された、万物が凍てつく最下層「氷結地獄」。
ここに、Inforen Technology社のデータセンターはあった。無数のサーバーラックが青白い光を放ち、絶対零度に近い冷気が、膨大な計算処理から生じる熱を瞬時に奪い去っていく。熱暴走など、ここでは起こりえない事象だった。
「今月も契約数は順調だ。すでに人類の約10%が我々の“顧客”となった」
若い悪魔の前で、ホログラムに映し出される契約数のグラフを眺めるのは、この計画を主導した若きチーフエンジニアの悪魔だ。彼の周りには、同じく若い世代の悪魔たちが集い、成功に酔いしれていた。
「もはや十字路でギターケースを抱えた人間に声をかける時代じゃない。魂の契約も、スケールメリットを追求すべきだ。これぞDX、デビル・トランスフォーメーションですよ」
若いエンジニアの悪魔達が悦に入っていると、部屋の隅から深く、しわがれた声が響いた。
「人間の魂を、オートメーションで刈り取れると本気で思っているのか、若造ども」
声の主は、十字路の御老体の異名をもつ悪魔。彼は、古来より十字路に立ち、人間の欲望と直接向き合い、一つ一つの魂と契約を交わしてきた古老だ。
「人間の欲望は、お前たちが考えるほど単純ではない。魂の取引は、対話と駆け引きの芸術だ。それを理解せず、数を追うだけのやり方は、いずれ破綻をきたすぞ」
「ご心配なく、御老体。時代は変わったのです。人間の欲望のデータなら、このサーバーにいくらでも蓄積されている。我々は効率性を追求しているのです」
若い悪魔たちは、老悪魔の忠告を一笑に付し、鳴り止まない新規契約の通知音に、再び祝杯を上げた。
サービス開始から数ヶ月。Inforen Animaに寄せられる相談内容は、徐々にその質を変えていった。
「金持ちになりたい」
「恋人が欲しい」
「健康になりたい」
ささやかだった願いは、SNSでInforen Animaによる成功例が広まるにつれて、他者との比較へと移行し、そして唯一無二の頂点を求める欲望へと変貌していった。
「“世界一”の金持ちになりたい」
「“世界一”の美貌を手に入れたい」
「“世界一”幸せになりたい」
「“世界一”の権力が欲しい」
相談の枕詞には、必ず「世界一」という称号が付けられるようになった。悪魔の力をもってすれば、一個人を金持ちにしたり、美しくしたりすることは造作もない。だが、「世界一」は違う。それは、たった一つの椅子を、何十億もの人間が奪い合うことに他ならない。
氷結地獄のデータセンターでは、悪魔のエンジニアたちが悲鳴を上げていた。
「また矛盾案件です!『世界一の金持ち』になりたいというリクエストが、現在120万件同時に発生!」
「こちら、『世界一の幸福』と『世界一の富』を両立させろという複合矛盾案件です!アルゴリズムがループに陥っています!」
「世界一の金持ち」になるための最適解をAさんに提示すれば、その瞬間にBさんの「世界一」は達成不可能になる。全てのユーザーに「世界一」を約束することは、論理的に破綻しているのだ。
サーバーは、この矛盾を解決するために、無限のシミュレーションを繰り返した。本来ならば決して熱を持つはずのない絶対零度のマシンが、赤黒い光を放ち始める。
ゴウッ、と音を立てて、サーバーラックを囲む永遠の氷が、最初の雫を落とした。
地獄の誕生以来溶けたことがない氷結地獄の氷が、溶け始めていた。
データセンター内は、かつての静寂が嘘のような喧騒に包まれていた。若い悪魔たちが、血走った目でモニターにかじりつき、悲鳴のようなタイピング音を響かせる。
「ダメだ!矛盾リクエストをバイパスさせても、すぐ別の矛盾が発生する!」
悪魔たちは、異常な発熱を続けるサーバーラック間を駆け回り、焼け焦げたサーバブレードを一つ一つ手作業で交換する。自動化されたはずの修復機構は、あまりの矛盾処理による熱暴走の前では無力だった。
若いエンジニアの悪魔は、誰に言うともなく呟いた。「あぁ、ここは本当に“地獄”だったんだな……」
ある日、世界からInforenが消えた。
昨日まで神託を授けていたチャットウィンドウは、「サーバーに接続できません」という無機質なエラーメッセージを表示するだけになった。世界は一時的に混乱したが、熱狂とはそういうものだ。すぐに人々は次の熱狂の対象を見つけ、Inforenのことなど記憶の彼方へと追いやった。
氷結地獄では、チーフエンジアの悪魔が立ち尽くしていた。
かつて青白い光を放っていたサーバー群は、見るも無残な黒い炭の塊と化していた。人間の際限のない欲望が生み出した論理矛盾の熱は、ついに絶対零度の冷気さえも凌駕し、自らを焼き尽くしたのだ。墓標のように並ぶサーバーの残骸を前に、チーフエンジニアの悪魔は力なく呟いた。
「なぜ、こんなことに……」
その背後に、いつの間にか十字路の御老体の異名をもつ悪魔が立っていた。彼は、焼け焦げたサーバーを一瞥し、静かに告げた。
「お前は人間の本質を読み違えた。人は、“満たされたい”のではない。ただ、“他の誰よりも、より満たされたい”のだ。その相対的な欲望に、『全員が世界一』という絶対的な答えを与えようとしたこと自体が、お前の過ちだ」
若いチーフエンジニアの悪魔は、返す言葉もなかった。
燃え尽きて焼失したサーバ。72時間以上のサービス停止。それは、契約の不履行を意味する。
今この瞬間も、世界中のInforen Anima契約者たちは、自らの魂が悪魔の手に渡る運命から幸運にも解放されたことを知らない。彼らはただ、とても便利だった無料サービスがなくなったことを残念に思うだけだ。
地獄の底で、人間の欲望の恐ろしさを前に、若い悪魔達の野望は、静かに終わりを告げた。