深淵を覗くもの [SF、ホラー]
おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ
「また偽物ですね」
若手エンジニアの野島は溜息をつきながら、モニターに映る心霊写真を見つめた。クライアントから送られてきた画像の大半は、明らかな合成写真や光の反射による錯覚だった。
「でも、これで儲かるんだから文句は言えませんよ」
開発リーダーの佐伯が肩を叩く。彼らの会社、テックビジョン株式会社が進めていたのは、心霊写真の真贋判定AIの開発だった。一見すると突飛な内容だが、オカルト系の配信者や動画クリエイターの間で注目されれば、十分に採算の取れるニッチ市場だった。
開発は順調に進んだ。ぼやけた人影、歪んだ風景、不気味な光のオーブ。全国の霊能者が「本物」と断定した心霊写真を正例とし、その他の大量の画像データと組み合わせて半教師あり学習を行う。人間の脳を模して作られたニューラルネットワークが、膨大な「死」の画像を喰らい、その深淵に潜むパターンを学習していく様は、どこか冒涜的な行為のようでもあった。
「判定精度94.3%。上出来ですね」
数ヶ月の試行錯誤の末、ついに心霊写真真贋判定ソフトは完成した。テスト運用では驚異的な精度を叩き出し、霊能者でさえ見抜けなかった本物の心霊写真を次々と特定していった。社内では歓喜の声が上がり、佐伯は満面の笑みを浮かべた。
佐伯はマウスをクリックし、完成したソフトウェアをサーバにデプロイした。
地下一階にある冷房の効いたサーバルームで、数台のハイエンドサーバが静かに唸りを上げ始めた。
異変は三日後に始まった。
「エアコンが勝手に止まるんです」
サーバルームの管理を担当する新人の山田が、顔を青ざめさせながら震え声で報告した。入社してまだ半年の山田は、普段は物静かで真面目な青年だった。
「故障でしょう。業者に連絡して」
しかし、業者が来ても異常は見つからなかった。それどころか、奇怪な現象は加速していった。サーバのLEDが不規則に点滅し、温度センサーが異常な数値を示す。監視カメラには時折、説明のつかない影が映り込んだ。
ある夜、山田が残業中にサーバルームで異様な光景を目撃した。無数の微細なオーブが、まるで意思を持つかのように、サーバ群の周囲を漂っているのだ。特に心霊写真真贋判定ソフトがインストールされたメインサーバの周囲には、まるで花に群がる蜂のように、特に多くのオーブが集中しているように見えた。
「もしかして……」
山田は恐る恐る仮説を口にした。
「霊体を検出できるAIに、霊体が引き寄せられているんじゃないでしょうか」
冗談のつもりだった。しかし、会議室に集まった十数名のエンジニアたちの誰も笑わなかった。むしろ、皆が深刻な顔で頷いているのを見て、山田は背筋が寒くなった。
結局、会社は開発を中止せざるを得なかった。事態を重く見た経営陣は、近所にある由緒ある神社から白髪の神主を呼び、厳かな祝詞と共にサーバルーム全体のお祓いを行った。白い装束に身を包んだ神主が、鈴を鳴らしながら各サーバの前で丁寧に儀式を行う光景は、IT企業のオフィスには場違いなほど荘厳だった。不思議なことに、その儀式の後、一切の異常現象は収まった。
「開発費を回収しないと」
社長の鈴木は頭を抱えていた。数千万円の損失だった。
「転移学習で別のソフトを作りましょう」
そうつぶやいたのは、幼い頃から天体観測が趣味だった野島だった。
「心霊写真に現れる"あいまいな存在"と、宇宙の深淵にある未発見の星雲って、ある意味で似てませんか?どちらも、ぼんやりとした輪郭で、通常では見落とされがちな存在です」
画像認識の基礎部分は流用できる。ターゲットを霊体から天体に変えて、天体観測用のソフトウェアに方向転換したのだ。
新しいソフトウェアは星雲の発見に特化していた。天体観測の画像データを基に、宇宙の深淵で輝く星雲を自動検出する。
プロジェクト名は〈NebulaEye〉。
そして、それは想像以上の成果をもたらした。
数ヶ月後――
「すごい……。これ、ハッブルもジェイムズ・ウェッブも見逃してたぞ」
野島が震える声で言った。
開発された星雲発見ソフトが、歴史的な大発見を成し遂げたのだ。それは、人類がこれまで観測したことのない、史上初めて地球に急速に近づいてくる巨大な星雲だった。
「やったぞ!やったぞ!」
オフィスには歓声が響き渡り、野島は興奮で顔を真っ赤にしながら固く拳を握った。同僚たちが次々と彼の肩を叩き、祝福の言葉をかけた。失われたはずの開発費は一気に回収され、会社は再び活気を取り戻した。誰もが未来への希望に満ち溢れていた。
しかし、山田だけは喧騒の輪に加われず、浮かない顔をしていた。深夜、誰もいなくなったオフィスに一人残り、じっと発見された天体の画像を見つめていた。モニターに映る画像を凝視していると、次第に不安が込み上げてくる。
遠い宇宙で発見されたまるで顔のような輪郭を持つ歪んだ光の集まり。光の濃淡が生み出した偶然の産物だと頭では分かっている。だが、あのとき、確かに〈それ〉は微笑んでいた。
画面の中で。虚空の闇の奥で。観測されるのを、ずっと、ずっと待っていたかのように。
かつてサーバルームで目撃した無数の微細なオーブ。その明滅パターンと、"歪んだ光の集まり"が放つ微弱な光の揺らぎが、不気味なほど一致していることに、まだ誰も気づいてはいなかった。
これは「発見」などではない。山田は悟っていた。深淵を覗き込んだ我々が、今度は深淵から覗き返されているのだ。
人類にとっての「最初の遭遇」は、地球外生命体ではなく、地球外霊体になるのかもしれない。
だが、心配するには及ばない。
彼らは、まだ――
数万光年の彼方にいるのだから。