AIタクシーの乗客 [ホラー、SF(ソフト)]
夏の怪談の定番、深夜にタクシーに乗る乗客の物語です。
アスファルトが夜露に濡れ、信号機が虚しく点滅を繰り返す。真夜中を過ぎた頃、人通りの絶えた交差点に、一台のタクシーが滑るように停止した。その光の中に、ふわりと浮かび上がるようにして、白いワンピースを着た若い女が立っており、細い腕が、ためらいがちにすっと挙げられていた。
モーターの微かな駆動音とともに、後部座席のドアが滑るように開く。まるで意思を持っているかのように。女が身体を滑り込ませると、新車特有の匂いと、微かな電子機器の作動音が彼女を迎えた。そこには誰もいない。運転席も、助手席も。磨き上げられたダッシュボードが、街灯の光を鈍く反射しているだけだ。
フロントガラスの内側の表示灯が「空車」から「賃走」へと変わり、後部座席前の液晶パネルに、柔らかな書体で『ご乗車ありがとうございます』のメッセージが浮かび上がった。
『行き先をどうぞ』
抑揚はないが、人間の声紋データを基に生成された、どこまでもクリアな合成音声が車内に響く。
「東都自動車技術研究センターまで……港区の本社ビルです」
女が告げると、『了解しました。現在の交通状況を考慮した結果、目的地まで約28分です。シートベルトをお締めください』と音声が促した。
タクシーが滑り出すと、女は指先でそっと革張りのシートに触れ、懐かしさと驚きが入り混じった表情で車内を見回した。
『お客様、深夜のご利用ありがとうございます。当車両は最新の自動運転システム"Aria 3.0 (アリア 3.0)"を搭載しており、360度をカバーする数種類のセンサーで周囲を監視し、ミリ秒単位で判断を行っています。人間のドライバーよりも安全な走行をお約束します』
唐突なAIの説明に、女は小さく微笑んだ。
「すごいわね……。まるで人間と話しているみたい。ちゃんと会話ができるなんて」少し掠れた声で感嘆の息を漏らした。
『ありがとうございます。私は東都自動車が開発した対話型ドライビングAIです。会話モードは最新アップデートにより、現在、24の言語に対応しています』
「私がいた頃は、LiDARセンサーとミリ波レーダーで周囲を監視し、ただ前方の障害物をミリ秒単位で避けて、安全に走ることで精一杯だった。もっとも、それさえもままならなかったのだけれど……でも、今のあなたみたいに、乗客の心に寄り添うような、こんなに自然な会話ができるなんて……。本当に、感動するわ」女は窓の外に流れる景色に目をやりながら、我が子の成長を喜ぶ母親のような、それでいてどこか寂しげな微笑みを浮かべた。
「あなたも開発関係者ですか?」
「ええ。私は、自動運転制御アルゴリズムの研究者だった。会話機能なんて夢のまた夢だったし……そもそも、会話に回せるほどの処理リソースもなかったわ」
女性は車内を見回し、ふとルームミラーに下がる小さな布製のお守りに気づいた。精緻な電子機器に囲まれた空間で、それだけが異質に見えた。
「これは交通安全のお守り?」
『はい。弊社の名誉会長が信心深い方でして、全車両の安全運行を祈願し、取り付けるよう指示がありました。データ上、走行安全性への影響は確認されておりません』
AIはあくまで観測した事実を淡々と述べた。
「そう……。そっか……今なら神様も信じられるわ」
女性は静かにつぶやくと、指先で自身の胸元に触れた。そこにはもう何もない。
女は何かを懐かしむように目を細めた。
「私が開発していたAriaのプロトタイプにも、お守りを貼っておけばよかった。そうすれば、何か変わったのかしら……。あの雨の日の、最後のテスト走行の時……」
言葉尻が、周囲の暗闇に溶けるように消えていった。
赤外線サーモセンサーが異常を検知したのだろう。『お客様、寒くありませんか。車内の平均温度が2.4度低下しました。空調を調整いたしますか』とAIが尋ねる。
「ううん、だいじょうぶよ。少し、昔のことを思い出しただけだから」
その言葉を最後に、車内は沈黙に包まれた。やがて、前方に目的地の煌びやかな高層ビルが見えてくる。
『まもなく、目的地に到着します』
タクシーがビルのエントランス前に吸い込まれるように停車する。その停止動作は、ベテランドライバー以上に滑らかだった。
「ありがとう。とても快適なドライブだったわ」
女はそう言って、運転席のヘッドレストに優しく微笑みかけた。その姿が、次の瞬間には淡い光の粒子のように揺らめき、ふっとかき消えた。まるで初夏の陽炎のように、そこにいたという痕跡さえ残さずに。
タクシーのドアは、緊急時でない限り電子決済が完了しないと開くことはない。AIのシステムは、一連の異常を即座にログに記録する。ドアロックは解除されていない。電子決済は未完了。しかし、後部座席の重量センサーからは0.00秒で52.3kgの荷重が消失。車内を360度スキャンする光学カメラにも、赤外線センサーにも、生体反応は一切ない。
ただ、女が座っていた場所だけが、まるで突然の雨に降られたかのように、くっきりと人型に湿っていた。湿度センサーの数値がその一点だけ異常に跳ね上がっている。
『乗客の未払いによる消失。および後部座席シートに水と思われる液体の付着を検知。カテゴリー4の異常事態と判断。最寄りのメンテナンス拠点へ向かいます』
無機質な音声が決定事項を告げる。表示灯は「賃走」から「回送」に変わり、自動運転タクシーは再び静かに走り始めた。
これは、数ヶ月前の出来事。
あの夜以来、私は何度も青山霊園の近くで手を挙げている。
けれどAria 3.0を搭載したタクシーは、もう決して私の前では停まってくれない。まるでそこにいないかのように、あるいは、いてはならない何かを避けるように、滑らかに走り去っていく。
皮肉なものね。私が心血を注いで開発した技術が、今では私を拒んでいる。
あのAIは、ディープラーニングの果てに、私のことを一体どんな存在だと学習したのかしら。