猿の手 [ホラー]
怪奇小説の古典「猿の手」をアレンジしてみました。
雨上がりの日曜日、田中は一人で蚤の市を歩いていた。足元の水たまりに映る空は、相変わらず重い雲に覆われている。
「あ」
また黒猫だった。三匹目である。朝から既に二匹の黒猫が田中の前を横切っていた。まるで示し合わせたように、必ず左から右へと。
田中は三十二歳になるまで、この現象に慣れきっていた。生まれてこの方、彼の人生は、呪われているとしか言いようがなかった。父は彼が物心つく前に蒸発し、母は病気がちで、遅れてきた不幸の波に飲まれるように亡くなった。面接に行けば会社が倒産し、恋人ができれば相手は結婚詐師。何もかもが思うようにいかない。
「いらっしゃい、何かお探しですか?」
古物商の店主が声をかけてきた。六十代後半と思われる痩せた男性で、深いしわが刻まれた顔に人懐っこい笑みを浮かべている。
田中の視線は、店先に並ぶ古い品々の中で、ひときわ異様な存在感を放つものに釘付けになった。小さな木箱の中に、干からびた動物の手のようなものが収められている。
「それは……何ですか?」
店主は田中の視線を追い、にやりと笑った。
「ああ、それですか。猿の手といいましてね」
「猿の手?」
「伝説の品物です。持ち主の願いを三つまで叶えてくれるんですよ」
田中は思わず鼻で笑った。
「そんなオカルトめいた話を信じろと?」
「信じる信じないは、あなた次第です」店主は肩をすくめた。「ただし、忠告させていただくなら……願いには必ず代償が伴います。不幸という名の」
田中は干からびた手を見つめた。指は節くれだち、爪は黄ばんでいる。気味が悪いが、なぜか心惹かれるものがあった。
「いくらです?」
「本当に買われるんですか?」店主の表情が少し曇った。「私としては、あまりお勧めしませんが……」
「いくらですか」田中は繰り返した。
「……五千円です」
田中は嘲笑うかのように口の端を上げた。後悔? 代償? 生まれてこの方、人生そのものが代償のようなものだった。これ以上の不幸など、ありえるはずがない。彼はなけなしの金を払い、迷わずその手を購入した。
アパートに戻った田中は、猿の手を机の上に置いて眺めていた。本当に願いを叶えてくれるのだろうか。馬鹿馬鹿しいと思いながらも、心の奥底では期待している自分がいた。
夜が更けてから、田中は意を決した。
乾いた猿の手を握りしめ、目を閉じる。
そして、積年の恨みを込めて最初の願いを告げた。
「これから先、俺に訪れる不幸や災難は、全て他の人に降りかかるように」
手の中で、何かがぴくりと動いたような気がした。しかし目を開くと、猿の手は変わらずそこにある。
「...やっぱりただの作り物か」
田中は苦笑いを浮かべて眠りについた。
翌朝、田中が駅に向かって歩いていると、いつものように黒猫が現れた。だが今度は違った。黒猫は田中の前を横切ろうとして、急にバランスを崩し、道路脇の側溝に落ちてしまったのだ。
「偶然だ」田中は首を振った。
しかし、その日から田中の人生は変わり始めた。
電車は時刻表通りに運行し、コンビニでは必ずお目当ての弁当が残っている。上司の機嫌も良く、同僚たちも親切だった。
一方で、ニュースでは小さな事故や災害の報道が増えているように感じられた。電車の人身事故、建設現場での労災、食中毒の発生……
「まさかな」田中は呟いた。
数ヶ月後、田中は自分の人生から「不幸」が完全に消え去ったことを確信する。彼は満を持して、猿の手に二つ目の願いを告げた。
「猿の手の願いの制限が三つではなく、際限なく叶えられるように」
二つ目の願いを告げた時、田中の心は躍っていた。これで何でも手に入る。何でも実現できる。
最初は小さな願いから始めた。
「宝くじで一万円当たりますように」
「懸賞で一等賞が当たりますように」
「仕事で昇進できますように」
全てが思い通りになった。
しかし慣れとは恐ろしいもので、田中の欲望は次第に膨らんでいった。
「宝くじで10億円」
「都心の一等地に豪邸を」
「年収が一千万円に」
最初は慎重だった願いは、徐々に大きくなっていった。
田中の願いは、どんな非現実的なものでも瞬時に叶えられた。しかし、それと並行して、世界は急速に歪んでいった。テレビやSNSは、原因不明の大規模な事故、異常気象による未曾有の災害、そして世界経済を麻痺させる金融恐慌のニュースで溢れかえる。
SNSのタイムラインも、誰かの不幸な出来事で埋め尽くされていた。
だが田中にとって、それらは全て対岸の火事だった。自分には何の関係もない、遠い世界の出来事。むしろ、自分だけが幸運に恵まれていることに優越感すら感じていた。
「億万長者になりますように」
「世界一幸せな人間になりますように」
田中の願いは止まらなかった。
田中はもはや、世界の悲劇と自分の願いとを関連付けて考えることさえ放棄していた。
そしてある日、世界は決定的な終焉を迎える。致死率100%の疫病が発生し、瞬く間に世界中でパンデミックを引き起こしたのだ。あらゆるインフラは停止し、都市は死の沈黙に包まれた。
しかし、田中の生活には何の影響もなかった。病という災難は彼を避け、物流が途絶えても、猿の手で願えば、温かい食事も清浄な水も目の前に現れた。
数年が過ぎた。テレビは砂嵐を映すだけになり、インターネットは完全に沈黙した。田中は、自分が人類最後の生存者になったことを悟る。この時になって初めて、田中は理解した。「猿の手」が要求する願いの代償を、彼以外の全人類が肩代わりしていたのだと。田中の些細な、そして際限のない欲望の全てを。
田中は猿の手を握りしめた。
「俺を殺してくれ」
田中は震え声で願った。
「頼む、俺を殺してくれ。病気でも事故でも何でもいい。俺を死なせてくれ」
しかし、死という不幸が田中に訪れることはなかった。
彼は最初の願いで、自分への不幸を全て他者に転嫁していたのだから。
田中は膝から崩れ落ちた。
廃墟と化した世界で、田中だけが永遠に生き続けなければならない。誰よりも幸運で、誰よりも不幸な存在として。
猿の手は、田中の手の中で冷たく笑っているようだった。