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黄昏時の散歩者 [ローファンタジー、ホラー、推理]

夕暮れ時に激増する軽犯罪。夕暮れの街で、人はなぜ“魔が差す”のか

警視庁・未来犯罪予防対策課、――通称「未来課」。

新設されたこの部署は、AIやビッグデータ、行動心理学の知見を用いて、「未然犯罪」の兆候を察知し、防止することを任務としている。私はその未来課の巡査部長・神代冴かみしろ さえ。27歳。昇進試験をストレートで通過し、本庁の精鋭に抜擢された警察官だ。


だが、今、私の目の前にあるデータは、いかに冷静な私でも、眉をひそめざるを得ないものだった。

「また……文京区?」

東京23区で最も治安が良いとされるその区で、ここ数週間、軽微な犯罪の発生率が異常な上昇カーブを描いているのだ。

コンビニでペットボトル飲料を一本万引き。路上に置かれた看板を蹴り倒す。肩がぶつかったという些細な理由での口論からの暴行。どれもこれも、ニュースにもならないような小さな事件ばかり。しかし、その数が異常だった。そして、事件の発生は夕暮れ時に集中していた。


さらに奇妙なのは、被疑者たちだ。前科はおろか、交通違反歴すらほとんどない、ごく普通の、真面目な市民たち。教師、会社員、主婦……。彼らは逮捕後、判で押したように同じ言葉を口にするのだ。

「――魔が差したんです」

その一言で、すべての動機を片付けようとするかのように。まるで、自分自身の意思ではないとでも言いたげなその響きが、私の分析官としての勘に警鐘を鳴らしていた。


一週間後の定例会議。巨大なスクリーンに、文京区の地図が映し出される。私が作成した、犯罪発生地点を時系列でプロットした資料だ。

「犯罪の発生場所が、移動している……?」

未来課課長・梶原警視の口から声が漏れる。先週は本郷三丁目駅周辺に集中していた赤い点が、今週は湯島天神の方面へ。その数日前は根津、さらに前は千駄木へと、まるで誰かがゆっくりと散歩でもするように、発生地点が規則正しく動いている。


「発生している事件は、相変わらず万引きや器物損壊といった軽微なものばかりです」

私は立ち上がり、会議室にいるメンバーに説明を始めた。

「しかし、この規則的な移動は尋常ではありません。単なる偶然とは考えにくい。何者かが、特殊な薬剤のエアロゾルを散布したり、あるいは何らかの心理的暗示を与えたりして、善良な市民に罪を犯させている可能性を考慮すべきです」


私の突飛とも思える意見に、室内がわずかにざわつく。しかし、上司である梶原課長は、厳しい表情で腕を組んだまま、静かに私の目を見据えていた。

「神代巡査部長。君の仮説の裏付けを取ることを許可する。徹底的にやれ」

「はい!」

私は力強く頷き、席に戻った。この奇妙な事件の裏に隠された真実を、必ずこの手で暴いてみせる。そう、固く誓って。


捜査の糸口は、意外なほど簡単に見つかった。

課の総力を挙げ、発生地点周辺の膨大な監視カメラ映像をAIで解析した結果、興味深い事実が判明したのだ。すべての事件の直前、その現場のカメラに、必ず同じ男の姿が映り込んでいる。

モニターに大写しにされたその男は、異様だった。くすんだチャコールのシャツに、ライトグレーのパンツ。まるで周囲の色を吸い取ってしまったかのような、全身灰色の男。年の頃は五十代か、あるいはもっと上か。夕日に照らされたその顔には、すべてをあざ笑うかのような、悪意とも嘲笑ともとれる不気味な笑みが貼り付いていた。


「この男が、すべてのカギを握っている……」

私は確信した。この男こそが、文京区の善良な市民たちを狂わせている元凶に違いない。私はすぐさま、男の顔データを顔認証システムに登録し、都内全域の監視カメラネットワークと照合させた。

アラートが鳴ったのは、それから数時間後のことだった。システムが、男の現在地を特定したのだ。場所は、文京区後楽。東京ドームシティのすぐ近くだ。

私は一人、パトカーを飛ばした。逸る心を抑え、指定された雑居ビルの裏手にある、小さな公園へと向かう。そこに、男はいた。公園のベンチに腰掛け、灰色の服装で、やはりあの不気味な笑みを浮かべている。


私はゆっくりと男に近づき、警察手帳を示した。

「警視庁の神代です。少し、尋ねたいことがあります」

男はゆっくりと顔を上げ、私の目をじっと見つめた。その視線を受けた瞬間、刑事としての使命感が、目の前の男に対する本能的な畏怖によって急速に侵食されていくのを感じた。これは、私が知るどんな凶悪犯とも違う。理屈を超えた何かが、そこにいた。


「……それで、お嬢さん。どうしてこんなことをしたんだい?」

気がつくと私は、コンビニのバックヤードにある小さな事務所で、パイプ椅子に座らされていた。目の前には、腕を組んだ初老の店長が、困惑した表情で私を見下ろしている。彼の視線の先、テーブルの上には、一本のミネラルウォーターと、私の警視庁の身分証が置かれていた。

私が万引き……? 意味が分からない。私は代金を支払わずに、この水を店から持ち出そうとしたというのか。

混乱する私の脳裏に、先ほどの公園での出来事が、霞のかかった記憶として蘇る。


男に職務質問をかけた私。男は、私の言葉を遮るように、静かに、そして楽しそうに言ったのだ。

「人間も賢くなりましたね。昔は私のせいだと気づくこともなく、ましてや探し出すなどできなかったのに」

その声は、古井戸の底から響いてくるような、不快な音だった。男はゆっくりと立ち上がると、私の目の前に立った。そして、冷たい人差し指を、私の額にそっと触れた。


その瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ気がした。

「黄昏は良い。世界の輪郭が曖昧になって、こちらと、あちらの境界線が揺らぐ。私のような者にとっては、実に歩きやすい時間です」

男の声は、まるで夕闇そのものが語りかけているかのようだった。

「『魔が差した』とは、人間も実に上手いことを言います」

男の不気味な笑顔が、すぐそこにある。

「しかし、正しくはこう言うべきなんです」

男の声が、頭の中に直接響き渡る。

「――『魔に、刺された』とね」


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