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情報断食 [SF]

情報化社会で情報を絶つこと、それは浦島太郎になること

大学三年の秋、僕の一日はデジタル機器と共に始まり、デジタル機器と共に終わっていた。

朝はスマホのアラームで目覚める。SNSをチェックしながら朝食を済ませ、大学へ向かう電車の中でもスマホから目を離さない。授業ではタブレットでノートを取り、空き時間はまたスマホ。帰宅後はパソコンでレポートを書き、寝る前にベッドでスマホを見る。そして眠りにつく。

指先が紡ぎ出す無限の情報は僕に全能感と、それ以上の疲労を与えていた。


「田村君、顔色が悪いよ」

ゼミの友人に指摘されたのは、十月も終わりに近づいた頃だった。鏡を見ると、確かに顔は青白く、目の下には深いクマができていた。

最近、眠れない日が続いていた。ベッドに入ってもスマホが気になって仕方がない。気がつくと朝の四時、五時になっていることも珍しくなかった。首と肩は常に痛く、頭痛も頻繁に起こるようになっていた。

「ストレートネック症候群ですね」

大学病院の医師は、僕の首のレントゲン写真を見ながら言った。

「本来なら緩やかなカーブを描いているはずの頚椎が、真っ直ぐになってしまっています。長時間のうつむき姿勢が原因です。それに、睡眠障害の原因もおそらくブルーライトの影響でしょう」

診断書には「デジタル機器使用過多による心身症」と書かれていた。


そしてある日、僕は自室で倒れた。診断は重度の心身症だった。僕に下された処方は、半年間の入院と、一切のデジタル機器を遮断する「デジタルデトックス、情報断食」だった。スマートフォンも、タブレットも、パソコンも取り上げられ、僕は情報の海から強制的に引き揚げられた。

病棟は静かだった。面会の時間以外、発光するものは禁止。夜、窓を開けると、風と遠い電車の音だけが入ってきた。最初は落ち着かず、三日目で少し呼吸が軽くなる。看護師が笑って言った。

「それ、“情報断食ハイ”ですよ。脳に、余白が戻ってるんです」


僕が入院している間に、世界は音を立てて変わっていた。

「政府は本日、『デジタル機器安全法』を施行し、従来型のスマートフォンやタブレットの使用を来年一月末をもって全面禁止すると発表しました」

入院中の唯一の情報源である食堂のテレビでは、ニュースキャスターが深刻な表情で続ける。

「昨年度、デジタル機器の長時間使用による健康被害の治療費が国家予算の十パーセントを占めるまでに膨らんだことに加え、リチウムバッテリーの発火・爆発事故が年間三万件を超える事態を受けての緊急措置です」

画面には「さよなら、ポケットの中の爆弾」というキャッチコピーが映し出された。

「代替として導入される次世代デバイスは、革新的な設計となっています。液晶や有機ELなどの外部ディスプレイを用いず、網膜投影方式で表示するコンタクトレンズ型デバイスと、骨伝導技術を用いた超小型イヤフォンのセットです」

技術解説の映像が流れる。

「最大の特徴は、人間の体温だけで発電できる超省電力設計。バッテリーが完全に不要となり、発火や爆発のリスクは完全にゼロです。さらに、充電という概念そのものが過去のものになります」

僕は首を振った。入院中で良かった、と思った。このタイミングなら、退院後に落ち着いて新しいデバイスに慣れればいい。

年が明けて、政府のキャンペーンはより激しくなった。テレビでは連日、従来機器の危険性を訴える映像が流れ、新デバイスの素晴らしさがアピールされていた。

「体温で動く、未来のデバイス」

「バッテリーゼロ、リスクゼロ」

「あなたの健康と安全のために」

専門家のコメントも繰り返し流された。

「従来のリチウムバッテリーは高温で発火するリスクがありました。しかし体温発電技術なら、36度程度の低温で安全に動作します。製造コストも液晶ディスプレイが不要なため、従来の十分の一以下に抑えられています」


高価な液晶も不要なため、政府は全国民に無償で配布した。

何より、その移行をスムーズに進めさせたのは、老眼や近視に悩む人々からの圧倒的な支持だった。自身の視力に関係なく、常にクリアな情報が視界に浮かび上がるコンタクトレンズ型デバイスは、多くの人々にとって福音だったのである。

十二月末、遠くから流れるクリスマスソングを聞きながら、僕はまだ病院のベッドにいた。


世界は、より安全で、より快適な未来へと、静かに、そして着実に移行していった。一月の中旬を過ぎた頃、ようやく退院の日がやってきた。

「田村さん、これまでお疲れさまでした」

看護師の佐藤さんが、入院時に預けた荷物を返してくれた。スマホ、タブレット。半年ぶりに見る愛用の機器たちだった。

「それから、これもお渡しします」

小さなパンフレットを手渡される。表紙には「次世代デバイス移行のご案内」と書かれていた。

「詳しくはパンフレットに書いてありますので、必ずお読みください」

僕はタブレットと共にパンフレットをカバンに突っ込んだ。

帰りの電車の中、僕は貪るようにスマートフォンの画面を滑らせた。失われた半年間を取り戻そうと必死だった。指先に感じるガラスの感触、目に飛び込んでくる鮮やかな色彩。それらのすべてが僕を安心させた。

ふと顔を上げると、自分の周りだけ、ぽっかりと空間が空いていることに気づいた。他の乗客たちは、まるで危険物でも見るかのように、僕から距離を取っている。だが、僕はそれを気にも留めなかった。再び情報の海に潜った僕は、周りの世界の些細な変化など、もう見えていなかった。



退院から一週間が過ぎた、ある日の午後だった。スマホの画面に見慣れない表示が現れた。

『サービス停止のお知らせ:法令により、本端末でのサービス提供を停止いたします』

電話もメールも、インターネットも使えない。ただの文鎮と化したスマホを握りしめ、僕は携帯ショップへ駆け込んだ。

「申し訳ございませんが、従来型デバイスのサポートは一月末で終了しております」

店員の女性は申し訳なさそうに言った。

「次世代デバイスへの移行はお済みでしょうか?」

僕は慌ててカバンからパンフレットを取り出した。そこには衝撃的な文言が並んでいた。

『移行期間:一月一日~一月三十一日』

『期間内にアクティベーションを完了しなかった場合、セキュリティ上の理由により、当該デバイスは永久にネットワークから隔離されます』

「僕はその期間、入院していて……」

「恐れ入りますが、例外措置はございません。期限を過ぎたデバイスのアクティベーションは、システム上不可能となっております」

店員は困った表情を浮かべた。

「体温発電技術は、個人の生体情報と完全に同期しています。セキュリティ上、一度期限を過ぎると、二度とアクセスできない仕組みになっているんです」

「でも、バッテリーも液晶もないなら、そんなに高価じゃないでしょう?新しく作ってもらえませんか?」

「製造コストは安いのですが、個人認証システムがとても厳格なんです。生体情報、DNA、脳波パターンまで登録済みのデータベースと照合しますので……」

店員は申し訳なさそうに首を振った。

「今後は、ご自宅の固定回線でのインターネット利用は可能です。携帯型のデバイスはご利用いただけません」

僕は呆然とした。スマホを握りしめたまま、店の外に出た。

街を歩く人々は皆、空中を見つめている。コンタクトレンズ型デバイスの投影像で何かを見ているのだろう。時々、空中に指を動かして操作している。電車で見た老人も、若者も、全員が同じように空中の何かを見つめていた。

僕だけが、使えないスマホを手に、一人で立っていた。

家に帰り、久しぶりにデスクトップパソコンの電源を入れる。インターネットには繋がった。でも、それだけだった。外出先では、僕は完全に情報社会から切り離されている。

デスクトップパソコンの画面を見ながら、ふと思う。

病院で渡された“浦島太郎の玉手箱”――それは、あのパンフレット。僕は開けなかった。開けていれば、白い煙の代わりに、電池のいらない未来が指先に戻ってきたのだろう。

玉手箱を開けた浦島太郎は、一瞬で老人になった。

玉手箱を開けなかった僕は一瞬で、情報化社会の化石になった。

情報断食は完璧に成功した。永遠に。

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