クーリングシェルター [ホラー]
猛暑の中、クーリングシェルターに避難してくるのは人間だけとは限りません
「地球温暖化」という言葉が、どこか牧歌的に響く時代があったらしい。十数年前の古いニュース映像を見ると、専門家が神妙な顔で「このままでは危険です」と訴えている。その「危険」が現実となった今、我々はそれを「地球沸騰化」と呼んでいた。
2040年、東北。かつて冷涼な避暑地として知られたこの街も、今は例外ではない。
シェルターの制御モニターに表示された外気温は、51℃。窓の外ではアスファルトが陽炎でぐにゃりと歪み、街を流れる川はまるで巨大な温泉のように湯気を上げていた。今朝のニュースでは、水温が上がりすぎて茹で上がった川蟹が岸に打ち上げられていると報じていた。もはや、屋外は生物の生存を許さない灼熱地獄だ。
政府が各市町村に設置したクーリングシェルターは、そんな世界で人々が生き延びるための最後の砦だった。俺、涼介の職場でもあるこの箱舟は、夜間も気温が下がらなくなったため、24時間開放されている。
「涼介さん、お疲れ様です」
声をかけてきたのは、ユキさんだった。ここ一ヶ月、毎日シェルターに避難してくる若い女性だ。真夏だというのに、彼女はいつも涼しげな水色のワンピースを着て、汗ひとつかいていない。透けるように白い肌が、人工的な照明を浴びて青白く光って見えた。
「ユキさんも、毎日大変ですね」
「いえ。私、本当に暑いのが苦手で……。この場所がなかったら、どうなっていたか」
そう言って儚げに微笑む彼女は、いつしかシェルターの常連たちの人気者になっていた。ぐずる子どもをあやしたり、お年寄りの話し相手になったり。彼女がいるだけで、無機質な避難所の空気がふわりと和らぐ気がした。
彼女のお気に入りの場所は、避難者向けに冷たい飲料を保管している、巨大なウォークイン冷蔵庫の前だった。強力な冷却ファンが唸りを上げるその前で、彼女はいつも気持ちよさそうに目を細めている。
その日は、観測史上最悪の熱波が街を襲った。電力需要が限界を超え、けたたましい警告音と共に、シェルターの主電源が落ちた。非常灯が灯り、生命線である空調が、ぷつりと音を立てて止まる。
閉鎖された巨大な箱舟は、あっという間に蒸し風呂へと変わった。外の熱が壁を伝い、じりじりと室内を灼いていく。
子どもが一人、急に泣き出し、すぐに泣く元気もなくなる。高齢者の一人が、椅子にもたれたまま目を閉じた。
「服を緩めて!冷却ジェル!」
俺は走った。冷蔵庫から経口補水液の箱を引き出し、氷嚢を配る。だが室温の数字は堰を切ったように跳ね上がる。三十分で31℃、32℃、33℃。
人々の悲鳴と呻き声が響く中、特に体力の弱いお年寄りや子どもたちが、次々とその場に崩れ落ちていく。俺も必死に走り回るが、灼熱の前には無力だった。
熱気に喘いでいたユキさんが、倒れた子どもの姿を見て、何かを決意したように静かに立ち上がった。
「……ごめんなさい。皆さんから頂いた冬、お返しします」
凛とした声が響いた瞬間、彼女の体が淡い光に包まれた。水色のワンピースが、みるみるうちに雪のように真っ白な和服へと変わっていく。その姿は、まるで古い絵物語から抜け出してきたようだった。
彼女がすぅっと息を吐くと、それは美しい吹雪となってシェルターの中を舞い始めた。人々の汗ばんだ肌を、奇跡のような冷気が撫でる。灼熱の空気は急速に温度を失い、泣きじゃくっていた子の肩の上下がゆっくりと落ち着き、高齢者が目を開ける。
直後、設備担当が叫ぶ。「復旧した!空調、戻る!」風の質が変わる。シェルター内は安堵の溜息に満たされた。
だが、奇跡を起こした彼女は、その場に崩れ落ちていた。力を使い果たし、体が陽炎のように揺らいでいた。
シェルターにいた誰もが、目の前の出来事を、そして彼女の正体を悟ったように見えた。恐怖はなかった。あったのは、畏敬と、感謝の念だけだった。
「雪女様じゃ……」「わしらを助けるために……」
常連のタエおばあちゃんが叫んだ。
「みんな、何してる! はやくこの子を一番冷たい場所に運んでやんねば! いつもあの子が涼んでた、あの冷蔵庫さ!」
人々は協力し、衰弱した雪女をウォークイン冷蔵庫の中へと静かに運んだ。分厚い扉が閉められる。まるで、冬の眠りにつく生き物を見守るように、誰もがその扉をじっと見つめていた。
数時間後。俺が恐る恐る扉を開けると、ユキさんは静かに意識を取り戻していた。まだ青白い顔だったが、その姿はもう透けてはいなかった。
「……ここ、好きです」
「よかった。ここは、涼しいを守る場所だから」
一週間後。
シェルター内を、少し不器用そうに青いスタッフジャケットを羽織ったユキさんが巡回していた。俺が所長に頭を下げ、前例のない手続きを押し通した結果だ。
人々は笑顔で見ていた。誰も彼女の正体を口に出さなかった。
「ユキお姉ちゃん、今日も涼しいね!」
子どもたちが彼女の周りにまとわりつく。ユキさんは困ったように、でも、心から嬉しそうに微笑んだ。そして、そっと伸ばした指先からキラキラと光る小さな氷の結晶を一つ、子どもの手のひらに乗せてあげ、小さく微笑んだ。その笑い声は風鈴のように短く、空調の音にすぐ溶けた。
地球が沸騰しようとも、人と人ならざる者が寄り添えば、こんなにも優しい涼しさが生まれる。俺は、灼熱の世界に生まれたささやかな奇跡を、少しだけ誇らしく思いながら見守っていた。