原始の恐怖 [ホラー]
「喜怒哀楽」人の基本的な感情とされています。では「恐怖」もその一つでしょうか?
心理学者の高遠が学会で「恐怖原論」を発表した時、会場は失笑と憐憫の空気で満たされた。彼の理論は、こうだ。
喜、怒、哀、楽。それらは個人の認知、つまり育った環境や価値観というフィルターを通して生まれる、いわば後天的な感情だ。何に喜び、何に怒るかは人それぞれ違う。
だが、「恐怖」だけは違う。それは全人類の遺伝子に刻まれた、普遍的で、絶対的な反応だ。心拍数を上げ、五感を研ぎ澄ます「闘争・逃走反応」は、生存のためのシステム。高遠は、そのスイッチを入れる「原始の恐怖」とでも呼ぶべき対象が、今もどこかに存在すると信じていた。オオカミやライオンといった捕食者ではない。文明の光が届かぬ僻地でさえ、人々は夜の闇に「何か」を恐れる。その「何か」こそが、探求の対象だった。
学会での孤立は、彼のライフワークを加速させた。文献を渉猟し、古代の伝承を解析し、ついに彼は一つの座標を特定する。だが、心理学者にフィールドワークの経験はない。高遠は旧知の仲である、民俗学者の笹部に頭を下げた。
「笹部君、笑うだろうが」
「もう笑ったよ、学会でな。だが、君の狂気は嫌いじゃない」
笹部は、面白がるように調査計画に乗ってくれた。
高遠は地図を広げた。「この地域に、原始の恐怖が眠っている」
笹部は地図を見つめた。確かにその場所には、調査されていない古代遺構の噂があった。地元の人々が今でも避ける忌み地として知られている。
数ヶ月後、彼らは数人の学生を連れ、原始の恐怖が眠っていると思われる忌み地を目指していた。
山道を進むにつれて、学生たちの様子がおかしくなった。
「先生、息が...」一人の学生が立ち止まった。顔面蒼白で、手が震えている。
「俺も動悸が」別の学生も座り込んだ。
笹部は慌ててカバンから精神安定剤を取り出した。「これを飲め」
しかし薬を服用しても、震えは止まらない。むしろ症状は悪化していた。
「おかしい」笹部が呟いた。「普通なら効くはずなのに...」
そして笹部自身も青ざめた顔で高遠を見た。
「俺も震えが止まらない」
「ああ、俺もだ」高遠は答えた。
彼らは目的地に近づいていた。
洞窟の入口に近づくにつれ、異変が起きた。屈強だった学生の一人が、突然膝から崩れ落ち、激しく嘔吐した。別の学生は、何かに怯えるように虚空を見つめ、意味のない言葉を叫び始める。動悸、震え、過呼吸。パニック発作の典型的な症状が、次々と伝染していく。
「これが……高遠の言っていた……」
息を切らしながら、笹部が呟く。高遠自身も、心臓を氷の指で鷲掴みにされたような圧迫感に襲われていた。それでも、彼は進んだ。恐怖の正体を、この目で見届けるために。
洞窟の最深部は、信じがたいほど広大な空間だった。そして、その中央に「それ」はいた。
影そのものが意志を持ったような、輪郭の定まらない巨大な何かが、静かに鎮座していた。恐怖で思考が凍りつく。
「それ」は、矮小な人間たちを見下ろし、静かに語りかける。
「我は境界の警告なり」
いや、声ではない。直接、脳に響く思念だった。
「人の群れに寄り添い、危険の境界を嗅ぎ分け、群れを死滅の崖から遠ざける者」
高遠は膝をついた。隣の笹部も同じだった。これが求めていたものだった。原始の恐怖。
しかし、それは人間に害をなすものでは無かった。人類を守る古い番人。
「今はまだその時ではない」
存在は静かに言った。
「我が真に目覚める時は、人の群れが死の行進を始めた時」
そして、存在は再び静寂の中に沈んだ。
思念と共に、凄まじい圧力が消えていく。「それ」は再び深い眠りにつこうとしていた。封印されていたのではない。自らの意思で、悠久の時を眠っていたのだ。
高遠の中で、内臓が凍るような「畏怖」が、いつしか神の御前に立つような「畏敬」の念へと変わっていくのを彼は自覚した。
「この調査結果は、発表すべきでないな」
洞窟からの帰り道、高遠が呟くと、笹部も回復した学生たちも無言で頷いた。
あれから、十五年の歳月が流れた。
世界は、「それ」が危惧した通り、死滅の崖へと突き進んでいた。資源、宗教、領土。多様な原因で大小さまざまな戦争が多発し、ニュースは毎日のように憎しみを煽り立てた。
それに伴い、奇妙な現象が世界各地で報告されるようになっていた。原因不明の集団パニック発作。兵士が、市民が、指導者までもが、前触れなく何かに怯え、恐慌状態に陥るのだ。
ある夜、高遠のスマートフォンが鳴った。笹部からだった。
「高遠、ニュースを見ているか。世界中で起きている、あのパニック発作……」
笹部の声は、十五年前と同じ緊張を帯びていた。
「ひょっとすると、我々が見た『あれ』は、あの場所だけじゃない。世界各地に眠っていて、いま、一斉に目覚めようとしているんじゃないか?」
高遠は、通話を続けながら、書斎の壁に貼られた世界地図を一瞥した。
そこには、ユーラシア大陸の奥地、アフリカの巨大な地溝帯、南米の未踏峰、そして深い海の底を示す場所に、無数の虫ピンが刺してあった。
あの後も、彼は独り、世界各地の同様の場所を調査し続けていたのだ。
高遠は、旧友の問いに、静かに、そして全てを悟ったように答えた。
「ああ、そうだな」