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薄い社訓 [コメディ]

AIが普及した現代のオフィスで繰り広げられる、SE出身の新人営業と体育会系部長の静かなる攻防戦

「売上げ100%UP、顧客満足度100%、目標達成率100%!」

朝八時半。営業フロアに響く大声と共に、今日も地獄の朝礼が始まった。

どこにでも転がっていそうな、薄い社訓だった。

「声が小さい! いいか諸君、これはただの言葉じゃない! 我々の魂だ! いついかなる時も、どんな仕事の中にも、この精神を忘れるな!」

営業部長の田中部長は、胸を張って拳を振り上げる。四十代後半、体育会系のノリで部下を鼓舞するのが彼の流儀だった。

「はい!」

営業部員たちの声が揃う。その中で一人だけ、小さく口を動かしているだけの男がいた。僕、佐藤健一、三十二歳。三ヶ月前にSEから転職してきた中途採用の新人営業だった。


SEから営業職に転職し、この体育会系のノリに放り込まれて三ヶ月。僕は無感動にその光景を眺めていた。僕のPCの壁紙は、他の営業部員と同じく、社訓が書かれた刷り込みを目的とした画像に強制的に変更されている。

非合理。この空間を支配しているのは、ただの精神論だ。


朝礼が終わると、田中部長は僕の席に歩み寄る。

「佐藤、君の声が聞こえないぞ。気合いが足りない」

「申し訳ありません」

僕は頭を下げたが、内心では溜息をついていた。システムエンジニア時代、論理的思考と効率性を重視してきた僕にとって、この体育会系のノリは苦痛でしかなかった。


「佐藤、お前のやり方は、血が通ってない」

田中部長は僕を露骨に嫌う。体育会系の匂いのする言葉で、僕のやり方を刺す。

「営業は汗だ。汗の量が売上げを連れてくるんだよ」

そして、こちらの事情を無視した数字を平然と渡す。

「今月は倍。クォーターで三倍。他の営業より、多少多いが、IT技術を使えるんだから楽勝だろう?」

無茶な数字だった。通常の営業なら五件が精一杯の目標を、倍に設定されたのだ。

それは、命令という名の宣戦布告だった。

「承知いたしました」

しかし僕は冷静だった。僕には秘策があった。SE時代に開発した商談管理システムを社内AIを活用してカスタマイズし、営業活動に活用するのだ。効率的なアプローチリストの作成、商談進捗の可視化、最適なタイミングでのフォローアップ……

IT技術は確かに魔法ではないが、適切に使えば強力な武器になる。

営業部は体育会系の精神論だが、この会社自体のDX志向は高い、社員が利用できるAIを使えばカスタマイズはとても容易なことだった。

結果はすぐに現れた。僕の営業成績は部内トップに躍り出た。


田中部長は複雑な表情を浮かべていた。僕を毛嫌いしつつも、僕が作成したワープロや表計算のテンプレは有用で、他の部下にも使わせていた。僕の名前は消え、テンプレだけが独り歩きする。

そして、僕がある意図を持って作ったテンプレが営業部に浸透していった。

皮肉なことに、部全体の業績向上に名前が消えた誰かさんの貢献は不可欠だったのだ。


僕の営業成績が急上昇したことを気に入らない田中部長は、次なる嫌がらせを思いつく。

「佐藤、君にはもっと詳細な営業報告書を作成してもらう。優秀な君の営業ノウハウの部内での共有が目的だ。」

田中部長は不敵な笑みを浮かべて言った。

「毎日の商談内容、顧客の反応、競合他社の動向、市場分析……全て詳細に記録したまえ。A4で二十ページ以上は必要だ」

明らかに嫌がらせだった。人間が毎日読むには膨大すぎる分量の報告書を要求することで、僕の営業時間を削ろうという魂胆が見え見えだった。

「承知いたしました」

僕は淡々と答えた。実は、僕は商談の全てをデータベースに記録していた。顧客情報、商談履歴、競合分析、さらには、GPSによる移動ログ、顧客打合せの音声データといった全ての情報が構造化されたデータとして蓄積されている。

元SEの僕にとって、このデータを生成AIが読み取れる形式に変換することは朝飯前だった。

「要件定義、ご苦労様です」

僕は心の中で舌を出した。

翌日から、僕は田中部長の要求通りの報告書を提出し始めた。毎日三十ページを超える膨大な文書。商談の一言一句、顧客の表情の変化、競合他社の価格情報までが、分刻みに事細かに記録された報告書。人間が精査できる量ではないが、虚飾はない。

ただし、僕は巧妙な落とし穴を仕掛けた。最初の一枚の「要約」にだ。

営業部内では軽んじられているが、経営陣の会議では必須な情報のみを意図的に『鋭意対応中』『改善の見込みあり』といった抽象的な表現にとどめた。

もちろん、報告書の細部まで読み込めば分かる内容だ。



月末の経営陣との会議で、田中部長は馬脚を現した。

「田中部長、今月の営業状況はいかがですか?」

経営会議の席での、社長の質問に、田中部長は口ごもった。三十ページ以上ある報告書の要約ページ以外は読んでいなかったのだ。

「え、えーと……順調に進んでおります」

「具体的にはどの程度でしょうか?」

「それは……佐藤から詳細な報告を受けておりますが……」

とんちんかんな答弁を繰り返す田中部長を見て、社長の表情が曇った。


「佐藤、いいニュースがある」

一週間後、田中部長は得意げな表情で僕を呼び出した。

「ITに詳しい山田から教えてもらったんだが、AIに文書を要約させる方法があるらしいな。君の長ったらしい報告書も、これで一発で理解できる」

田中部長は新しく導入したAI要約ツールを自慢げに使って見せた。山田は営業部で唯一、多少のIT知識を持つ部員だった。

「そうですか、それは便利ですね」

僕は表面上は驚いたふりをしたが、内心ではほくそ笑んでいた。むしろ、田中部長がAIを使い始めることを待っていたのだ。なぜなら、コンピュータの世界は僕の領域、自分の庭だったから。


そして、運命の経営会議が再びやってきた。

田中部長は、AIが弾き出した完璧な要約を手に、意気揚々と報告を始める。

「A社の件ですが、我が社の『顧客満足度100%』の精神で対応し、見事、契約継続に至りました! これは、年度目標である『売上げ100%UP』に向けた確かな一歩であります!」

実際のデータを知っている役員たちが、怪訝な顔で顔を見合わせる。A社は契約を継続したものの、予算は縮小されたはずだ。

社長が冷静に問う。「田中部長、A社の予算が縮小された件については、どう捉えているのかね?」

「はっ! それは些細な問題です! 我々の情熱と『目標達成率100%』の精神があれば、必ずや倍にして取り返せます!」

田中部長は、AIの要約にはない情報を、自らの精神論で補って見せた。

しかし、その姿はもはや「報告が不正確な人物」ではない。現実と社訓の区別がつかず、具体的な数字から目をそらす「現実が見えていない人物」として、役員たちの目に映っていた。

会議室の空気は、前回よりもさらに冷え込んでいた。


営業部からのAIで要約された内容が、微妙に上振れする原因の特定には三日を要した。

情報システム部の詳細な調査により、ついに原因が判明したのだ。営業部が作成する全ての文書に、透明度99%に設定された社訓が背景として使用されていたのが原因だった。

「売上げ100%UP、顧客満足度100%、目標達成率100%!」

この文字列が、営業部が作成した報告書の全ページに繰り返し埋め込まれていた。

そう、僕が作成したワープロや表計算のテンプレを利用した報告書だ。

AIは反復される情報を重要度の高いデータとして認識する。結果として、社訓を実際の営業実績として解釈してしまったのだ。

情報システム部は最初、AIのハルシネーションだと考えた。しかし、その手口があまりにも巧妙かつ意図的であることに気づくと、驚愕に変わった。これは単なる嫌がらせではない。AIのPDF文書認識と文脈判断の脆弱性を突いた、高度なハッキング行為だ。彼らは調査結果を、単なる「いたずら」ではなく、「特筆すべきセキュリティ・インシデント」として社長に報告した。


「佐藤君、社長室まで来てもらえるか」

ある日の夕方、僕は社長に呼び出された。

その時には、僕は最後の仕込みを終えていた。イントラに掲載された『社訓の取り扱いについて』。広報が用意した公式の文書だ。採用パンフと統一するため、どの資料にも入れてほしい……そう書いてあった。

重厚な社長室に足を踏み入れると、社長と情報システム部の部長が待っていた。

「君がやったのか?」

社長の問いに、僕は落ち着いて答えた。

「田中部長のご指示でした。『社訓をいついかなる時も忘れるな』とおっしゃったので、常に意識できるよう背景に設定させていただきました」

「さらに、イントラに掲載された『社訓の取り扱いについて』で、どの資料にも取り入れるようにと通達があったので……」


完璧な言い訳だった。いや、それはもはや言い訳ですらない。田中部長自身の言葉と、広報の通達を根拠とした、一つの「事実」だった。

真顔で答える僕に、数秒の沈黙の後、社長は、こらえきれないといった様子で、腹を抱えて大笑いした。

情報システム部長は、呆気に取られている。

「はっはっは!田中のやつ、まんまと自分の言葉に引っかかったのか!」

情報システム部の部長も苦笑いを浮かべている。

「佐藤君、君のような発想の転換ができる人材を探していたんだ」

社長は立ち上がると、僕の肩に手を置いた。

「情報システム部で偽情報セキュリティの担当をしてもらいたい。システムの脆弱性を突く攻撃に対する防御策を研究する部署だ。君の能力なら適任だろう」

僕は深く頭を下げた。

「ありがとうございます」

翌日、僕の机には辞令が置かれていた。営業部を離れ、情報システム部への異動が決定していた。

田中部長は最後まで、自分がなぜAIに騙されたのか理解できずにいた。朝礼での「いついかなる時も忘れるな」という自分の言葉が、まさか自分の首を絞めることになるとは夢にも思わなかった。

新しい職場で、僕は充実した日々を送っている。システムの脆弱性を研究し、企業を守る仕事。僕の論理的思考と技術力が、ようやく正当に評価される場所を見つけたのだった。

そして今日も、営業部では朝礼が続いている。

「売上げ100%UP、顧客満足度100%、目標達成率100%!」

田中部長の声だけが、空しく響いていた。

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