表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/31

タイムパフォーマンス [ヒューマンドラマ]

No Free Lunch定理:どのような最適化アルゴリズムも、ある問題で高い性能を発揮すれば、別の問題では必ず性能が低下する。万能なものは、存在しない。

大学受験は、時間との戦いだ。

高3の夏、模試でE判定を食らった僕、健太は悟った。残された時間で凡人が逆転するには、常軌を逸した効率化、すなわち「タイパ、タイムパフォーマンス」を極めるしかない。

きっかけは、動画サイトで見つけた勉強法の動画だった。「東大生が実践する究極の時間術」というタイトルに惹かれてクリックすると、そこには別世界があった。1分1秒を無駄にしない、完璧にデザインされた生活。僕の心臓は高鳴った。これだ。これが僕に足りなかったものだ。

僕は、自分の時間をF1マシンみたいにチューンナップするエンジニアになった。

参考書は電子化し、AIに要約させた「出題可能性Aランク」の箇所だけを反復学習する。

予備校の講義動画は3倍速が基本。最初は聞き取れなかった音声も、やがて脳が最適化され、意味の塊として直接流れ込んでくるようになった。

お風呂では防水スピーカーで英語のリスニング、ドライヤーをかけながら古文の単語帳をめくる。

食事は栄養調整ゼリーを1分で流し込み、咀嚼する時間すら惜しんだ。これは食事ではなく、燃料補給だ。

分刻みのスケジュール帳は、僕の聖書になった。朝6時起床、6時5分洗顔、6時8分朝食、6時15分英単語100個……。

成果はすぐに出た。秋の模試では判定がBまで跳ね上がった。

「見たか。これがタイパの力だ」

僕は快感に打ち震えた。もっとだ。もっと効率化できるはずだ。


その日から、僕の探求はさらに深化した。

睡眠すら、タイパ向上の対象だった。

「睡眠の質を最適化すれば、学習効率は20%向上する」――その記事を信じ、最適な寝具とパジャマの素材を調べるのにネットサーフィンで3時間を費やした。

特殊な周波数の音源で入眠までの時間を短縮し、脳波を測定するヘッドバンドで、最も記憶が定着するとされる「ノンレム睡眠」の割合を管理した。

気がつけば、僕の部屋には「タイパ向上術」「秒速思考法」「脳のハック」といったタイトルの本が積まれていた。

でも僕は、これを未来への投資だと信じて疑わなかった。最高の計画こそが、最高の結果を生むのだから。


ある日、幼馴染の亮太がLINEで「最近どう?今度みんなで集まらない?」とメッセージを送ってきた。僕は画面を見つめて数秒悩んだ。亮太との思い出が頭を過った。小学校の頃、一緒にゲームをして夜更かしした日々。中学で同じ部活に入って、大会で負けて一緒に泣いた夜。

でも、今の僕にそんな時間はない。

「要件を先に頼む。雑談の時間はない」

送信ボタンを押した瞬間、胸の奥に小さな痛みが走った。でも、すぐにそれを振り払った。これは必要な犠牲だ。今は勝負の時なんだ。


友人たちが「最近、顔色悪いぞ」と心配する声も、母親が「たまにはちゃんとご飯を食べなさい」と嘆く声も、僕の耳にはノイズにしか聞こえなかった。

冬のある朝、階段で視界がふっと暗くなった。

次の瞬間、手すりが頬に当たり、星が散った。

母親が「休みなさい」と言った。僕は「一日休むのはタイパが悪い」と答えた。


そして、運命の大学入試当日。

僕は自らが立てた完璧なスケジュール通りに会場に向かった。電車の中で軽い動悸がしたが、緊張のせいだろう。これまでの準備が、全て報われる時が来たのだ。

試験会場の僕は、完璧にチューニングされたマシンだった。

数学、現代文、古文、英語。全ての問題が、まるで僕を待っていたかのようにスムーズに解けた。3倍速で鍛えた集中力、ゼリーで軽くなった胃、完璧に調整された生体リズム。全てが最高のパフォーマンスを支えてくれた。

「やった。やったぞ!」

試験会場を出る時、僕の心は勝利の確信で満たされていた。


合格発表の日。自分の受験番号が、満開の桜のように誇らしく掲示板に咲いていた。僕はガッツポーズもせず、ただ静かに頷いた。当然の結果だ。僕のタイパ戦略は、完璧だったのだ。


その帰り道だった。

駅のホームで電車を待っていると、突然、世界から音が消えた。視界がぐにゃりと歪み、立っているはずの地面の感覚がなくなる。轟音のような耳鳴りの後、僕は糸が切れた人形のように、コンクリートのホームに崩れ落ちていた。


次に目を覚ました時、僕の目に映ったのは、見慣れた自室の天井ではなく、染みひとつない白い天井だった。鼻につく消毒液の匂い。腕には点滴の管が繋がれている。


「目が覚めたかね」

白衣を着た初老の医師が、僕の顔を覗き込んでいた。

「君、ひどい栄養失調と、慢性的な睡眠不足による自律神経の失調だ。心筋にもダメージが見られる。不整脈もある。よく今まで倒れなかったもんだ。これだけ身体を痛めつけたら、元に戻すのには時間がかかるよ」

頭の中が真っ白になった。

僕はぼんやりとした頭で、医師の言葉を聞いていた。

「……時間は、どのくらい、かかりますか?」

「そうだねえ。まずは3ヶ月の入院と、その後の通院とリハビリ。完全に本調子になるには、まあ、最低でも一年は見た方がいいだろうね。大学、一年間は休学することになるだろうな」


「でも、僕は合格したんです。効率化は成功したんです」

「君の体は、この1年間、少しずつ壊れ続けていたんだ。今すぐ治療を始めないと、将来的にもっと深刻な問題が起こる可能性がある」

母親は小さくうなずいて、「しばらく、休みなさい」と言った。

僕は口を開きかけた。“一日休むのは——”

声は出なかった。代わりに、喉の奥で小さな空気が砕けた。

ピットインしたままのF1マシンに、交換用の部品はない。あるのは時間だけだ。


翌日の夕方、幼馴染の亮太が来た。

ドアをノックして、紙袋を差し出す。

「たい焼き。冷めるけど、うまいよ」

僕は笑ったつもりだった。

「噛む時間が、無駄で」

亮太は目を丸くして、それから笑って、椅子に腰掛けた。

「無駄は、いつも悪いとは限らないよ」

亮太は自分のたい焼きを小さくちぎって、ゆっくり噛んだ。心電図のピッ、ピッという音が、少しだけ柔らかく聞こえた。


夜、看護師さんがノートを渡した。

「退院に向けて、リハビリの計画よ。焦らなくていいからね」

「これ、効率悪いです。もっと詰められます」

気づけば、僕はそう言っていた。

看護師さんは笑って首を振った。

「回復の速度は、体が決めるの。ここは一倍速しか使えないところなのよ」


窓の外では、桜が咲き始めていた。僕が入学するはずだった大学の、新入生歓迎の季節だった。

ベッドサイドのテーブルに、合格通知書が置かれている。

1年間で僕が手に入れたもの:第一志望校の合格。

1年間で僕が失ったもの:健康な体と、大学生活の春。

タイパ。時間対効果。

僕は確かに時間を短縮した。勉強時間を最大化し、志望校に合格した。

でも、人生の時間そのものを、大幅に無駄にしてしまったのかもしれない。

点滴の針を見つめながら、僕は初めて気づいた。

最も効率的なのは、健康でいることだったのかもしれない、と。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ