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終末(さいご)の晩餐 [ホラー、SF]

終末のデストピアが視点を変えることでユートピアに変化する物語

今日もまた、お腹いっぱい食事ができる。

私は感謝の気持ちを込めて、そっと手を合わせた。温かな肉の味が口の中に広がる。ああ、なんて幸せなことだろう。あの頃を思えば、これは奇跡としか言いようがない。

あの頃——人類が百億人を超え、地球が悲鳴を上げていた時代のことを、私たちは「デストピア」と呼んでいた。


「食料危機の解決策が見つかりました」

政府の発表に、世界中が沸いた。人口増加に食料生産が追いつかず、飢餓で苦しむ人々が日に日に増えていた時代。

そんな絶望の淵に垂らされた一本の蜘蛛の糸、それが「代謝適正化ワクチン」だった。

政府はあらゆるメディアを使って喧伝した。「人類の新たなる夜明け」「飢餓からの完全なる解放」。そのワクチンを接種すれば、基礎代謝が劇的に改善され、ごくわずかなカロリーで生命活動を維持できるようになるという。それは、人類にとって紛れもない福音のはずだった。

しかし、希望は強制だった。ワクチン接種を拒否する者には、食料配給が停止される。事実上の強制接種。選択肢など、最初からなかったのだ。

私も列に並んだ。長い、長い列だった。百億人が同じ列に並んでいるような錯覚に陥るほど。

「少し痛みますが、すぐに終わります」

看護師の優しい声と共に、針が腕に刺さった。冷たい消毒液の匂い、機械的な注射針の感触。私の腕に注入された液体が、未来への希望なのか、それとも抗えぬ運命の烙印なのか、その時の私には知る由もなかった。


ワクチンの効果は、すぐに現れた。いや、現れすぎてしまった。

街の景色が一変した。人々は皆、まるでスローモーション映像のように、ノロノロと緩慢な動きしかできなくなったのだ。「代謝適正化」の正体は、生命活動に必要なエネルギーを極限まで抑えるため、代謝そのものを強制的に停止させるというとんでもない代物だった。心臓の鼓動は遅くなり、思考は鈍化し、全身の筋力は著しく低下した。


「まるでゾンビみたいね」

誰かがそう呟いたのを聞いたことがある。その時は笑って済ませたが、今思えば、それは予言だった。

筋力は日に日に衰えていく。ペットボトルの蓋を開けるのさえ一苦労。それでも、食事の量は確実に減っていた。ワクチンは効いているのだ、そう自分に言い聞かせた。


だが、私を襲ったのはそれだけではなかった。そう、副反応が始まったのだ。

高熱。体温計の数字が40度を超えても、まだ上がり続ける。全身の筋肉が激痛で悲鳴を上げ、関節という関節が火を噴いているようだった。

「大丈夫、一時的な症状です」

医師は、街の人達と同じノロノロとした動作で診察していた。

自宅に帰った私は、痛みに耐えきれず意識を失った。最後に見たのは、窓の外をゆらゆらと歩く人々の姿だった。本当に、ゾンビのようだった。


目を覚ました時、世界が変わっていた。

痛みはなくなっていた。熱も下がっている。だが、何かがおかしい。

心臓の鼓動が、異常に遅い。トクン……トクン……まるで思い出したように動く緩慢なリズム。冷たい指先で体温計を操作するが、室温とほとんど変わらない体温を測ることは出来なかった。

私は生きていたのだと思う。しかし、その姿は――生者のものではなかった。

鏡に映っていたのは、確かに私だった。だが、肌は青白く、瞳孔は拡張し、まばたきの回数も極端に少ない。

しかし、ワクチン接種前と変わらぬ俊敏な動き。

そして、強い空腹感。これまで感じたことのないような、強烈な飢餓感が腹の底から湧き上がってくる。

冷蔵庫に残っていた配給のゼリーを飲み込み、栄養ドリンクを口に運んだ。だが、満たされない。むしろ、より一層空腹感が増していく。

何かが違う。私の体が求めているのは、これじゃない。

窓から外を見る。そこには、ゆっくりと歩く人々の群れがいた。

彼らもワクチンを接種したのだろう。動作はのろく、まるでゾンビのように、ふらふらと、歩いている。いや、歩いているというより、漂っている。みんな同じように青白い顔をした群れが、ゆっくりと動いている。

そして、私にはその姿が――“美味そう”に見えた。

新鮮で、柔らかそうで、何より——狩りやすそうに見えた。

彼らは「代謝適正化ワクチン」により、動きが鈍くなっている。逃げることなどできない。私のような存在にとって、これほど都合の良い獲物はいないだろう。

私は何になったのか。ワクチンは私を何に変えたのか。

答えは簡単だった。私は捕食者になったのだ。そして、百億人の人類は、私の餌になったのだ。

代謝を落とすことで少ない食料で生きられるようにする——それがワクチンの表向きの効果だった。だが、真の目的は違った。人類の大部分を餌に変え、一部を捕食者に変えることで、人口問題を「解決」する。これこそが、本当の食糧難対策だったのだ。

私は笑った。いや、笑ったつもりだった。声にならない笑い声が、喉の奥から漏れる。

外に出た。街は楽園だった。百億の餌が、のろのろと歩き回っている。これほど理想的な環境があるだろうか。

一人の男性が近づいてくる。青白い顔、虚ろな瞳、緩慢な動作。完璧な獲物だ。

「すみません、道を教えて……」

その言葉に、人間としての私は、一瞬だけ躊躇した。

だが、次の瞬間には本能が全てを上書きしていた。

男性の言葉が終わる前に、私は行動していた。これが本能というものなのだろう。抵抗らしい抵抗もなく、男性は私の餌となった。

温かい。美味しい。そして何より、満たされる。

周囲の“エサ”の群れは、悲鳴を上げながら、ノロノロと遠ざかっていく。

これが、私の新しい「食事」だった。


今日もまた、お腹いっぱい食事ができる。

私は感謝の気持ちを込めて、そっと手を合わせる。街には今日も、新鮮な食材がゆっくりと歩き回っている。

ああ、なんて素晴らしい世界だろう。

デストピアだと思っていたあの時代は、実は楽園への入り口だったのだ。代謝適正化ワクチンは、確かに食料問題を解決した。ただし、食料となる側と、食料を得る側に分けることによって。

百億人の人類が、私のために用意された食材として、この地上を埋め尽くしている。

今日もお腹いっぱい食事をしよう。感謝と共に。

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