第62話:魔法競技祭当日――見えない勝機
「パイヤン、もう一度、風で支援してくれ! パウロは隙を見てガブリエウの態勢を崩せ! そのタイミングで、ケイトとメイナは火と水で小規模な水蒸気爆発を連続で起こして奴の目と耳を奪うんだ! その混乱に乗じて俺があの女を奪取する!」
ケイトは緊張に息を呑みつつも、何とか頷いた。
頭では、やるべきことを完全に理解している。しかし、震えが指先を支配し、魔力は思うように集まらない。ちらりと視線を動かすと、隣のメイナも同じように息を微かに震わせ、必死に平静を装おうとしているのがわかった。
――お願い、動いて……!
目の前に立ちはだかるのは、あのガブリエウだ。班長決定戦で圧倒的な実力を見せつけ、ケイトたちの自信を一瞬で粉々に打ち砕いた男。脳裏に刻まれたあの日の屈辱と絶望が、容赦なく彼女を襲っていた。
「ケイト、メイナ! 今だっ!」
パオタロの鋭い指示が鼓膜を強く揺さぶったが、身体はまるで他人のもののように動かない。魔力は不安定に揺らぎ、指先から頼りなく霧散した。
――だめ……できないっ……!
視界が揺らぎ、膝の力が抜けていく。もはや立ち尽くすことしかできないケイトたちを、恐怖の鎖が完全に縛り付けてしまっていた。
何の支援もできず、パオタロが一人で飛び込んでいくのを、ケイトはただ呆然と見つめるしかなかった。無防備に突っ込む彼は、ガブリエウにとってまさに格好の標的だ。冷たく輝く無数の結晶が容赦なく襲いかかる。
――お願い、避けて……!
ケイトは思わず息を呑んだ。パオタロは咄嗟に炎の旋風を起こして攻撃の大部分を弾き返す。だが、その防壁を突破した数本が彼の身体を無慈悲に貫いていった。
――ああ……!
悲鳴すら喉元で凍りつき、ケイトの心は絶望の色に染まっていく。
そして次の瞬間――。
「っば……かやろ……」
掠れ切ったパオタロの声が、かろうじてケイトの耳に届いた。
◇
「ぐはぁっ……!」
鋭い激痛が稲妻のように身体中を駆け抜け、パオタロの視界が一瞬で真っ白になった。膝が崩れ落ち、地面に両手をつく。傷口から溢れ出す鮮血は止まることなく、指の隙間から滴り、鮮やかな赤で地面を濡らしていく。
――ここで俺が倒れたら……一気に戦況が崩れる……!
必死に焦点を合わせようとする視界の先には、虚ろな瞳でパオタロを見下ろすガブリエウの姿があった。ふらつきながらも、彼はゆっくりと口元を歪め、冷酷な笑みを浮かべていた。
再び無数の結晶が冷酷に空中へと展開され、次の攻撃が準備される。
――や……、やばい……!
パオタロは震える手で地面を掴み、必死に立ち上がろうとするが、身体はその意志を拒絶するように激しく痙攣し、まったく言うことを聞かなかった。それどころか、意識までも急速に薄れていく。
「く……そっ……」
その呟きを最後に、鋭利な結晶が次々と容赦なくパオタロへ襲いかかった――。
「――パオタロっ!」
咄嗟にパウロが土の防御壁を展開し、パオタロを守ろうとする。しかし、ガブリエウの結晶はそれを嘲笑うかのように猛烈な勢いで壁を切り刻み、容赦なく削り取っていく。土壁は見る間に薄くなり、修復する余裕などまったくなかった。
「くそっ、修復が間に合わない……!」
絶望と焦りがパウロの奥歯を強く噛み締めさせる。
その様子を離れた場所で見ていたパイヤンは、小刻みに身体を震わせていた。
――何をしてるんだよ、僕は……!
このままでは二人とも殺される。それなのに、自分はここでただ怯えて動けないままなのか。悔しさと惨めさが胸を締め付け、涙さえ滲んでくる。パイヤンは強く奥歯を噛み締め、震える拳を血が滲むほどに握りしめた。
「動けよ……! 動けってばっ……!」
パイヤンは震える勇気を振り絞り、風の防御壁をパウロの土壁の前に重ねて展開した。しかし、現実はあまりにも残酷だった。必死の想いが魔力を強めることはなく、ガブリエウの冷酷な結晶攻撃は風の壁すら嘲笑うように容易く切り刻んでいく。
そしてついに、すべての防御壁が無残にも完全に打ち砕かれた、その瞬間――。
「うぉおおおおおおおおお!!」
パルロの魂を揺さぶるような絶叫が戦場に響き渡った。自らの肉体を瞬時に硬質化させたパルロは、盾となるべくパオタロの前へ躊躇なく飛び込んだ。
鋼鉄の強度を誇るその肉体は、ガブリエウの猛攻を辛うじて弾き返していく。
だが執拗な結晶の雨は止むことなく降り注ぎ、次第にパルロの身体を深く削り始める。激痛にパルロの絶叫が徐々に苦痛の呻きへと変わり、硬質化した身体に無数の亀裂が入り、滲み出す鮮血が筋肉を赤黒く染めていった。
「ぐおぉおおおぉっ……! ぐあぁああぁっ……!!」
「やめろ――っ!!」
その悲痛な叫びと共に、パイヤンがついに絶望の戦況へ割って入った。怒りで我を忘れたパイヤンは、激しい風を全身に纏わせると、ガブリエウが展開した結晶の死角を突き、まるで弾丸のような勢いで巨体をガブリエウの側面へ全力で叩き込んだ。
予想外の衝撃を受けたガブリエウの身体は宙を舞い、肩に担いでいた少女がその手から離れて空中へと放り出された。少女の華奢な体はまるで糸が切れた人形のように勢いよく地面へ叩きつけられ、何度も転がりながら砂煙と土埃を巻き上げ、やがてぐったりと動きを止めた。ガブリエウ自身もまた無様に地面を転がり、激しく身体を打ちつけながらようやく静止した。
パルロは全身に鮮血を滴らせながら激しく震え、ゆっくりと膝をつき、そのまま力尽きるように地面へと倒れ込んだ。
「パルロォ!!」
パイヤンが涙混じりの悲痛な叫びを上げる。
「ケイト! メイナ! パオタロとパルロを抱えて本部まで撤退してっ! 救護部隊に早く引き渡してきてっ!」
パイヤンは振り返り、まだ恐怖に縛られたまま震える二人へ必死に訴えかける。
「わ、私たちはまだ戦える……! 救護部隊を呼んで――」
「違うっ……!!」
パイヤンは今にも泣き崩れそうな顔でケイトとメイナを強く睨みつけ、震える声で叫んだ。
「君たちは足手まといだって言ってるんだよっ!」
ケイトとメイナはその言葉に息を呑み、強張った表情で固まった。
パイヤンは震える唇で、悲しみも悔しさも隠そうとせず、必死に言葉を紡ぐ。
「僕だって怖い……! 本当は君たちと同じで震えて逃げ出したいよ! だから君たちの気持ちは痛いほど分かるんだ……!」
一瞬、涙をこらえるように唇を強く噛み締め、再び声を振り絞った。
「だけど今、ここは戦場で、君たちは完全に恐怖に支配されて動けない。今まともに動けるのは僕だけ。だけど……僕は弱いんだ……!! 僕一人じゃ絶対にみんなを守りきれない……! お願いだよ、パオタロとパルロを助けてあげて……このままじゃ、本当に二人とも死んじゃうよっ……!!」
パイヤンの悲痛な訴えに、ケイトとメイナはただ呆然と立ち尽くした。二人の瞳には涙が浮かび、握り締めた拳が無力さに震えている。
「頼むから……撤退してくれよっ……!」
パイヤンが必死に絞り出した懇願に、ケイトとメイナはようやく無言で頷いた。二人は震える手でパオタロとパルロを抱き起こすと、唇を噛み締め、黙したまま静かに撤退していった。
パイヤンがゆっくり振り返ると、そこにはすでに立ち上がり、再びふらつきながらもこちらへ歩み寄ってくるガブリエウの姿があった。その瞳は相変わらず虚ろで、生気など微塵も感じられない。
――これが精神支配された人間の目……。
嫌な寒気がパイヤンの背筋を這い上がった。視界の端に、地面に横たわり意識を失ったままの少女が映る。少女は微かな呻きを漏らし、苦しげに顔を歪めていた。
――僕の任務は、あの少女の救出と、ガブリエウの撃破……。
だが、今のパイヤンには“絶望的”という言葉すら生ぬるく感じられるほどに勝機はなかった。
ガブリエウは風と土、二つの属性加護を併せ持つダブル属性の使い手だ。それに対して自分は、風属性一つだけ。その属性値さえ、ごく平均的でしかない。
――まともに戦って勝てる相手じゃない……。
圧倒的な戦力差を前に、パイヤンの額からは冷たい汗が伝い落ちる。足は小刻みに震え、喉は砂を噛んだように乾ききっていた。
それでもパイヤンは、震える拳を強く握り締め、虚ろな瞳のまま迫り来るガブリエウを真っ直ぐに見据えた。




