第5話:潜伏
「ハハッ、お得意の潜伏かよ! だけどな、目の前で潜伏したって意味ねえんだよ!」
ヒカルの魔法が炸裂し、カラフルな塗料の球がパオタロの服を派手に染め上げる。
――所詮、この程度か。
着色液ごと再潜伏させてもいいが……いや、待てよ。もっと面白い方法があるな。
パオタロはあえて着色液を浴びたまま、その姿をヒカルの視界に晒してやった。潜伏状態を完全に解いていない以上、ヒカルに姿は見えていない。彼の視界には、ただ着色液に染まったパオタロらしき形だけが映っているはずだ。
「いっけぇぇぇぇえ!」
ヒカルが勢いよく踏み込んだその瞬間、パオタロはわざと焦りを見せるように口を開いた。
『ま、待て! この数日間、俺はずっとヒヨリさんを監視していた。間違いない、あの人はハルナさんが消えるのを知っていた……! あの人は王血部隊、いやシングウ王国にとって明らかに危険人物だ!』
狙い通りだった。
ヒカルの身体が、まるで時間が止まったかのようにピタリと止まった。その目に浮かぶ動揺を、パオタロは楽しげに観察する。
――やっぱり思った通りだな。揺さぶれば簡単に止まる。
パオタロは素早く足元にあった木の棒を透明にし、その上に着色液で染まった服をかぶせて即席の“案山子”を作った。それを透明化させた木の後ろへ静かに移動させる。
ヒカルは何も知らず、その着色液まみれの“案山子”に向かって必死に話しかけている。その隙を逃さず、パオタロは慎重に距離を取った。
――あとは、ちょっと煽ってやれば勝手に自滅すんだろ。
『何度でも言ってやる。ヒヨリさ……』
「うぉおおおおお!!」
着色液まみれの“案山子”を狙い、透明化した大きな木に向かって勢いよく頭から突っ込んでいくヒカルの姿を、パオタロは口元に笑みを浮かべながら眺めた。
――ハハッ、思ったより食いつきが早いな。ほら来た、ドーン!
……計算通り過ぎるだろ、単細胞が。
パオタロの目の前で、ヒカルの頭は透明化した木に鈍い音を立てて激突し、その場に力なく崩れ落ちた。
――しかし……コイツは名前だけかと思っていたが、違うようだ。
俺が使えば戦力になるかもしれんな……。
『おーい。……おいヒカル! おい……! ちっ、完全に気を失ってやがる。仕方ねえな……』
◇
ヒカルは気を失っている間、ヒヨリとの何気ない日常の記憶が、静かに頭の中に浮かび上がっていた。
――深夜の王血館のトイレ
はぁ……テンション下がるわ。『深夜』『血』『館』『トイレ』って、無駄に怖すぎるだろ……。
ある夜、尿意で目を覚ましたヒカルは、仕方なく布団を抜け出した。部屋を出て、薄暗い廊下を静かに進んでいると、庭に差し掛かったあたりで月明かりに照らされる小川がきらきらと輝いているのが目に入った。
「バチャ、バチャバチャ!」
――ん……? 何だ、この音……。
まさか……いやいや、まさかな。お、おばけとか、ないないない……!
恐る恐る目を凝らしてみると、ワンピースを着た女性らしき姿が見えた。
その人影は小川の近くでうずくまっているように見えたが、ヒカルの気配に気づくとすぐに立ち上がり、振り返ってこちらをじっと見つめてきた。
「ぐすん……見つかっちゃったかぁ」
「ヒ、ヒヨリさん……??」
「ごめんね、ヒカル君を驚かせちゃったかな?」
「マジでビビりましたよ!! こんな時間に何してるんですか?」
ヒヨリは何かを拾い上げ、それをヒカルに見せながら恥ずかしそうに笑った。
「えへへ……わたし我慢できなくって。こっそり夜食を食べようとしたんだけど、これだよぉ……。でもね、ッフフ、もしかして神様が『ちゃんとダイエット続けなさい!』って言ってくれてるのかな?」
ヒヨリが差し出してきたのは、食べ物の染みらしきものが広がった布切れだった。
「うわー、ヤッちゃいましたね! それ落とすのはかなり大変なんじゃ……あ、やべっ! 俺おしっこしたかったんだ!」
「あはは、早く行っておいで。あっ! でも、このことはみんなには内緒だよぉ」
「わっかりましたぁ!」
ヒカルがトイレで用を済ませ、再び廊下に戻ると、ヒヨリの姿はどこにもなかった。
――あの時は、ソースでもこぼして付いた汚れを洗っていたんだろうと思っていた。でも、本当に夜食で付いた汚れだったのか? 薄暗くてよく見えなかったけど、赤黒く染みこんだその布切れは、今思えば、まるで濡れた血のようでもあった。
これまでヒカルは、この出来事に対して特に疑問を抱いたことはなかった。しかし今、呼び起こされた記憶の中で、ヒヨリの笑顔が一瞬だけ凍りつき、不自然に視線を逸らした姿が鮮明に蘇る。
まるで目の前に薄い膜がかかっていたかのように、それまで見えなかった真実が、少しずつ姿を現し始めた。
ヒヨリはあの夜、本当は何をしていたのだろうか――?
◇
ヒカルが目を覚ますと、すぐ隣には、“同じ魔指紋”を共有して潜伏しているパオタロの姿があった。
――ヒヨリさんが……危険。
認めたくない、認めたくないけど、パオタロの言う通りなのかもしれない……。
ヒカルは心のどこかで、ヒヨリが危険である可能性をずっと感じ取っていたのかもしれない。だが、その考えを認めることを頑なに避けてきた。ヒヨリを信じたい――その強い願いが、ヒカルの目を真実から背けさせていた。
けれど、もし本当にヒヨリが危険なのだとしたら、その事実を明確に認識しているかどうかで、今後の生死を分ける事態にもなり得る。
ヒカルは静かに息を吸い、胸の奥から湧き上がる言いようのない恐怖を押し殺しながら、ゆっくりと口を開いた。
『パオタロ。俺は……きっと、ヒヨリさんに関してずっと思考を停止させていたんだ』
『……そうか』
ヒカルたちは、遠くまで見渡せる高い木の上にいた。
眼下に広がる木々の海は、薄く靄がかかり、穏やかな朝日に染められて淡い金色を帯びている。山々はその静かな光の中で、まるで永遠に動かない絵画のように佇んでいた。
ヒカルは、どんな可能性であっても、それを否定できないならば、一つの可能性として受け入れる覚悟を決めるべきだと自分に言い聞かせた。
遠くの山々をじっと見つめながら、深く静かな呼吸を繰り返す。
そしてヒカルは意を決し、「ヒヨリの何を知っているのか」とパオタロに尋ねようとした――。
だが意外にも、その問いを予期していたかのように、パオタロのほうから静寂を破った。
『最初は小さな違和感だった』
その言葉に、ヒカルは無意識に息を呑んだ。
冷たい感覚が背筋を這い上がり、心臓の鼓動が速まっていく。
『たしかに、ヒヨリさんは多くの功績を挙げてきた。アモン国王から英雄勲章を授けられ、国民からの人気も高い。だが、都合が良すぎるとは思わないか? 事件が発生するところには、必ずヒヨリさんが居合わせているんだ』
パオタロの言葉は淡々としていたが、その裏には、疑念に裏打ちされた確信が感じられた。
ヒカルは、パオタロがヒヨリについてここまで深く踏み込んだことに一瞬驚きを覚えたが、それを表情には出さなかった。今は少しでも情報を得ることが重要だと直感したからだ。
『でも今は、事件が起きると、甲種・一期生にすぐに魔鳩が飛ばされて対応することになってるんだろ? 王血部隊員のなかで一番速いのはヒヨリさんだし、そうなるのは自然だろ?』
冷静を装って反論するヒカルの声には、自分でもわかるほどの焦りが滲んでいる。
しかし、パオタロの表情は微動だにしない。
『いや、今回の事件もそうだが、魔鳩が飛ぶ前からヒヨリさんが現場にいた事例が多すぎるんだ。だから俺は念のため、ヒヨリさんの行動を監視する必要があると判断した。そしたらビンゴだった。数週間前、食料輸送車が襲撃された事件は知っているか?』
『あ、あぁ……』
『あの事件で犯人たちは、輸送ルートや時間が記された極秘メモを持っていた。問題はそこだ。俺も最初は信じられなかったが、何度確認してもあの筆跡は間違いなくヒヨリさんのものだった。ヒヨリさんは、犯人たちが自然な形でそのメモを入手できるよう仕向けていた。つまり、あの事件が起きるように“促した”んだ』
ヒカルは思わず眉をひそめた。胸の奥に渦巻く違和感が徐々に膨らみ、心がざわつく。
『今回の事件もそうだ。王血専門学校の取材直前、あの森でヒヨリさんがハルナさんと新魔法の使用時刻について激しく言い争っているのを見た。「どうしてわざわざその時刻を守らなきゃいけないの?」と疑問を口にするハルナさんに対し、ヒヨリさんは新魔法の中止を求めることはなかった。ただ、ひたすらその時刻を守るよう促していただけだ』
『……つまり、ヒヨリさんは今回の事件だけじゃなく、これまでの事件にも積極的に関与している可能性が高いってことか』
ヒカルは冷静を装いながら静かな声で確認したが、その内心では、小さな疑念が胸の奥で濃密な不安に変わりつつあった。
まるで見慣れた景色が歪み始め、足元が揺れるような不確かな感覚が広がっていく。絶対的な信頼を寄せていたはずのヒヨリのイメージが、じわじわと音を立てて崩れ始めていることを、ヒカルは認めざるを得なかった。
『……そういうことだ』
パオタロは、ヒカルがヒヨリを疑う発言を予想以上に冷静に受け止めたことに僅かな戸惑いを覚えつつも、その反応を確認すると、もう後戻りはないと決意を固めたように、ついに真相を語り始めた。
『ヒカル、あれを見ろ』
パオタロが指をさしたのは、昨日ハルナが新魔法を発動した場所だった。
だがその空間は今、何らかの魔法によって巧妙にカモフラージュされており、ヒカルがいくら目を凝らしても内部の様子を捉えることはできなかった。
『お前も見ただろ。ハルナさんが“魔女の嫉妬”で消えたとき、ヒヨリさんだけは何の戸惑いもなく、それを当然のことのように受け入れていた。つまり、最初からああなることを知っていたということだ』
『え……、まさか!!』
ヒカルはずっと胸に引っかかっていた“あの光景”を思い出し、背筋がぞっと冷たくなった。
――虫取り網のような奇妙な道具を握りしめ、まるで虚空を彷徨う何かを捕えようとしているかのように、表情一つ変えず、黙々と、執拗にそれを振り続けている――
『ハルナさんが消えた後に、ヒヨリさんがやっていた“あれ”が、本当の目的だったってことか!?』
『それだけじゃない。ヒヨリさん自身が、“魔女の嫉妬”を意図的に引き起こしている可能性がある。ただ、この場合、“魔女の嫉妬”が本当に魔女の力によるものだとしたら、さらに最悪の可能性すら考えられる』
ヒカルの体がギクリと強ばった。
その可能性に今まで気づけなかった自分の甘さに、胸が締めつけられるような自己嫌悪が込み上げた。
『……ヒヨリさんは、魔女本人と繋がっているかもしれない』
無意識に溢れ出たその言葉の重さが、まるで鎖のようにヒカルの胸を締め付けた。
『そういうことだ。そのシナリオなら、ハルナさんは“消された”ことになる。急がなければ王血部隊は全滅だ。魔女の攻撃はもう始まっている――俺たちに残された時間はない』
――どっちにしたって、ヒヨリさんはハルナさんが消えることを承知の上で、あの場にいたってことだもんな。もう確信犯にしか思えなくなってきた。
ヒカルは心の奥に広がる疑念をもはや抑えることができなかった。
ヒヨリが重大な秘密を抱えていることは、疑いようもない現実として目の前に立ちふさがっている。それほどまでに、パオタロの言葉は核心を突いていた。
『今の俺たちには、選択肢が二つある。一つ目は、ハルナさんが消えた“あの場所”を調査することだ。お前も、ヒヨリさんが“あの場所”で何をしていたのかを知るために来たんだろうしな』
『……ていうか、その選択肢しかなくないか? 』
『いや、あれを見てみろ』
ヒカルはパオタロが指さした方向に視線を向けた。
そこには青地に黒い獅子が描かれた“部隊旗”が、重苦しい風に煽られるように不吉に揺れていた。
『あれは、ガスポール先生の“部隊旗”だ。つまり、“あの場所”の周辺にはガスポール先生の部隊が展開している』
『でも、シシン先輩の話からすると、ガスポール先生が現場調査に来ててもおかしくないじゃん』
『単細胞が』
パオタロは呆れたような口調で続けた。
『調査だけなら護衛兵だけで十分だろう。だが、ガスポール先生は護衛兵ではなく軍を動かす必要があると考えた。これは、もう単なる調査の範囲を超えているということだ。アモン国王もそれを認識し、軍の投入を承認した――状況は、俺たちが想像している以上に深刻だということだ』
――アモン国王が承認し、ガスポール先生が軍を動かした……。
その重い事実が、ヒカルの胸に静かにのしかかる。
『……何が言いたいんだよ』
ヒカルは冷静を装いながらも、言葉に隠された意図を探るように問いかけた。
『ガスポール先生は、何か“極めて危険な存在”を討伐するか、あるいは何か“重要な秘密”を守るために軍を動かしたということだ』
パオタロの目には、微かな緊張が宿っていた。
『最悪の可能性を考えると、“属性解放の儀”が終わっていない非戦闘員の俺たちが“あの場所”へと向かうことには、かなりのリスクがある』
――最悪の可能性……、ヒヨリさんと戦うことになるかもしれないということか。
もし今の俺たちが、あのヒヨリさんと本気で戦ったら……
ヒカルは無意識のうちに拳を握りしめていた。その指先は震えていた。
『俺たちでは一瞬でヤられる』
パオタロの冷静な声が、現実を突きつける。
『だから俺は、まずはもう一つの選択肢を選ぶべきだと考えている』
『……そういうことだったんだ、あれを見ちゃったんだもんね。そっかぁ……こうなっちゃうかぁ……』
パオタロの潜伏魔法は一級品だ。
ヒカルとパオタロは、その魔法によって潜伏している。誰かに見つかる可能性など微塵も考えていなかった。
しかし、二人の背後には明らかに異質な気配が漂っていた。“同じ魔指紋”で共有された潜伏魔法をまとった“三人目”が、そこに静かに立っていた。
『ぐすん……でも、ごめんねぇ。パオタロ君たちに、それをやらせるわけにはいかないんだぁ……』
第5話をお読みいただきありがとうございます。
ヒヨリの謎を巡り、今後の展開がますます盛り上がっていきますので、物語の核心に辿り着くまで少し長めですが、ぜひお付き合いいただけると嬉しいです
今後ともよろしくお願いします。