第45話:魔法書室に見えた兆し
――魔法書室――
魔法書室は静まり返っていた。
古びた魔法書の紙をめくる音だけが、無機質に響いている。
ヒカルは深く息を吐き、一冊の分厚い魔法書に視線を戻した。もう何度も何度も同じ箇所を読み返しているが、全く頭に入ってこない。
“戦闘訓練場・弐”でエミリが苦闘している姿を見た日以来、ヒカルは一か月以上も魔法書室に籠もり続けていた。その間、学校でろくに勉強していなかった通常魔法理論を徹底的に学び直し、今ではほぼ完璧に習得したと自負している。これで属性を利用した魔法を含め、実戦レベルの魔法についても、理論上は問題なく理解できているはずだ。
だが、それだけでは足りない。
ヒカルには加護がない。実戦レベルの魔法をいくら完璧に理解しても、それだけでは甲種に残った同期たちのように最前線で戦うことはできない。自分に残された道はただ一つ、加護を超える何か――誰もまだ到達していないような領域を目指すしかない。
その答えを見つけるために選んだのが、今目の前に広げられている『特殊魔法理論』だった。この国でも完璧に理解している者は数えるほどしかいないとされる、極めて難解な理論書だ。
――これ、無理だろ……。
何度読み返しても、理解しようとする意識を跳ね返すように、思考が止まってしまう。
投げ出したくなる衝動を抑えるように、ヒカルはこめかみを指で揉んだ。
そのとき、ふとモラタの言葉が頭をよぎった。
『だから俺たちはこれからもずっと、“ひたすら前に進み続ける最強のコンビ”なんだ』
あのときのモラタの真っ直ぐな瞳を思い出し、ヒカルは強く唇を噛んだ。
――迷っている暇はない。俺はやれることをやるしかないんだ。もう前に進むしかないんだ。
覚悟を決め、ヒカルが再び魔法書に目を落としたその時、背後でわずかな足音がした気がした。
「難しい本を手にしていらっしゃるな」
驚いて振り返ると、見知らぬ男性が冷静な目つきでヒカルを見下ろしていた。
その姿は背筋がまっすぐ伸び、服装も細部まで隙なく整えられている。見るからに威厳を纏った男だった。
「だが、そんな本を読んだところで、果たして意味はあるのかね?」
突然の皮肉めいた言葉に、ヒカルは戸惑った。
男は冷ややかな笑みを浮かべ、ヒカルを見下ろした。
「なるほど。難解な本を読んでいれば、自らの弱さを『努力している』という言葉で覆い隠すことができますからな」
その言葉にヒカルの胸に苛立ちが一気にこみ上げた。
黙っていられず、思わず口を開いた。
「は? ……いきなりなんなんだよ、あんた。こっちは真面目にやってんだけど」
「ヒカル君っ、失礼だよぉ!」
聞き慣れた声が響いた。
振り向くと、ヒヨリが慌てた様子で駆け寄ってくるところだった。ヒヨリは急いで男性のほうへ向き直り、スカートを軽く摘んで丁寧にお辞儀をした。
「お久しぶりでございます、エドワード公爵。ヒカルの無礼をお許しくださいませ」
エドワードは小さく頷き、表情を崩さぬまま短く返した。
「これはヒヨリ殿、お久しぶりでございます」
ヒカルは目を見開いた。
――公爵だって……!?
ヒヨリが小声で説明する。
「こちらの方は第一貴族テックマン家当主、エドワード公だよっ……!」
ヒカルはすぐに席を立ち、椅子がガタッと音を立てるほどに慌てて深く頭を下げた。
「先ほどは無礼な態度をとり、大変申し訳ありませんでした。ヒカルと申します」
エドワードは、わずかに口元を緩めた。
「いや、こちらも少し言い過ぎた。お気になさらず。しかし――その本を読んで、本当に強くなれるとお思いか?」
ヒカルは思わず顔を上げ、まっすぐにエドワードを見つめ返した。
「もちろんです。この理論を理解できれば――」
「では問うが、その理論を熟知している数少ない者たちは、本当に最強なのか?」
エドワードはヒカルの言葉を遮り、鋭い眼差しを向ける。
ヒカルは言葉を失った。
たしかにエドワードの言う通りだ。
王国でも数えるほどしか理解者のいないこの難解な理論――その専門家たちが、必ずしも最強というわけではないことは、考えるまでもなく明らかだった。
今までヒカルは、この『特殊魔法理論』を読み解けば、加護を持たない自分でも甲種に残った同期たちと肩を並べられるかもしれない、と漠然と信じていた。誰にも理解できない知識を得ることで、戦力差を埋められるかもしれないと思っていた。
だが、目の前にいるエドワードの言葉によって、必死で掴もうとしていた希望の道が、突然途絶えた。道標を失ったような気持ちになり、頭の中が一瞬真っ白になる。
気まずい沈黙が流れ、それを打ち消すようにヒヨリが言葉を挟もうとした。
「あの……エドワード公、でもヒカル君は今、すっごく真面目に勉強して――」
「戦いの場を自ら離れたあなたが口を挟むことではない。こちらは国家の安全保障を背負う責務があるのだ」
エドワードは厳しい口調でヒヨリの言葉を遮った。
ヒヨリは言葉を飲み込み、うつむいた。その手は軽く震え、スカートの裾を握りしめていた。
再びヒカルに視線を戻したエドワードは、一瞬の間を置き、口調を和らげた。
「……先ほどの非礼については詫びよう。悪い癖でね、初対面の相手にはつい試したくなるのだ」
そう言って、エドワードは軽く頭を下げると、わずかに表情を緩めた。
「実は、君のことはガスポール殿から詳しく聞いている。それでこうして訪ねてきたのだが……乙種に落ちてから無気力な日々を送っていると聞いていた割には、随分と変わったようだな。それに、そんな難解な本に挑むとは、思ったより根性もありそうだ」
エドワードはそこで言葉を切り、真剣な眼差しをヒカルに向けた。
ヒカルもまた、その視線を正面から受け止めていた。
先ほどまで感じていたエドワードの皮肉や批判的な態度は影を潜め、代わりにヒカル自身の何かを見極めようとしているような、鋭くも真摯な眼差しがそこにはあった。まるで、自分の中にある可能性を試そうとしているかのようだった。
わずかな沈黙が場を支配した後、エドワードは小さく頷き、再び口を開いた。
「一つ、提案がある。私のもとで修業をしてみる気はないか? 成功の保証などないし、強くなる約束もできない。だが、その本を睨み続けているよりは可能性があるだろう」
――……可能性?
その言葉にヒカルは思わず小さく噴き出した。
「ハハッ!」
――この難解な本よりも可能性があるなんて……そんなの俺に言わせれば可能性ありまくりの勝ち確なんだよ! なぁ……モラタ……!!
気付くと、視界がぼやけていた。
頬を伝う熱い涙を手の甲で拭うと、ヒカルは笑顔のまま顔を上げ、エドワードの瞳をまっすぐに見据えた。
「失礼しました。やります! やらせてください!!」
エドワードはそんなヒカルの反応に一瞬驚いたように目を見開いたが、やがて何かを察したように小さく頷いた。
「よろしい。では、ついてきなさい」
エドワードがゆっくりと踵を返すと、視線の先には黙ってこちらを見つめているヒヨリがいた。
エドワードはわずかに表情を和らげ、静かで穏やかな口調で語りかけた。
「ヒヨリ殿。あなたがお辛い立場にあったことはよくわかっている。しかし、今はこんな所で他人の世話を焼くことよりも、まずご自身と向き合われることが何よりも大切だ。あなたにもまた、果たすべき使命がまだ残されているのですから」
ヒヨリは小さく息を呑み、何も言わずに目を伏せた。
ヒカルはヒヨリに深く一礼し、小走りでエドワードの背中を追った。
ヒヨリはただ黙って、二人の背中を静かに見送った。




