第43話:真実のゆくえ
御前会議が終わり、“鳳凰の間”にまだ緊張が漂う中、ガスポールはシシンを静かな廊下に呼び出した。
「シシン、ヒヨリ救出作戦の件じゃが……」
ガスポールの視線には穏やかさを装った厳しさが込められている。
それでもシシンは真っ直ぐその視線を受け止めていた。
「あの作戦が事後承認になったことは理解しておるじゃろうな? 先ほどの御前会議でも、ワイズマン家のフリッツ殿から追及を受けてしまった。今回は何とか取り繕えたがの……」
ガスポールは表情を曇らせ、小さくため息をついた。
「申し訳ありませんでした。私の判断で事後承認となり、結果としてヒヨリの過去に戻る力を完全に喪失させてしまいました。痛恨の極みです。今後は必ず事前にご報告いたします」
シシンが素直に頭を下げると、ガスポールはゆっくりと頷いた。
「わしはお主たちを信頼しておるからこそ、あまり厳しいことは言いたくはないのじゃ。じゃが、こうした規律違反が繰り返されれば、わしも庇いきれなくなるやもしれんからの。よいな?」
「理解しております」
シシンの表情に真摯な反省の色を見て取ったガスポールは、次に慎重な面持ちで口を開いた。
「まあよい。あの力も、既にほぼ失われておった。……それよりも重要なのはヒヨリのことじゃ。お主も知っての通り、御前会議でヒヨリの解放が正式に決まった。じゃが、今のヒヨリの精神状態を考えると、非常に慎重な対応が求められる」
シシンもそれには深く同意し、静かに頷いた。
「そこでお主に頼みがある。猫の正体がミロであったことやメモリア・ロードの件は伏せた上で、お主が猫としてヒヨリに解放の決定を伝えてやってはくれぬか。ミロについては、ゼーマン家による反逆行為の犠牲者の一人という説明で今は通せばよい」
ガスポールの言葉に、シシンの胸は痛んだ。
ヒヨリを苦しめないためとはいえ、真実を伏せることが正しいのか迷いが生じる。
「それが、本当にヒヨリのためになるでしょうか……?」
シシンの問いかけに、ガスポールは少しだけ困惑した表情を見せた後、重々しく答えた。
「正直、それはわしにも分からぬ。毎朝ヒヨリを見ているわしとしては、これ以上の心の傷は避けることが最優先じゃと考えておる。じゃが、シシン、現場の判断はお主に委ねる。実際にヒヨリと話し、もし真実を伝える方が良いと感じたのなら、その時はためらわず伝えるがよい」
シシンは、ガスポールの真摯な表情を見て、胸の中の迷いを抱えながらも、頷くことしかできなかった。
「……理解いたしました。お任せください」
その日の夜、シシンは猫の姿へと変身すると、静かに拘置所へと向かった。
歩き方や、話し方は、ミロの記憶を手掛かりにすれば大丈夫のはずだ。
鉄格子から独房に入り込むと、ヒヨリはベッドの端に座り、小さな窓からぼんやりと外を眺めていた。ヒヨリの視線はどこか遠く、力がなかった。
「やぁ、久しぶりだね」
猫―シシンが穏やかな声をかけると、ヒヨリは驚いたように振り返り、ゆっくりと微笑んだ。
「ネコちゃん……来てくれたのね」
「一カ月ぶりくらいだね。僕がいなくて、寂しくなかったかい?」
猫-シシンは、ミロの言葉遣いや振る舞いを懸命に思い出しながら、努めて明るく話しかけた。ヒヨリの表情を見て胸が痛んだが、それを悟られないように平静を装う。
「えへへ、ネコちゃんじゃなくて、ケーキがなくて寂しかった……のかな?」
「そっかぁ、僕もついにケーキに負けちゃったかぁ、残念っ!」
猫-シシンが少し大げさにがっかりして見せると、ヒヨリは小さく笑った。
ヒヨリの笑顔を見るのが久しぶりだったことに、シシンは改めて気づく。それと同時に、一瞬、自分の胸が高鳴るのを感じ、思わず戸惑った。
――なんだ……今のは……?
ミロの記憶が自分の心を揺さぶっているのか、その境界が曖昧になっている。
シシンはその動揺を必死で抑え込み、言葉を続けた。
「それでね、今日は嬉しい知らせを持ってきたんだ。君の解放が正式に決まったよ。御前会議で決定したんだ。明日にもここから出られるはずだよ」
しかし、ヒヨリの反応は予想とは異なっていた。
ヒヨリはかすかに目を伏せ、喜ぶ様子はまったく見せなかった。
「そう……決まったのね」
シシンは、その反応を見て言葉を失った。
ヒヨリにとって解放はすでに喜ばしいことではないのか。それとも、彼女の心はもっと深くて遠いところに行ってしまったのか――。
――今、この状況で、猫の正体がミロだったことや、ミロがヒヨリを救うために犠牲になったこと、さらにメモリア・ロードで自分に記憶を託したことなど、とても言えるわけがない……。
そして、ミロがどれだけの愛情と気遣いを持って、絶望の淵に立つヒヨリを支え続けてきたのかを改めて思い知らされた。
それなのに自分は、こうしてヒヨリに会いに来たというのに、彼女の好きなケーキを持ってくることさえ思いつかなかった。それどころか、気の利いた言葉のひとつもかけることができない――そんな些細な気遣いすらできなかった自分に、シシンは強い苛立ちを感じていた。
迷いと焦りが心の中で渦巻き、シシンはしばらく言葉を失ってしまう。
「ネコちゃん、どうしたの?」
ヒヨリが不安げな顔をしてこちらを覗き込んだ。
いつも猫に話しかけるときの距離感――思いがけず近づいたヒヨリの顔に、シシンの心臓が大きく跳ね上がった。
「えっ、いや、その……なんでもないよ」
気付けば声がわずかに震え、シシンの動揺がヒヨリに伝わりかけてしまう。
「ネコちゃん……体調でも悪いの? 大丈夫?」
ヒヨリの優しく心配そうな声が、さらにシシンの胸を締めつけた。
なんとか平静を装おうと深呼吸し、精一杯笑みを作った。
「な、なんでもないってば。ただ……元気な君の顔が見られて安心しただけだよ」
「フフ、なにそれ、いつものネコちゃんじゃないみたいだよぉ」
そんなヒヨリの無邪気な反応に、シシンは胸が落ち着かなかった。
このままでは猫の中身が変わっていることにヒヨリが気付いてしまうかもしれない。
――それだけは絶対に避けなければならない。
焦りがさらに動揺を呼び、シシンの頭の中を混乱が埋め尽くした。
――そもそもヒヨリ救出作戦で、フウコは一ヶ月もヒヨリになり切るためシスイの地獄の特訓を受けていた。それに引き換え、自分はどうだ。ガスポール先生の頼みを深く考えもせず軽く引き受けてしまった。ヒヨリの心に触れることの重さを、あまりにも甘く見ていたから、このような事態を招いてしまったのだ。
恥ずべきことだが、無策のままで戦場に立った今、自分にできることはただ一つ――即時の撤退しかない。
「ごめんね、今日はもう行かなきゃ。また来るから……」
精一杯明るく声を出したつもりだったが、自分でも驚くほど弱々しく響いた。
ヒヨリが小さく目を見開き、不安げにこちらを見つめる。
「えっ、ネコちゃん……もう帰っちゃうの?」
その寂しそうな表情に胸を締め付けられながらも、猫-シシンは無言で振り返り、鉄格子の隙間から外へ飛び出した。
夜の空気は驚くほど冷たく、拘置所の石畳みに触れる足元が急速に冷えていった。
シシンは何度も呼吸を整えようとするが、乱れた心拍が静まる気配はなかった。月明かりが淡く地面を照らす中、自分がただ逃げているのだということを強く自覚させられた。
背後でヒヨリの小さな声が微かに聞こえた。
「またね、ネコちゃん……」
その儚い声が胸に刺さり、シシンは息が詰まるほどの痛みを感じた。
猫-シシンは一瞬立ち止まりかけるが、振り返る勇気は持てなかった。自分にできるのは、ただ冷え切った月明かりの下を黙って駆け抜けていくことだけだった。
ヒヨリの呟きは、いつまでも耳の奥で消えることなく響き続けていた。




