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第39話:演舞の幕が上がるとき

 フウコは、ヒヨリの姿のまま物陰に身を潜めながら、静かに呼吸を整えていた。


 ――私はヒヨリだもんっ……、私はヒヨリだもんっ……。


 一か月に及ぶ特訓の記憶が脳裏をよぎる。

 この精神の整え方も、シスイから徹底的に叩き込まれたものだった。


『いざというとき、焦ってもいいのよ。何か失敗しても構わない。でもあなたはヒヨリなの。それだけは決して忘れないで』


 当時は意味がよくわからなかった。

 でも今は、はっきりと理解できる――


 ヒヨリでありさえすれば、多少のミスがあったとしても、きっと何とかなる。

 そう思うと、肩の力がふっと抜けた。


 ――うん、大丈夫だよぉ。だって、今の私はヒヨリなんだからっ……!


 意識がゆっくりと“演じる”から“入り込む”へと切り替わっていく。

 『一日ヒヨリ生活』で徹底的に叩き込まれたヒヨリの精神――そのゾーンに、自然に浸透していくのがわかった。身も心も、今の自分はヒヨリそのものだった。


 そのとき、老婆のけたたましい笑い声が広場に響き渡った。


 ――うそ、もう始まっちゃったのっ……!?


 フウコの全身に緊張が走る。

 練習の時よりもずっと甲高く、狂気を孕んだシシンの笑い声に、心臓が早鐘を打った。


 ――シシン君、練習のときよりもずっと気合入ってる……!

   でも、私だって絶対に成功させるんだからっ!


 フウコはぎゅっと両手を握りしめる。

 そこへ、再びモンドからの一斉通信が飛び込んできた。


『まずい、モラタに動きがある』


 遅れて爆発音が響いた。

 わずかに空気が震え、フウコの肌をざわつかせる。


『シシン! 二時の方向に魔鳩――モラタのものだ!』

『くそっ、ヒカルまで動き出したぞ!』


 フウコの鼓動が、さらに激しくなった。

 作戦が崩壊しかねない想定外の展開だった。


『これ以上好き勝手はさせられない。フウコ、出ろ! ヒカルとモラタに即時撤退の指示を出し、民衆の救出を優先させろ!』


 ついに出撃命令が下された。

 フウコは静かに目を閉じると、瞬間的に属性を解放した。その身を纏う強力な風が渦を巻き、彼女の身体を一瞬で高く空中へ押し上げた。


 ――大丈夫……私はヒヨリだもんっ。いつも通りにやればいいんだからっ……!


 上空から広場を見渡すと、ヒカルが放った魔鳩が撃ち落とされ、墜落していくのが見えた。その先には老婆に化けたシシンと、その配下に扮したシスイ、さらに混乱の中に立ち尽くすヒカルとモラタの姿がはっきりと見えた。


 ――さぁ、ヒヨリちゃん、ここからが本番だよぉ!


 フウコは胸に手を当てて深呼吸をすると、大きく息を吸い込み、第一声を高らかに響かせた。


「もぉ、せっかく倒したのに~。復活しちゃうなんてダメなんだよぉ? プンプンなんだからねっ!!」


 これまで何度も練習してきたセリフだった。


 身も心もヒヨリそのものであることを実感しながら、フウコは内心で『うん、完璧だよぉ!』とほっと胸を撫でおろす。しかし、ふと老婆に化けたシシンの反応が気になり、視線を向けると――


 老婆に化けたシシンの口元には、微かな笑みが浮かんでいた。


 実際にはシシンは、『前に見せた時と同じ姿勢で大量の魔鳩を一斉に狙い撃つ』というヒントをヒカルが正しく解読し、老婆の正体に気づいてくれたことに満足げに微笑んでいただけだった。


 だが、フウコがその理由を理解できるはずもない。


 ――えっ!? シシン君……どうして笑ってるの……? ひどいよぉ……。


 自分が必死でヒヨリになりきっているのに、それを笑うなんて、あり得ない。

 フウコの頭の中は真っ白になった。


 頬が熱くなり、次に何をすればいいのかさえ分からなくなるほど動揺する。


 ――もう……恥ずかしくてできないよぉ……。


 それでもヒヨリのゾーンを保てているのは、シスイの特訓のおかげだろう。混乱して右往左往するその仕草が、結果的には完璧なヒヨリそのものになっていた。


「愚かな小娘め、自らワシの前に現れるとは!」


 老婆――シシンの怒声とともに、鋭い風の刃がフウコに向かって次々と襲いかかった。


 ――えっ、ちょっと待ってぇ! いきなり過ぎるよぉ……!


 完全にパニックに陥ったフウコは防御姿勢を取ることさえ忘れ、まともに攻撃を受けてしまった。強烈な風の刃が全身を切り裂き、鮮血が舞う。


 激痛に耐えきれず、フウコは空中でバランスを崩し、大きくよろめいた。その姿は遠目にも痛々しく、まさに瀕死の重傷を負ったヒヨリ本人にしか見えなかった。


 霞んでいく視界の中、フウコは必死に広場を見下ろす。そこには既に民衆を避難させているヒカルとモラタがいる。怯え、不安にざわめく民衆の姿も、ぼんやりとだがはっきりと見えた。


「ヒヨリ様だ……! 私たちのために無理をして来てくださったんだ……!」

「あいつは魔女の使徒で『倒されたが再び蘇った』って言っていました!!」

「魔女の使徒です!! ヒヨリ様、気をつけてください!」


 民衆の必死な声援が、意識を失いかけていたフウコの耳に強く響く。


 しかしその直後、老婆の放った無数の風刃が再びフウコを襲った。

 抵抗する余力などとうに尽き果てていたフウコは、反射的に目を閉じ、迫る衝撃に身を固めた。


 ――ところが、いつまで経っても攻撃は届かない。


 恐る恐る目を開けると、自分を取り囲むように灼熱の炎が渦巻いている。その炎の壁は、襲いくる風の刃を次々と飲み込み、完全に無効化していた。


 ――え、これって、確か次の展開は……。


 混乱していたフウコの頭に、ようやく作戦手順がよみがえった。

 そうだ、これは離れた場所からカイエンが放った炎だ。まるで自分――ヒヨリが火属性の力を発動したかのように見せかける演出だった。


 ――そっかぁ、そうだよぉ。この次は私が反撃する番だぁ……。


 フウコがちらりと視線を向けると、離れた場所に潜むモンドとカイエンが小さく頷いているのが見えた。――準備完了の合図だ。


「何回復活しても同じなんだからぁ!!」


 ヒヨリ――フウコが右手を掲げると、その瞬間、猛烈な風が巻き起こり、大地が砕け、無数の岩石が宙に舞い上がった。直後、それらの岩石は一斉に業火を纏い、老婆――シシンとその配下――シスイめがけて襲いかかる。


「二度も同じ手を喰らうと思うてか!!」


 老婆――シシンは即座にその場から離れようとしたが、それより早く、高熱で焼き固められた巨大な土壁が周囲を取り囲んだ。逃げ場を失った老婆は、歯噛みしながらも、なすすべなくその岩石群を迎え撃つしかない。


「ぐぬぅっ……! またしても……またしても姑息な手を使いおってぇ……!」


 老婆は必死で風の刃を振るい続けたが、その抵抗はあまりにも儚かった。燃える岩石群は容赦なく降り注ぎ、巨大な土壁もろとも老婆――シシンとその配下――シスイを呑み込んだ。


「ぐわあああああああっ……!!」

「ぎゃぁぁぁああっ……!!」


 二人の悲痛な叫びが炎と煙の中にかき消された。

 やがて土壁は崩れ落ち、中の様子が徐々に露わになった。しかしそこには、激しい炎に焼き尽くされた黒焦げの大地と、砕け散った無数の岩石が広がるばかりで、老婆とその配下の姿は跡形もなく消えていた。


 一瞬の静寂の後、歓声が爆発した。


「ヒヨリ様が、魔女の使徒を倒してくれたぞ!!」

「ヒヨリ様が修道院を襲撃した時にいたのは、あいつらだったってことか!」

「つまり、魔女の手下たちを倒すためだったんだろ!?」

「ヒヨリ様こそ正義だ!! 俺たちの英雄だぁあああ……!」


 民衆が次々に声を上げ、熱狂的に拍手と歓声を送っている。

 ヒヨリ――フウコは激しく傷ついた姿のまま、ふらつきながらも空中で精一杯の笑顔を浮かべ、ゆっくりと手を振った。その健気な姿が群衆の熱狂をさらに高めていく。


 やがて、ヒヨリ――フウコは静かにその場を後にした。

 向かう先は、シシンとシスイが脱出するため、モンドが密かに用意した緊急用トンネルだった。


 トンネルの奥には、すでにフェルミミックを解除したシシン、シスイと、モンド、カイエンが待っていた。


「よくやった、フウコ!!」

「シシン、あなたのせいで危うく死にかけたわ。……まぁ、作戦が成功したからいいけれど」


 五人は互いに顔を見合わせ、ようやく張り詰めていた緊張が解ける。

 その瞬間、自然と笑みがこぼれ、肩の力が抜けた。


「こんな作戦、二度とやらないんだからねっ!! ……っあ!」


 フウコは思わず口調がヒヨリに戻ってしまったことに気づき、恥ずかしそうに横を向き、頬を赤らめた。

 「一日ヒヨリ生活」で叩き込まれたヒヨリの精神は、簡単には抜けないようだ。


 シシンは穏やかな笑みを浮かべ、口を開いた。


「フウコ、本当に感謝している」


 その言葉に、フウコの顔がさらに赤くなる。


「でも、フウコ。演技を完璧にこなすには、技術だけでなく何より精神力が不可欠だということ、よくわかったでしょう? 今日の私の演技に、少しでも近づけるよう精進なさい」


 シスイの言葉に、誰もが心の中で『正直お前は何もしてないだろ』とツッコんだが、その瞬間に緊張は完全に解け、安堵の空気が広がった。


 作戦の内容を振り返りながら、それぞれの役割を噛みしめる五人。

 自分たちの手で大きな勝利をつかみ取ったことを、全員が実感していた。



 一方その頃、地上ではまだ興奮が収まらず、熱気に満ちていた。

 ヒヨリの華麗な活躍に歓喜する民衆の中で、ひときわその目を輝かせている人物がいた――モラタだ。

 彼の目には、子供のような無邪気な興奮が溢れていた。


「おいっ、ヒカル! 見ただろ!? ヒヨリさん、マジで最高にカッコよかったな!? なぁ、ちゃんと見てたか!?」


 あまりの熱量に圧倒されたヒカルは、内心では自分も興奮していたことを隠しつつ、少し余裕を見せて答える。


「あ、ああ……。まあ俺は甲種にいた頃、何度かヒヨリさんの戦いは見てたけどな。でもまぁ……今日のは特にすごかったんじゃねえの?」

「だろ!? あんなの生で見れたなんて、俺マジでやべぇよ!」


 興奮が抑えられない様子のモラタを横目に、ヒカルは頭の中で冷静に状況を整理しようとしていた。


 ――でも待てよ……、ヒヨリさんって、まだ拘置所にいるはずだよな。なのに、どうしてここに来れたんだ?


 さっぱり理解できない。


 ――ただ……あの老婆って多分、シシン先輩だよな……。ってことは、これは実際には戦闘じゃなくて、何か特別な作戦だったってことだろ……?


 断片的な情報から、ある程度の推測を立てることはできたが、それ以上のことはわからなかった。

 ふと隣を見ると、モラタが少年のように瞳を輝かせながら、まだ興奮気味にしゃべり続けている。その無邪気な姿を見ていると、ヒカルの口元にも自然と微笑が浮かんだ。


 ――まぁ、いいか。今はこいつの夢を壊さずにおいてやろう。


 ヒカルは胸の内に疑問をそっとしまい込むと、モラタの熱気に満ちた語りに軽く相槌を打ちながら、その余韻をもう少しだけ楽しむことにした。

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