第3話:朝の食堂
――ハルナさんがいない?
ヒカルの鼓動が早まった。
状況を理解しようとするが、混乱で頭がうまく働かない。不安と戸惑いに満ちた視線をパオタロに投げかける。しかし、パオタロは苛立ったように軽く舌打ちした。
『俺は知らん。何か起きたら、全部お前の責任だからな』
ヒカルだけ潜伏魔法が解除されたのだろうか。パオタロの輪郭が徐々にぼやけ、まるで煙が空気に溶けるように完全に消え去った。
「おい、パオタロ!?」
焦って呼びかけても返事はない。森の中は不気味なほど静まり返り、微かな春風の音だけが耳をくすぐった。
『……ヒヨリさんには気を付けろ』
パオタロの低い声は風に溶けるように消え、その気配も完全に途絶えた。
――あーめんどくさ、天然パーマ眼鏡のくせに!
いや、今はそんなことより、ハルナさんが消えた理由だ……。そうか、“ハルナ・ボルケイノ”って、瞬間的な爆発力で遠くまで一気に移動できる魔法……とか?
そう考えれば、目の前の風景におかしなところなんて一つもない。
……いや、まだ一つだけ気がかりなことがあった。
ヒヨリだ。彼女は一体何をしているんだ?
虫取り網のような奇妙な道具を握りしめ、まるで虚空を彷徨う何かを捕えようとしているかのように、表情一つ変えず、黙々と、執拗にそれを振り続けている。
よく見ると、その足元には精緻な魔法陣が描かれている。その周囲には、ヒカルが見たこともない奇妙な装置が地上だけでなく、空中にも無数に浮遊していた。
――なんだよこれ……。
背筋を冷たいものが伝う。
理解できない状況だからこそ、怖かった。
――ヒヨリさんを見つけたってことだけ、エミリに魔鳩で知らせておくか……。
俺も、さっさとここから離れたほうがいいかも。
「魔鳩は飛ばさないでね」
――ギクッ! バ、バレてる……!?
ヒカルは凍りついたように動きを止め、恐る恐るヒヨリを見つめた。
だがヒヨリは相変わらず真剣な表情で、虫取り網のような道具を懸命に振り回し続けている。
――俺のこと……じゃないよな?
ヒカルにとっては、『王血館への帰り道でヒヨリとハルナを見かけた』ただそれだけのことだった。だが、ヒヨリの異様な雰囲気のせいか、パオタロの警告のせいか、あるいはその両方なのか……。
いずれにせよ、今すぐこの場を離れたかった。
ヒカルはヒヨリの様子を気にしながら、静かにゆっくりと後ずさった。そしてヒヨリが完全に視界から消えたのを確認すると、王血館へ向けて一気に駆け出した。
まるで何か恐ろしいものから逃げるように。
その夜、ヒカルは森で見たことを誰にも話さなかった。
カイトやミヤコにも言わなかった。
エミリに魔鳩を飛ばすことすらしなかった。
『ヒヨリさんには気を付けろ』
パオタロの言葉が頭から離れず、まるでヒヨリに監視されているような気もしたからだ。
ヒカルは、ヒヨリやハルナが帰ってきても不審に思われないよう、普段通りに振る舞った。パオタロもいつもと変わらない様子だった。王血館のおばちゃんが作ってくれた夕ご飯を食べ、風呂に入り、みんなと他愛ない会話を交わし、温かなベッドで眠った。
しかし、その夜――ヒヨリとハルナが王血館に戻ることはなかった。
◇
――翌朝――
『魔鳩は飛ばさないでね』
「……うわっ! 」
ヒカルは飛び起きた。
周囲にはいつも通りの穏やかな朝が広がっていたが、なぜか拭いきれない違和感が残った。
――なんだ、夢か……。
カイトとミヤコのベッドはすでに空っぽだった。
二人はもう食堂へ行ったのだろう。
王血館では毎朝、一期生から三期生までの甲種クラスの生徒が一堂に会して朝食を取ることになっている。時計を見ると、朝食の集合時間まであと10分だった。
――やば、ギリギリだ。
とりあえず服だけ着替えて、残りは……。
「水と火と風を良い感じに調整してっと」
ヒカルは素早く空気中の水分を温水に変え、髪に霧吹きのように吹きかけて寝ぐせを直した。続いてドライヤーのように温かな風を生み出し、あっという間に髪型を整える。
この程度の魔法なら、属性加護がなくても普通に使える。とはいえ、そのための属性や魔力の調整は決して簡単ではない。
「相変わらず、器用な奴だ」
「……よぉ、パオタロ。どした?」
パオタロがヒカルの様子を見に来ることなんてほとんどない。
“昨日の出来事”がそれほど重大だということを示唆しているのだろうか。
「ふん……。まぁいい、その汚い顔と歯も洗っておけよ」
「……当然だろ」
――んああ! このまま食堂行こうと思ってたのにバレてんじゃん。
でも、パオタロも昨日のこと気にしてるのか……?
カッコつけてるくせに、案外小心者なのかもな、ププッ!
◇
王血館は、王血部隊のために建てられた巨大な建物だ。
その重厚で威厳ある佇まいは部隊の象徴的存在であり、甲種クラスだけでなく乙種クラスを含む144名の生徒たちが、生まれてからずっとここで生活している。食堂をはじめ医務室、教室、体育館など、生活と教育に必要な施設がすべて整っていた。
食堂は、広々としている。太く頑丈な丸太の梁で支えられた高い天井は圧倒的な存在感を放ち、その重厚な造りは、王血部隊に対するアモン国王の強い期待を示しているようだった。
ヒカルは時間ギリギリで食堂に滑り込んだ。
すでに甲種クラスの一期生から三期生まで全員が席についており、場の静けさが一層ヒカルを焦らせた。席に向かいながら、それとなくヒヨリとハルナの姿を探すが、二人の姿は見当たらない。
席に着くと、カイトとミヤコが小声で話しかけてきた。
「おはよう、ヒカル」
「おはよう、ヒカル」
二人の声が綺麗に重なり合う。
さすがは双子――ヒカルは心の中で小さく苦笑しつつ、軽く手を挙げてそれに応じた。
「おう、おはよう」
「今日は、朝食前に何か話があるみたいだよ」
「お前、起きるの遅いんだわ」
これまでの経験から言うと、朝食前に何か話がある場合、ほぼ確実に特別な事情が絡んでいる。通常の連絡は遅くとも前日までにクラスのミーティングで伝えられるからだ。
――こういう時の話って、絶対ろくなことないんだよな。
ヒカルは嫌な予感を必死に押し殺しつつ、わざと軽い口調で問いかけた。
「悪い悪い。それで、話ってなに?」
「知らん」
「わかんない」
双子なのに揃わない返事に、ヒカルはますます嫌な予感を強めた。
その時だった。
食堂内が突然静まり返り、自然と全員の視線が一箇所に集まった。
そこには、いつの間にか静かな威厳を漂わせて立つ人物の姿があった。
「ヒカル、時間いっぱいだ。もう少し早く集合しておけ」
シシン――王血部隊・甲種の部隊長だ。
王血部隊には、魔力器を三つ以上所持し、三種類以上の属性魔法を複合的に扱える「甲種」と、魔力器が三つ未満の「乙種」が存在する。戦闘を主務とする甲種は、一期生16名、二期生9名、三期生6名の計31名が在籍している。シシンはその31名を統率する立場であり、同時に「一期生・第二戦闘班」――通称「イチニセン」の班長も兼務する、卓越したリーダーシップを持つ人物だった。
ヒカルは背筋を伸ばし、慌てて軽く頭を下げた。
「すみません、気をつけます」
シシンは小さく頷き、短い沈黙のあと、隊員たちを静かに見回した。
わずかな緊張感が空気を引き締める。
「……これで全員揃ったな。実は早朝、ガスポール先生から連絡があった」
躊躇なく本題に踏み込むシシンの声音には、いつも通りの落ち着きが漂っている。状況が激しく変化するであろう実際の戦場では、彼の冷静かつ明瞭な判断力こそが、最も頼りになる武器となるに違いない。
だが、次の言葉は食堂の空気を一瞬にして凍りつかせた。
「昨日の夕刻、ハルナが死亡した」
張りつめた沈黙が場を支配する。微かな息遣いさえ、遠く響くようだった。
あまりにも唐突で受け入れがたい事実に、多くの隊員が言葉を失い茫然としていた。
――夕刻? ハルナさんが死んだって……!? 嘘だろ……?
だってその時間帯、俺は確かにハルナさんたちを見てたじゃないか……!
ヒカルは混乱した視線を隣のパオタロに向けた。
だが、パオタロはまったく動じる気配がない。鋭い視線の奥にあるのは動揺ではなく、まるで最初からこうなると知っていたかのような静かな覚悟だった。
シシンは冷徹な報告を終えると、静かに隊員たちを見渡した。
そこには、呆然とする者、驚愕に声を失った者、悲しみに沈む者たちがいた。
やがてシシンは短く息を吐き、抑えた口調で続けた。
「動揺する気持ちはよくわかる。だが、思考を止めるな。特に一期生――お前たちはすでに『属性解放の儀』を終え、成人した大人なのだからな」
その言葉に対して、少なくない隊員が反発するようにシシンを睨みつけた。
「シシン、それは間違ってるわ! ハルナが死んだのよ!? 誰もがあなたのように簡単に割り切れるわけじゃないわ!」
ハルナと同じ“イチサンセン”に所属するフウコが感情を露わに叫ぶ。その横に座るシスイもまた、黙ってシシンを静かに睨みつけていた。
シシンはわずかな間を置いた後、ゆっくりと口を開いた。
「来たる魔女戦では、俺は必ずお前たちを勝利へと導いてみせる……!」
その声音には揺るぎない決意が滲んでいた。だが続く言葉は苦い現実を告げるものとなった。
「だが魔女は、我が国の歴戦の猛者たちでさえ、まるで子どもを相手にするかのように殺した化け物だ。我々が勝利を掴むまでに犠牲が出ることは避けられないだろう。仲間が倒れていく光景に直面することも、覚悟しなければならない……」
シシンの澄んだ瞳は迷いなくフウコとシスイを見据えていた。その奥には底知れぬ強さと、決して表に出さない深い切なさが静かに揺れているようだった。
短い沈黙の後、シシンは静かな声で言った。
「フウコ、シスイ、お前たちならそれがわかるはずだ」
その声には彼女たちに対する信頼が現れていた。
「もし今この瞬間、何者かによって封印を解かれた魔女が大結界を破り侵攻を再開したらどうなる? 我々が機能しなければ、シングウ王国とその国民は再び蹂躙されるだろう。あの『ダーマンベルクの惨劇』を繰り返すわけにはいかない。俺たちは、ハルナの死を言い訳にすることは許されないのだ」
シシンの言葉が食堂に響き、再び深い沈黙が降りた。
――その時だった。
「パン!!」
鋭い音に全員が驚き、一斉に視線を向ける。
フウコが自らの頬を両手で強く叩いた音だった。
風のように激しい彼女の気性を示すかのように、黄緑色の美しい長髪が大きく揺れた。
フウコは無言のまま席に座り直し、まっすぐ前を見据えた。その表情には、弱さを完全に捨て去った強い決意が宿っていた。
シスイは静かにシシンを見つめていた。
聖水のように清く澄んだ瞳が輝き、今にも溢れ出しそうな涙を必死で押し留めているようだった。
シシンは二人の姿を確認し、心の中で密かに安堵した。
彼女たちはもう大丈夫だ――その確信に、彼の険しかった表情は僅かに和らいだ。
しかし同時に、シシンは『まだ足りない』とも感じていた。
ハルナは極めて優秀な人材だった。そのハルナを失った今、隊員一人一人にはこれまで以上の強さを求めなければならない。甘えを許さず、現実を直視する覚悟を持たせる必要がある。シングウ王国、そして王血部隊が直面している状況は、それほどまでに逼迫しているのだ。
「他の者も、よく聞いてほしい」
シシンは普段以上に慎重に言葉を選んで話し始めた。
「そもそも『大賢人』と呼ばれ、我が国で崇められている男も、本当に信用できるかどうか定かではない。国民に希望を与えるため秘匿されているが、実際には先代国王ガンモン様の前に突如現れ、一分足らずで一方的な言葉を残して消え去った――ただそれだけの人物だ。だが、魔女に対抗する術を他に持たない我が国は、あの男の言葉を信じる以外に選択肢はないのが現状だ」
シシンは少し間を取るように眼鏡に手をやった。
長身の彼がそうすると、大きな手が顔の大半を覆い、その表情をうかがうことは難しい。だが彼が眼鏡から手を離した時、その瞳には部隊長として揺るぎない覚悟が宿っていた。
「だが、少なくともこの国における唯一の刃である我らは、その男の言葉を鵜呑みにしてはならない。“魔女が封印されている”という話も、“大結界が三十年存続する”という話も、“光属性の力を持つ者が現れるだろう”という話も、実際には何の根拠もないのだ」
シシンの声は静かだったが、底知れぬ重みを伴って響いた。
「明日の平和を保証するものは何もない。平和とは、我々が命を懸けて守らねばならないものだ。泣いても悲しんでも構わない。だが、考えることから逃げるな。ハルナは自らの死を通して、我々に大切なことを教えてくれたと受け止めてほしい」
シシンは全員をゆっくりと見渡した。その視線の先には決意に満ちた隊員たちの表情があった。食堂の空気に静かな熱が広がっていくのを、シシンは確かに感じていた。
隊員たちの決意を見届けると、シシンは短く問いかけた。
「何か質問のある者はあるか?」
――ちょっと待ってくれ……。
シシン先輩の迫力に圧倒されて、質問なんか思いつく余裕ないって……。
ヒカルが戸惑う間もなく、重厚な、場を圧倒する声が響いた。
「ガスポール先生と貴様を疑うわけではない。だがハルナの死については、情報の信頼性、その根拠、そして死因を明確に説明すべきだろう。当然、ヒヨリがここにいない理由についてもな」
「モンドの言う通りだ。それにハルナの抜けた“イチサンセン”――すなわち『フウコとシスイの役割をどうするか、戦術や戦略面での見直しは避けられない』と言える。すなわち『明日に“属性解放の儀”を控える甲種・二期生が新たな戦力として合流すれば、戦略の再調整は急務となる』だろう」
カイエンの言葉には、巨体のモンドとは異質の鋭さがあった。彼は矢継ぎ早に言葉を放ち、その勢いはまるでマシンガンの連射のようだった。口癖の「すなわち」が響くたび、それは新たな弾丸を装填するように議論の熱を高めていった。
――シシン先輩と同じ“イチニセン”のモンド先輩とカイエン先輩だ……。
ていうか、この三人の“イチニセン”ってヤバすぎだろ……。
「モンド、カイエン、貴様らの言うとおりだ」
――なるほど、“イチニセン”では親しみを込めて『貴様』と呼び合う感じなのか。
……超カッコいい! 俺もちょっとやってみるか?
ヒカルは心の中でカイトとミヤコに呼びかけてみた。
『俺と貴様らがいれば魔女にも勝てるだろう』
だが、どうもしっくりこない。
むしろ、ぎこちなさだけが心に残った。
そんなことを考えている間にも、シシンの話は続いていた。
「……カイエンが指摘した戦術・戦略の見直しに関しては、本日よりガスポール先生が中心となって進める。当然、それに長けた貴様らの協力も必要だ。次に、ハルナの死についてだが、情報の信頼性は99%という評価だった。その根拠とヒヨリが不在の理由について詳細は明かせないが、情報源は……ヒヨリ本人だ」
――ヒヨリさんが情報源だって!?
あのときヒヨリさんはハルナさんと一体何をしていたんだ……?
俺が見たあれは、一体なんだったんだ……。
「最後に、ハルナの死因について話す。甲・二期生や甲・三期生の諸君は、初めて耳にする言葉かもしれないが――」
――まさか……そんな……。
シシンは険しい表情で僅かに間を置いた。
隊員たちが息を呑む中、静かに、しかしはっきりと告げた。
「――魔女の嫉妬だ」
第3話までお読みいただきありがとうございます。
現在は序章といいますか、物語の舞台が整うまで15話を予定しています。
序盤はミステリ要素強めで、謎に包まれながらゆっくりと展開していきますが、徐々に加速していきますので、今後の予想外の展開をぜひ楽しんでいただけると嬉しいです。
引き続きよろしくお願いします。