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第31話:夜に消えた約束

 その後、猫はヒヨリと何気ない会話を楽しんだ。


 他愛もない話題から始まり、やがてヒヨリは、ふと思い出したように前回猫に尋ねられて答えられなかった質問――『今、君にとって最も信用できる人は誰なのかを知っておきたいと思って』――に触れ、自分にも信頼できる人がいたことを語り出した。


 その人物とは、シシンのことだった。


 ヒヨリは嬉しそうに、シシンとの思い出を語った。そのときのヒヨリの笑顔は、まるで温かな光を受けて咲く花のように明るく輝いていた。この独房でヒヨリを最初に見たときには、とうてい想像できなかった表情だ。


 猫は、その笑顔を静かに見つめながら、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。


 ――よかった。君にも、そんなふうに心から笑える相手がいたんだね。


 そして、心の中で静かに決意を固める。


 ――君を必ずここから解放する。君はこんなところにいるべき人間じゃないんだ。


 いつしか時間は遅くなり、猫はゆっくりと立ち上がった。


「遅くなっちゃったね。今日はここまでにしようか」


 そう言いながら、静かに鉄格子へと歩き出す。

 ヒヨリは一瞬、何かを伝えようとして小さく唇を動かしたが、すぐにその言葉を飲み込み、ただじっと猫の背中を見つめていた。


 猫は鉄格子の前で立ち止まり、一度だけ振り返る。

 目に焼き付けるように、静かな視線でヒヨリを見つめた。


「またいつか来るよ」


 その言葉に、ヒヨリの瞳が微かに揺れた。


「……明日は……きてくれないの?」


 その問いかけには、隠し切れない寂しさと小さな不安が込められていた。

 猫はかすかに唇を噛みしめ、小さく息を吐いた。


「……実は、別の仕事が入ってしまってね。当分、出張に出なければならなくなったんだ」


 口にするだけで胸が締めつけられる。

 もしかしたら、これがヒヨリと会える最後の機会になるかもしれない――。

 ヒヨリの瞳を見ていると、そんな悪い予感が静かに胸を波打たせた。


「でも、心配しなくていいよ。君をここから出すための算段は必ずつけておくから」


 ヒヨリはそれを聞いても、すぐに何かを返すことはなかった。ただ静かに猫の言葉を噛みしめるように瞳を伏せ、そして、ぽつりと呟いた。


「あなたって……一体、何者なの?」


 その声は震えており、ヒヨリの中に渦巻く、微かな不安と信じたい気持ちとが混ざり合っていた。

 猫はヒヨリの瞳を見つめ返し、わずかに微笑んだ。その微笑みの奥には、ヒヨリには決して伝えることのできない寂しさと、強い決意が混じり合っていた。


「ハハ、しがない街の便利屋さ」


 それが今伝えられる精一杯の答えだった。

 彼は最後にもう一度だけヒヨリを目に焼き付け、それから静かに独房を去った。


 独房に再び訪れた静寂の中で、ヒヨリは一人ぼんやりと鉄格子を見つめていた。

 胸の奥に残ったぬくもりはまだ消えず、それがなぜか、とても切なく感じられた――。



――拘置所の外――


 拘置所を出た猫は、夜の闇に溶け込むように、人気のない道を歩いていた。


 三日前、猫が突然ヒヨリを訪れなくなった日、王血部隊・乙種クラスのダイタが行方不明になった。

 そして昨日、そのダイタの遺体が発見された。しかも遺体からは、全身の血液が完全に抜き取られていたという異様な状態だった。


 猫はこの数日間、ヒヨリを救い出すために奔走していた。

 これまで治安を守り続けてきたヒヨリが捕まった途端に発生した異常な事件――乙種とはいえ、セキュリティ体制が万全な王血部隊が直接狙われたのだ。偶然であるはずがない。明確な意図が背後にあることを、猫は確信していた。


 だが、そのことをヒヨリに伝えることはしなかった。


 ――……いや、言わなかったんだ。


 ようやくヒヨリの心に明るさが戻り始めたところだった。

 ここでダイタの悲惨な事件を知らせれば、ヒヨリのことだ――せっかく取り戻しかけた小さな光は、自責の念に呑み込まれ、再び深い闇へと落ちてしまうだろう。


 それだけは絶対に避けなければならない。


 猫は静かに息を吐き、小さく首を振った。

 そして気持ちを切り替えるように、ひとつの決意を新たにした。


 ――ヒヨリを、必ずあの独房から救い出す。


 冷え切った夜の空気を肺いっぱいに吸い込んだ、その瞬間だった。

 背筋にぞわりと不穏な悪寒が走り、猫は鋭く動きを止めた。


 こんな時間、こんな場所に人がいるはずもない。

 だが明らかに、何者かの気配が自分を狙っている。


 ごく微かな、魔力の揺らぎ。


 ――まずい……!


 とっさに振り返ろうとしたその刹那、鋭い激痛が背中を貫いた。


「ッ……!?」


 熱い鮮血が腹部から溢れ、視界がぐらりと歪む。背後から放たれた鋭利な“水の矢”が、無防備な身体を貫通していた。


 ――属性加護魔法による攻撃……素人じゃない……!


 激痛と衝撃に、心が焦燥に支配される。


 ――くそっ……、悪い予感が当たった……!!


 水の矢が体内に染み込み、神経を麻痺させていく。

 呼吸が苦しくなり、意識が急速に遠のく。


 ――こんなところで倒れるわけには……!


 歯を食いしばり、必死に抗おうとするが、猫は耐えきれずにその場に膝をつき、夜の闇の中に崩れ落ちた。


 薄れゆく意識の中で、誰かの声が聞こえてくる。


「ターゲット……功です。……ますか?」


 ぼんやりとした視界に、黒い影がゆっくりと近づいてくるのが見えた。


「急ぎ……する……に。……マン様にも……お伝え……け」

「……ました」


 直後、鋭く細い痛みが腕を貫き、血が体内から抜き取られていく感覚に襲われる。

 このままでは、ダイタと同じ運命を辿ることになるのは明らかだった。


 ――派手に動き過ぎたか……ヒヨリを救おうとする俺が邪魔になったらしい……。


 猫は霞む視界の中で、静かに息を吐いた。


 ――だが、それは俺が王血部隊員として正しい道を歩いていた証だ。

   ここで簡単に終わるわけにはいかない。これ以上、ヒヨリに格好悪い姿を見せるわけにはいかないからな……。


 もしここで自分が殺されれば、ヒヨリはこのまま死刑にされてしまうかもしれない。

 そうなればヒヨリが必死に守ろうとしてきた想いは、誰にも届かず消えてしまう。


 ――そんな未来を、ヒヨリに見させてたまるか。

   それだけは、俺が絶対に許さない……!


 激痛と痺れが容赦なく全身を襲う。

 だがまだ――ほんの僅かに、魔力を動かせる感覚が残っている。変身の解除くらいなら、できるはずだ。


 ――諦めるな。


 今、ここで立ち止まるわけにはいかない。やれることをやれ。

 残された力をすべて振り絞り、猫は深く息を吸い込んだ。


「ぐうぉぉおおおおおおおおおっ!!!」


 強烈な閃光が夜の闇を切り裂き、猫は人の姿へと戻った。

 変身解除による衝撃で敵は激しく吹き飛ばされ、闇の中で地面を転がった。


 一瞬の静寂が辺りを包む。


 ――よし、動ける……!


 猫よりも大きな人間の姿に戻ったことで、麻痺の効果が緩和されたのだろうか。

 指先にじわりと温かい感覚が戻り、わずかだが体を動かせるようになっていた。


 ――俺、甲種にはなれなかったけどさ……これは甲種級の働きだったろ?

   ……俺を許してくれ、ヒヨリ。


 目を閉じ、心の中で小さく呟く。


 ――じゃあな。


 次の瞬間だった。

 その人物――ミロは目を大きく見開き、震える声で叫んだ。


「禁忌魔法、メモリア・ロード・シシン!!」


 ミロの身体は光の粒子となって空間に溶け込み、跡形もなく消え去った。


「ターゲット消失!!」


 敵は混乱し、狼狽した声を上げる。


「何をしている! 絶対に逃がすな!」

「申し訳ありません! 拘束に成功し、血液採取も行ったのですが……!」


 そこへ、威圧感を纏った男がゆっくりと歩み寄り、冷たく告げる。


「言い訳など要らん。ミロを見つけ次第、即刻抹殺しろ!」


 男の怒号が夜の空気を震わせる。

 後には月明かりだけが静かに残り、ミロがそこに存在した儚い痕跡を淡く照らしていた――。

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