第30話:束の間の安らぎ
猫は語った。
王血部隊・甲種クラスの子たちは全員無事であること。
そして、ヒカルはどの属性にも加護が付かず、現在ガスポールのもとで調査が進められていることを。
ヒヨリは王血部隊・甲種クラスの子たちが無事だと聞くと、ふっと安堵の息を漏らした。しかしヒカルが無属性だったことには、ほんの一瞬だけ表情を曇らせたが――
「そうだよねぇ……」
そう軽く呟くだけで、ケーキを口へ運び続けた。
あまりにも淡々としたヒヨリの反応に、猫の耳がわずかに動く。
――やっぱり、君って……。
だが猫はそれを口にはせず、静かに話を続ける。
ハルナ、ヒヨリ、ヒカルの離脱に伴い、班が再編されたこと。それに合わせて、班長決定試合が開催されたことも伝えられた。
話を聞き終えると、ヒヨリがぽつりと尋ねた。
「ガブリエウ君はどんな様子だったのかなぁ?」
猫は静かに答える。
「ガブリエウ君は、ルール違反の魔法を使って失格になったよ」
そう言うと、猫は“ニイサンセン”の班長決定試合がどのような内容だったのかを語り出した。
ヒヨリは、時折ケーキを口に運びながらも、じっと話に耳を傾けていた。
しかし、その表情は終始落ち着いており、驚いた様子はなく、むしろ「やっぱりね」とでも言いたげな表情を浮かべている。
その様子を見て、猫の耳が再びピクリと動いた。
猫は、ヒヨリの様子を観察しながら、ゆっくりと口を開く。
「もしかして、君って、未来が見えているのかな?」
その瞬間、ヒヨリの手がピタリと止まった。
心臓が跳ねるように脈打ち、息が詰まるほど胸が締め付けられる。
「え……な、なななんで……そ、そんなの見えるわけないよぉ……」
フォークを握ったまま、ぎこちなく視線をそらす。
「ちょっとガブリエウ君の行動が気になって聞いてみただけだよぉ~」
そう言いながら、ヒヨリはフォークをケーキに突き刺した。
だが、その力加減は妙に強く、ケーキのクリームがわずかに飛び散る。
その手元は、かすかに震えていた。
猫は、そんなヒヨリの様子を見て、ふっと小さく息を吐く。
「もしかして……未来が見えるって言わなくなったのは、幼い頃、それで少し嫌がらせを受けたから……だったりするのかな?」
静かに放たれた言葉。
ヒヨリの手が止まり、空気が変わる。
「あれが……“少し”?」
ヒヨリの声が、震えるように小さく響く。
脳裏には、ミロたちの顔が浮かび、思い出されるのは嘲笑する声、冷たい視線、突き刺さる言葉の数々、そして“ヒヨリぼっち”――。
「ふざけないでっ!!」
ヒヨリの怒声が独房の静寂を裂く。
「全然、少しなんかじゃないっ!!」
怒声の余韻が、独房の静寂に溶けていく。
けれど、感情の波が引いた瞬間、自分の心臓の音だけが耳の奥で響いていた。
ヒヨリは、思わず吐き出した言葉の重みが、自分自身にのしかかるのを感じた。
しまった――今の反応は……未来が見えると認めたも同然かもしれない。
「えっとね……」
焦りが滲んだ声。
喉が渇き、舌がもつれるような感覚に襲われる。
「嫌がらせがあったのは本当なんだけど……その……未来が見えるとか、そういうのじゃなくって……」
慌てて言葉を重ねるが、ヒヨリはもう猫と目を合わせることができなかった。
猫は、静かに瞬きを一つする。
まさか、ヒヨリがここまで激しく反応するとは思わなかった。
彼女の抱える痛みは、自分の想像よりもはるかに深く、消えずに残り続けていた――まるでその出来事を幾度も繰り返し経験してきたかのような、深く沈んだ痛みを帯びているように感じられた。
猫は、胸の奥が強く締めつけられるような思いがした。
「……ごめん」
猫は小さな声でそう言った。
「……そっか」
ヒヨリが顔を上げる前に、猫はそっと唇を噛みしめる。
「君は、ずっと、ずっと苦しんでいたんだね……」
その言葉には、ただの同情ではない響きがあった。
まるで、自分の中にも似た痛みがあるように、静かに、確かに胸に響いていた。
ヒヨリの喉が、小さく動く。
胸の奥に、ぐっと何かが詰まる感覚が広がった。
「あっ、えっと……ネコちゃんが謝ることじゃないっていうか……その、嫌がらせは昔のことだし、今はもう全然平気だから……」
自分でも驚くほどかすれた声だった。
フォークをそっと握り直す。
けれど、ヒヨリにとっては、トラウマの話なんて、今は、どうでもよかった。
それよりも――自分には未来が見えると、猫に気づかれたかもしれないことのほうが、よほど問題だった。
「ええっと……」
この話を続ければ、もっと心の奥を見透かされてしまう――。
そんな予感が、ヒヨリの胸の奥をざわつかせた。
――少しでも、何か違うことを話さないと……。
小さく息を吸い込む。
「……そうだっ! エミリちゃんのこと、聞いてもいい?」
猫は、ヒヨリが話を変えようとしているのを察していた。
だが、それに触れるつもりはなかった。
ヒヨリが未来を何らかの形で見ている――。
その確信を得た今、猫にとって必要なのは、問い詰めることではない。
それよりも、大切なのは“ヒヨリが何を見て、何を選び、何を守ろうとしたのか”だった。
ヒヨリが修道院を襲撃したのは、未来で何かを見たからだ。
ならば、そこにどんな経緯があろうとも、ヒヨリの選択は「この国を守るため」だったはずだ。
――それは信じられる。
それが、猫の答えだった。
「……あの試合はね」
猫は短く息を吐き、言葉を選ぶように口を開く。
「エミリ君にとっては、少し……酷だったと思うよ」
ヒヨリのフォークが皿にカチリと触れた。
静まり返った独房の中で、その音だけが、やけに大きく響く。
「酷だった……? 」
ヒヨリは胸の奥で、わずかに不安を覚えた。
エミリのことを知りたいような、知るのが怖いような――
そんな曖昧な気持ちが心の隅に滲んだ。
猫の耳が、かすかに動く。
――エミリ君のことは、知らないんだな……。
猫は、一拍置き、静かに言葉を紡いだ。
「そうなんだ」
そして、言葉を探すように、ゆっくりと語り始める。
「……エミリ君は、ハルナ君が抜けた穴を埋めるかたちで、一期生の中に加わることになったのは話したよね?」
ヒヨリは小さく頷く。
猫は言葉を続けた。
「試合前、エミリ君は気合十分だったよ。朝の食堂でも、シシン君から期待の言葉をかけられていたしね」
猫は、それまでスフィンクスのポーズで落ち着いていたが、ゆっくりと四つ足で立ち上がると、言葉を続けた。
「だけど、一期生たちとの実力差があまりにも大きかったんだ」
ヒヨリは、わずかに眉を寄せながらも、黙って話を聞いている。
「フウコ君は、シスイ君に対して一対一で戦うことを提案した。ルールは、お互いにエミリ君への攻撃は一切しないというものだった。シスイ君はそれを受け入れた」
「その一方で、フウコ君は、エミリ君にこうも言ったんだ。『あなたは、誰をどのように攻撃してもいい。その結果、もしポイントを積み重ねることができたら、あなたを班長として認める』と」
ヒヨリの指先が、フォークを強く握りしめる。
「そんな……」
猫は静かに頷いた。
「屈辱的だったはずだ」
猫の言葉が独房の静寂に滲む。
猫は、一拍置き、“イチサンセン”の試合内容を語り始めた。
「それでもエミリ君は、試合が始まるとすぐに属性解放し、攻撃の準備に入ろうとしていたよ」
「だけどその時点で、フウコ君とシスイ君は、すでに激闘を繰り広げていた。まず、二人とはスピードが違い過ぎたんだ。あらゆる面でね」
ヒヨリはゆっくりと首を横に振る。
「“属性解放の儀”が終わって間もないし、それは仕方ないんだよぉ……」
猫は軽く瞬きをし、言葉を継いだ。
「それはもう、風と水がぶつかり合う、凄まじい戦いだったよ。そんな中、エミリ君は火と土の属性魔法で、二人の戦闘に割って入ろうとしたんだ」
猫は、わずかに口元を引き締める。
「だけど、エミリ君の火はシスイ君の水に、土はフウコ君の風に、いとも簡単にかき消された。その瞬間、エミリ君の表情には焦りと動揺が広がっていた。けれど、それでも諦めず、エミリ君は何度も攻撃を試みていたよ」
ヒヨリは、そっと息を吐く。
「単調な攻撃だと、有利属性の相手には…………通じないんだよぉ……」
猫は軽く頷いた。
「結局、エミリ君は二人の戦闘に入り込むことすらできず、蚊帳の外におかれた。フウコ君とシスイ君の激闘だけが、ただ続いたんだ」
猫の語る試合の光景が、ヒヨリの脳裏にゆっくりと浮かんでいく――。
一期生の二人に必死に食らいつこうとするエミリ。
諦めずに何度も攻撃を繰り返す。
それでも攻撃は届かない。何も変わらない。焦りだけが募っていく。
一撃も当たらない。相手にすらされない。
まるで、そこに存在すらしていないかのように――。
その光景は、想像するだけでも胸が締めつけられるほど、あまりにも残酷だった。
ヒヨリの胸の奥に、じわりと熱いものが込み上げる。
想像の中のエミリの顔は、痛々しいほどの悔しさと、虚しさが滲んでいた。
ヒヨリは、フォークをそっと皿の上に置いた。
さっきまでケーキを楽しんでいたはずなのに、もうそんな気分ではない。
視線を落とし、ふっと静かに息を吐く。
その吐息は、静寂に溶け込むように、独房の空気へと消えていった。
やがて、ヒヨリはぽつりと声を漏らした。
「エミリちゃん……」
猫は、その言葉に反応し、一瞬だけ目を細める。
ゆっくりと息を吐き、静かに言葉を続けた。
「最終的には、フウコ君のスピードが決め手になり、シスイ君よりも僅かに早く10ポイントに到達して、試合は決着したよ」
ヒヨリは、そっと拳を握りしめた。
猫はヒヨリの様子をじっと見つめ、しばし沈黙した後、静かに言葉を紡いだ。
「エミリ君にとって、トラウマにならなければいいんだけどね」
ふっと息を吐くように言った猫の声には、かすかに憂いが滲んでいた。
だが、その言葉にヒヨリは即座に首を横に振る。
「でもね、ネコちゃん。それは違うの」
思わず、強めの声が出た。
ヒヨリ自身、驚くほどはっきりとした言葉だった。
「エミリちゃんは、そんなに弱くないよ。この経験は、きっとエミリちゃんをもっと強くするんだよぉ」
その瞬間、ヒヨリの胸の奥にストンと何かが落ちた。
同時に、フウコたちの姿が脳裏に浮かぶ。
――そっかぁ……。
口元がわずかに緩む。
――フウコちゃんたちも、エミリちゃんにすっごく期待してるんだ。
だからこそ、あんなに厳しく……。
ヒヨリの言葉と表情を見て、猫は気づいた。
これこそが、魔女との戦いを宿命づけられた王血部隊・甲種に背負わされた責務なのだと。ヒヨリの覚悟が、少しだけ見えたような気がした。
「そっか……。そうかもしれないね」
ここにいるのは、責任を一身に背負い、独房に閉じ込められてもなお、王血部隊の仲間たちを愛し、信じ続けて、何かを守ろうとしている少女。
何を守ろうとしているのかまでは分からない。
けれど、その姿を見ていると、胸の奥に、何とも言えないやるせなさが広がる。
猫は、そっと尻尾を揺らす。
ヒヨリの静かな吐息と共に、独房の冷たい空気が、かすかに揺れた。




