第29話:約束が運んできたもの
――拘置所・独房――
ヒヨリは、静かに目を開けた。
――私には……シシン君がいた。
信頼できる人が……いたんだ。
その事実を思い出したとき、ヒヨリの胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
そして、気づくと――頬が濡れていた。
涙があとからあとから溢れてくる。
そっと手の甲で頬をぬぐう。
ふと、何かが、視界の端で揺れた。
ゆっくりと顔を上げると――。
あの猫だった。
鉄格子の向こう側から、じっとヒヨリをのぞき込んでいる。
いつものように飄々とした表情で、しかし、その瞳だけは、どこか真剣にヒヨリを見つめていた。
「……えっ?」
突然の来訪者に、ヒヨリは息をのんだ。
驚きのあまり、涙もすっかり引っ込んでしまった。
「な、なんで……!? 本当に……?」
そんなヒヨリを前にして、猫は何事もなかったかのようにふらりと近づいてくる。
その両手には、箱が抱えられていた。
「やぁ、調子はどうだい?」
――はいい……?
来てくれたのは、正直ちょっと嬉しい。
でも、三日も遅れておきながら、第一声がそれってどうなの……。
横目に猫を見やると、猫は尻尾を軽く揺らしながら、ヒヨリの目の前に箱をそっと置いている。
その動きはどこか優雅で、自信に満ちている。
――いやいやいや……ちょっと待って?
三日も遅れてきて、その余裕は何なのかなぁ?
そんな態度を見てたら、ヒヨリだって、いじわるの一つや二つは言いたくなる。
「明日って言ってたのに、ちょっと来るの遅くないかなぁ?」
得意げな猫を前にして、ヒヨリは思わず口をとがらせる。
ただ、あの箱に入っているであろう中身――待ち焦がれていたケーキを前にして、猫に対する警戒の色は、もはや微塵もない。
猫は尻尾をふわりと揺らし、気にするそぶりもなく肩をすくめた。
「ゴメンよ、こっちも色々あったんだ」
「でも……そんなにケーキを楽しみにしてくれてたのかい?」
猫は意地の悪い笑みを浮かべながら、ヒヨリの顔を覗き込んだ。
その問いかけに、ヒヨリの眉がピクリと動く。
一瞬、ムッとしたように頬を膨らませたかと思うと、勢いよく言い返した。
「べ、別にケーキのために待ってたわけじゃないんだからっ!」
言い放った瞬間、自分の気持ちを見透かされているような気がして、ヒヨリはハッとする。
頬がじわじわと熱くなり、思わず目をそらしてしまった。
「ハハ、ごめんごめん」
猫はクスクス笑いながら、ふと真面目な表情になった。
「じゃあ早速、君から頼まれた王血部隊の現況について話をしてあげよう」
……話は聞きたい。でも、本当はケーキも大事。
目の前にケーキがあるのに、お預けのまま話を進められても、正直、集中できる自信がない。
「でもね、せっかくケーキもあるのなら……その……早めに食べないと……」
ヒヨリが言葉を濁しながら遠回しに催促すると、猫はわざとらしく小首をかしげ、ニヤリと口角を上げた。
「ふぅん? さっきは『ケーキなんて待ってない』とか言ってなかったっけ?」
ヒヨリは少し恥ずかしそうに目線をそらす。
気付けば、また猫のペースに持ち込まれている。それも気に入らない。ムッとしたように頬を再び膨らませた。
「ハハ、冗談だよ。まぁ、お姫様の頼みだし、開けるとしようか?」
そう言いながら、猫は箱の蓋をゆっくりと開ける。
ふわふわの生クリームがたっぷりとのった、大きなケーキが姿を現した。
「うわぁ……」
ヒヨリは思わず声をこぼす。
ケーキの威力はすさまじい、それまでの負の感情の全てを洗い流した。
――本当に大きい……。
猫はにやりと笑いながら、ケーキをヒヨリの前にそっと置いた。
その仕草はどこか誇らしげだ。
「さあ、お姫様。特別なデザートをどうぞ」
その言葉に、ヒヨリはゴクリと唾を飲み込んだ。
こんな大きなケーキを食べたら、絶対にカロリーオーバーだ。
太りやすい自分の体型を気にするヒヨリ。
――だけど……大丈夫っ!!
今回は食べてもいい、確かな理由がある。
独房に入ってからずっと、あれだけ粗末な食事で過ごしてきたんだから。
――それに、ちょっと痩せた気がするし……。
ヒヨリは 必死に、大きなケーキを食べるための言い訳を探す。
ずっと大好きな甘いものを我慢してきた。
三日前に猫から貰ったクッキーが久しぶりだった。
それが呼び水になって、甘いものが欲しくて欲しくてたまらない。
――だから今日くらい、ケーキをたくさん食べたっていいよね。
ヒヨリは目を潤ませながら、そっとフォークを手に取る。
ふわふわの生クリームを崩さないように、慎重にフォークを入れる。
柔らかなスポンジが、フォークの先ですっと沈み込む。
ヒヨリは、そっとフォークを持ち上げた。
生クリームの甘い香りがふわりと漂い、鼻をくすぐる。
「ネコちゃん、ありがとぉ~!!」
嬉しさがこみ上げ、ヒヨリは目を細める。
そして、ゆっくりとフォークを口へ運んだ。
「いただきま~す!」
猫は、素直になったヒヨリを見つめながら、顔を緩めてウンウンと頷く。
その目は、どこか優しげだった。
「それじゃあ、王血部隊・甲種クラスの二期生の子たちから現況を伝えようか」
そう言うと、猫は 話が長くなると悟ったのか、前足を揃えて堂々と座り込み、まるでスフィンクスのように構えた。
猫は語り始める。




