第28話:目に見えなかった真実
――拘置所・独房――
ヒヨリは、静寂の中でゆっくりと目を開けた。
あの日、あの地下倉庫で、私は裏切られた。
けれど、それは今も変わらない――約束の日から三日過ぎても、あの猫は来なかったのだから。
だったら、もう最初から誰も信用しないと決めればいい。
独りなら傷つくこともない。迷うこともない。
冷静に、最善の選択を下せる。
これまでずっと、そうやってきた……はずなのだから。
ハルナの時もそうだ。
ハルナには、自分こそが光属性であり、新魔法を生み出せる選ばれし者だという強い信念があった。
彼女は新魔法を使うことで、その力を証明しようとしていた。
そんなハルナを“魔女の嫉妬”から救うために、ヒヨリはありとあらゆる方法を試した。
どれほどの過去を繰り返したかわからないほどに。
しかし、過去へ戻るたび、ヒヨリの“時間を戻す能力”は、その重大な欠陥によって制約を受けた。
この能力は、存在を知った者や、それに疑念を持つ者が増えるほど戻せる時間が短くなるという性質を持っているのだが――過去に戻ることによって消えてしまう未来もそのカウント対象になっているらしく、例えば、誰かに見られた状態で時間を戻すと、戻せる時間が必ず短くなることがわかっていた。
そのため、ヒヨリはハルナを救うために、誰にも見られていない状況で過去へ戻り続けていた。それなのに、なぜか戻せる時間が理由もなく削られていった。
何かがおかしい。
見えない何かが、ヒヨリを追い詰めているかのようだった。
原因を突き止めようと、ガスポールとライクンは持てる全ての知識と技術を駆使し、何度も検証を重ねたが、それでもこの異常の正体を掴むことはできなかった。
最初は数日間戻れていたヒヨリの能力が、いつしか半日も戻れなくなってしまった。
ついにガスポールは苦渋の決断を下した。
「このままでは、魔女との戦いを迎える前にヒヨリ君の能力が完全に消えてしまうからの……ハルナ君を諦めるほかない」
その決断は冷たく非情だったが、それが最も合理的な判断であることも理解できた。感情を切り捨て、目的を優先しなければ、より多くの犠牲が出る可能性があった。
だからこそ、ヒヨリもその決断を受け入れるしかなかった。
――それなのに……。
独房の冷たい空気が、頬をなでる。
ヒヨリはその冷たさをぼんやりと感じながら、無機質な天井をただ見つめていた。
一度、深く息を吐く。
――どうして、こんなことになったんだっけ……。
独房に入ってからどれくらい時間が過ぎたのか、もうよくわからない。
最初のうちは、ほんの少しでも考え始めると、心がバラバラに壊れてしまいそうだった。
だから、何も考えないことにした。
ただ静寂の中で、息をするだけの日々を過ごしていた
やがて時間の感覚がぼやけ、過去の記憶さえ霞がかってしまった。
自分がなぜここにいるのか、その理由さえ曖昧になりつつあった。
けれど猫が話し始めたあの日、凍りついていた心に、小さなひびが入った。
特に、あの言葉だ――。
『君にとって最も信用できる人は誰なのかを知っておきたいと思って』
妙に心に引っかかっていたその言葉に触れたとき、ヒヨリの意識が静かに揺れた。
記憶の底で眠っていた何かが、ゆっくりと目を覚ますような感覚だった。
ぼやけていた記憶が、少しずつ鮮明になっていく。
――……そっか、思い出した。
あの時ヒヨリは、ハルナを諦める代わりに、ガスポールへある提案をしたのだ。
『“魔女の嫉妬”を立体再生できるように記憶しておいて、それをもとに“魔女の嫉妬”の仕組みを解明するべきです』
その言葉にガスポールとライクンは深く頷き、実行に移すための具体的な作戦が立案された。
そして偶然にも、その作戦の実行中に、戻せる時間が短くなっていた理由が明らかになった。
――そうだ……! 犯人はパオタロ君だったんだよぉ。
それは、ハルナが“魔女の嫉妬”で消えた後、ヒヨリがその“残り香”である属性のカケラを集めていた時のことだった。
ヒカルが魔鳩を飛ばしたことで、ヒヨリが集めていたカケラに余計な属性が混ざり、作戦が失敗した過去を辿ったことがある。
その際、ヒカルを問いただしたところ、ついさっきまでパオタロも傍にいたことを教えてくれたのだ。
ヒカルの言葉を聞いた瞬間、ヒヨリの中で、点と点がつながる感覚があった。
そういえば……戻せる時間が削られるだけじゃなかった。
不可解な出来事が、これまで何度もあった。
繰り返す過去の中で感じていた小さな違和感――。
つまり、それらの不可解な出来事を含め、ヒヨリの能力が徐々に削られていった原因は、ずっと潜伏してヒヨリを監視し続けていたパオタロだったのだ。
このままでは、いつか時間を戻せなくなる。
ヒヨリは、急いで手を打たなければならなかった。
最初に思い浮かんだのは、パオタロの説得だった。
しかし、パオタロは聞き入れなかった。
パオタロを納得させられるような言葉を、ヒヨリは持ち合わせていなかった。
説得は無理だ。ならば――別の方法を取るしかない。
他に頼れる相手は……いない。
きっと王血部隊・一期生の誰もが、自分を疑っている。
その時、不意にシシンの言葉が頭をよぎった。
『俺にはモンドを救ってくれた件でお前に借りがある。いつかその借りを返させてくれ』
シシンに頼るしかなかった。
彼は約束を守る男だ。それだけは信じられる。
だが、シシンが現れてもパオタロは退かなかった。
圧倒的な戦力差を前にしても、ヒカルと共にヒヨリたちに立ち向かってきた。
それどころか、パオタロたちは、ためらいもなく、ヒヨリを断罪するような言葉を言い放った。
それは……確か――
『仲間を裏切るような“後ろめたいこと”をしている』
その言葉が蘇ると同時に、ヒヨリの胸の奥が鋭く締めつけられた。
同時に、その痛みとともにあの時の光景が鮮明に蘇ってくる。
意識がまるで深い水底へゆっくりと沈んでいくようだった。
そして、気がつけば――。
◇
――森の中――
シシンは無言のまま一歩踏み出した。
鋭い視線が、パオタロとヒカルを捉える。
「パオタロ、ヒカル、俺からも一度だけ確認しておきたい。『ヒヨリに関してお前たちが見てきたことを他言しない』――お前たちは、たったこれだけのことを受け入れられないのか?」
ヒカルは震える拳を握り締め、怒りに染まった瞳でシシンを真正面から睨みつけた。その目には、抑えきれない失望と悲しみが滲んでいる。
「『平和を守る』って、なんだったんだよ!! 結局、仲間を裏切って、後ろめたいことを隠そうってことなのかよ!? それを『たったこれだけのこと』だと? ふざけんのも、いい加減にしろよ!!」
思いがけない後輩たちの言葉に、自分はどこまで行っても孤独な存在なのだと突きつけられた気がした。
――私の味方なんて、本当はどこにもいない……。
“時間を戻す能力”――光属性を宿した者が背負わねばならない宿命。
その宿命からは、決して逃れられない。
ヒヨリはゆっくり息を吐き、すべてを受け入れた――その時だった。
シシンが、静かに語り始めた。
視線を落としたその瞳には、隠しきれない痛みがにじんでいる。
「あれは、去年の――俺たち世代の“属性解放の儀”が終わって間もない頃だ」
ヒヨリは、目を伏せ、静かに聞いていた。
思い出されるのは、みんなから疑われ、嫌われるだけの日々。
けれど、もうどうでもよかった。
とっくの昔からヒヨリは独りぼっちだったし、これからもそうなのだと悟ったからだ。
「……俺は慌てて魔法を解き、水で患部を冷やしたが、すでに皮膚は焼けただれていた。震えるヒヨリの姿に、激しい自責の念と後悔が俺の胸を締め付けた」
“イチニセン”からの襲撃を受け、過去のトラウマを完全に再現した場面に再び戻ったときから、ヒヨリはずっと絶望の淵に独りで立ち続けていた。
――もう誰にも期待しない……。
シシンの声は、波の音のように遠く響くだけだった。
もう、信じることをやめたのだから。
「俺たちは誓った。ヒヨリを守れるほど強くなることを。そして何があってもヒヨリを信じ抜くことを」
シシンの言葉を、簡単に信じてはいけない。
それはきっと、パオタロたちを納得させるためのものでしかないのだから。
――なのに……、今さら、どうして……。
期待なんかしない――そう決めたのに、心の奥がざわつく。
シシンはヒヨリへ静かに視線を向けた。
チョーカーの下に隠された傷を見つめているようだった。
――もうやめて……、私が我慢すればいい……。
それで全部解決するんだから……。
これまでと同じ。これからも独りで戦い続けるだけだ。
ヒヨリは、なんとか自分を納得させようとしたが、目にじわりと涙が浮かぶ。それを必死にこらえようとしても、うまくいかない。
うつむくことでそれを隠すしかなかった。
「あの日ヒヨリは、裏切った俺たちをそれでも必死に守ってくれた。ヒヨリが見せたくないと言うのなら、それで俺は構わない」
ヒヨリはぎゅっと唇を噛んだ。
長い髪に隠されてはいるが、頬を伝う熱い雫までは隠せなかった。
「だが、見えていないだけで、ヒヨリは今でも俺たちのために戦ってくれている。俺は、そう信じている」
――信じたらいけない……信じたくないのに……。
けれど、そんな言葉を聞けば、甘えたくなる。信じてしまいそうになる。
また裏切られたときの痛みを思うと、怖くてたまらないのに……。
「だがなヒヨリ、これだけは言っておくぞ」
――やめて……もう何も聞きたくない……!
自分にしかできないことがある。
決して誰にも言えない秘密もある。
「お前が何を抱えて戦っているのか、俺は知らない。だがお前は独りではない」
――そんなのっ……あるはずないよぉ……! 嘘に決まってるっ……!
ヒヨリの胸が苦しく震える。
それでも、ずっと仲間から疑われ、拒絶されてきた心が必死に抵抗する。
――私に味方がいるはずない。私に味方なんて……。
シシンは静かに息を吸い込んだ。
「俺たち“イチニセン”は、何があってもお前の味方だ」
その言葉を聞いた瞬間、ヒヨリの胸の鼓動だけが、世界中のあらゆる音をかき消して、ただひとつ、くっきりと響いているように感じた。
「ドクン……ドクン……ドクン……」
ヒヨリはゆっくりと、ためらうようにチョーカーに触れる。
指先は震えていた。
――でも……それでも……。
シシンの真っ直ぐで迷いのない瞳がヒヨリを捉えている。
頬を照らす淡い陽の光が、彼の静かな決意を柔らかく浮かび上がらせている。
そんなシシンの覚悟は、ヒヨリの脳裏にある一つの疑問をよぎらせた。
――もし……それが、嘘じゃなかったら……?
一瞬、時が止まったような感覚を覚えた。
直後、張り詰めていた心の奥で、何かが音を立てて砕けた。それまで消えていた全ての音が一斉に戻り、抑え込んでいた感情がついに堪えきれず叫びを上げる。
――私……本当は……もう独りぼっちはいやだよぉ……。
それは、胸の奥で幼い頃からずっと押し殺してきた泣き声だった。
シシンの言葉が、凍りついていた心の奥に静かに広がっていくのを感じた。
必死に拒もうとしても、その温かさはじわじわと心に染み込んでいく。
やがてヒヨリは、小さく頷いた。
「……ありがとう、シシン君」
ヒヨリは、かすれた小さな声で、そう言った。
頬を伝う涙は止まる気配もない。けれど、胸の奥がこんなにも温かく満たされていることに、ヒヨリ自身が驚いていた。
気付けば、口元が緩んでいる。
優しい風が、ヒヨリの髪を静かになびかせていた。




