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第18話:消えない匂い

 猫がいなくなると、あれだけ賑やかだった独房に再び静寂が訪れた。

 ヒヨリは一人きりになった部屋で、そっと息をつく。


 猫が話し出す前までは、この静けさが当たり前だった。

 けれど今では、その静寂が冷たく、重苦しいものに感じられる。


 このまま黙秘を続ければ、待っているのはきっと死刑だ。

 法廷では、グロリア修道院にいた者たちの素性や人数が不明だとされていたが、ヒヨリにはすべてがはっきりと見えている。彼らは間違いなく、ガブリエウと連動したテロリストだった。

 被害者の親族が一切名乗り出ない理由も、テロリストの関係者だと知られることを恐れているからに違いない。


 真実を明かせば、状況は変わるかもしれない。だが、それを明かせば、自分に『時間を巻き戻す能力』があることが知られてしまう。

 そうなれば、さらに恐ろしい事態を引き起こす可能性がある。

 そもそもこの巻き戻された世界ではガブリエウは何もしていない。この事実の前で、自分の言葉がどれだけの意味を持つというのだろう。


 考えれば考えるほど心は深い闇へと沈んでいった。


 それでも、口の中にはまだ甘い味がほんのりと残っている。

 その余韻だけが、深い闇に沈みかけたヒヨリの心を、かろうじて引き戻してくれている気がした。


 さっきまでうたた寝をしていたせいだろうか。まだ眠れそうにない。

 ふと見上げると、小さな窓から夜空が見えた。


 そこには、満月がぽつんと浮かんでいた。


 深い闇に囲まれ、どこまでも遠く、独りぼっちで輝いている月。

 誰にも触れられず、誰にも寄り添われることなく、ただ空に浮かんでいるだけ――。


「あなたも、私と同じだね……」


 ヒヨリは小さく呟き、その孤独な姿に自分自身を重ね合わせた。

 胸の奥深くにしまい込んでいた、苦く冷たい記憶が、月の淡い光に照らされてゆっくりと浮かび上がってくる。


 澄んだ夜空をじっと見つめながら、ヒヨリの心は静かに、遠い過去の記憶を辿り始めていた。



――昔の記憶――


「ヒヨリちゃん、未来のことわかるんだって!」

「そんなの嘘だー。だって大人もわからないんだよ?」

「ゾクセーカイホーしないと、凄い魔法は使えないって先生が言ってた」

「あっ! オレ良いこと思いついた!! じゃあさ……」


 子供とは、時に残酷だ。

 虫の羽をむしったり、小動物を痛めつけたりして、それを無邪気に楽しむ。


「そーれっ!!」

「きゃっ!」


 ……ザッバーン!!


 冷たい音とともに、堆肥に使う糞尿が蓄えられた“肥溜め”にヒヨリが落ちた。

 ぬめりのある濁った液体が、全身を瞬時に飲み込む。猛烈な悪臭が鼻を突き、呼吸すらままならない。口から漏れ出た悲鳴も、その異臭に飲まれてか細く途切れた。


「ほら、やっぱり未来が見えるって嘘だったんだっ! 作戦大成功ー!!」

「ほんとだ、アハハハ!!!」

「ミロ君すごい、アハハハ!!!」


 ミロたちは『未来がわかる』とヒヨリが言ったのを試す遊びとして、この計画を思いついたのだ。もし本当に未来が見えるのなら、肥溜めに落ちるなんてありえない――それが彼らの単純で無邪気な考えだった。


「うぇーん、、うぇーん、、グスン……、なんでこんなことするのぉ……」


 ヒヨリの体には、糞尿の悪臭と汚れがまとわりつき、髪からも汚水が滴っている。指先には泥と糞尿がこびりつき、それを払うことすらできなかった。体中が震え、嗚咽を漏らしても、ミロたちの嘲笑は止まらなかった。


「アハハ!! うーそつき! うーそつき! うーそつき!」

「あーくっせ!! 嘘つきクサクサお化けだ~、みんな逃げろー」

「クサいのがうつっちゃう~、アハハハ!!!」


 これまで何度も、ヒヨリはこうした“遊び”の標的にされてきた。そして、それが止むことはなかった。ヒヨリの泣き声は次第に小さくなり、心の中に諦めが広がっていった。


 ――もう、こんな世界、いらない……。


 ヒヨリはそう心の中で呟くと、“肥溜め”から這い上がることもなく、静かに目を閉じ、小さく息を吐いた。

 そして、何度もそうしてきたように――再び過去へと時間を巻き戻した。


 しかし、ヒヨリは、時間を巻き戻した世界で、ミロたちに未来がわかると言いに行くことは、もうしなかった。


 ――偶然‘肥溜め’に落ちなかっただけって言われるだけだもん……


 これまでの経験から、どれだけ説明しても、ミロたちの“遊び”が形を変えて続くだけだと、ヒヨリは理解していた。幼いヒヨリには「未来がわかる」ことを証明する術はなく、「時間を戻せる」という自分の能力の本質さえ理解できなかった。


 しかも、時間を戻せば周囲の状況は変えられても、自分の体にまとわりついた汚れや悪臭だけはそのまま残った。それはまるで、自分が受けた心の傷だけは消えないことを象徴しているようだった。


 糞尿まみれの自分がそこにいる現実は変わらない。

 ヒヨリは誰にも見つからないように体を丁寧に洗い、新しい服に着替えた。


「なんか、変な匂いしない?」

「ヒヨリからじゃない? あいつ、いつもなんか変だし!」

「ほんとだ、クサッ!」


 しかし、染み付いた匂いは消えなかった。

 必死に洗い流しても、ミロたちの嘲笑がまるで残り香のようにヒヨリを追い詰めた。


「だから、あいつは、いっつも独りぼっちなんだよ」

「いっつもヒヨリぼっち?」

「ハハ! ヒーヨリぼっち! ヒーヨリぼっち!」


 その夜、ヒヨリは声を押し殺して泣いた。

 膝を抱えて小さく丸まり、誰にも聞こえないように必死で嗚咽をこらえ続ける。ヒヨリの悲しみが外に漏れることはなく、小さな体を震わせながら、ただ静かに涙を流した。


 やがてヒヨリは傷ついた心をひとりで抱えたまま、孤独な日々を生きていくしかなくなった。ミロたちと距離を置き、自然と彼らがいる場所を避けるようになった。

 他の子供たちと遊んでいても、心のどこかで孤独を感じる。いつも薄い膜一枚、自分と周囲が隔てられているような感覚だった。誰かに能力を打ち明けることもなくなり、注目されないように、記憶にも残らないように、息をひそめて生きるようになった。


 幼い頃のこうした経験は、ヒヨリの心に深い傷を残した。

 その傷は、糞尿の匂いとは異なり、どれだけ時間が経っても癒えることはなかった。

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