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第17話:一匹の猫

 それは、一匹の猫だった。

 縞模様の入った灰色の毛並みが薄明かりに照らされ、瞳がまるで宝石のように輝いている。


「ネコちゃん、また来てくれたのね……」


 その猫は、ヒヨリが留置所に入ってからというもの、毎晩のように現れる。

 最初こそ、猫にも反応を示さなかったヒヨリだったが、数日もしないうちにその存在に癒され、今では唯一の話し相手のような存在になっていた。


「今日はね、裁判だったんだぁ……。ッフフ、私、このままだと死刑になっちゃうんだって……」


 ヒヨリは自嘲気味に笑い、猫の宝石のような瞳を覗き込む。

 その声は独房の冷たい静寂に溶け、胸の奥にかすかな痛みを残した。


「あー、ネコちゃんは自由でいいな~」


 ふと、ヒヨリは視線を天井に移した。薄暗い天井の向こうから、ぼんやりと、ある記憶の断片が降りてくる。それは彼女をこの独房へと導くきっかけとなった記憶だった――。



――ある記憶――


 玉座の間に入ると、目の前に広がる光景に、ヒヨリは言葉を失った。

 そこには、広い床に散らばる甲種・二期生たちの無残な肉片、崩れるように横たわるパオタロの亡骸、そしてその亡骸の上には、虚ろな目をしたヒカルの頭部が転がっていた。


 絶望的な光景を前に、全身の力が一気に抜け落ち、視界がわずかに揺れる。

 ヒヨリの顔は青白さを増し、目の下には濃い影が浮かび上がった。瞳には疲労と憂鬱がにじみ、体が自然と震え出すのを感じた。


 ふらふらと二人の元へ歩み寄ったヒヨリは、そっとしゃがみ込んだ。

 震える手でパオタロの亡骸に触れ、ヒカルの頭に優しく手を置く。その指先は冷たく、無力さだけがそこに宿っている。


「……そっかぁ……エヘヘ……」


 自然と笑みが漏れた。その笑いは悲しみよりも、自分の無力さや、何度繰り返しても結局何も救えない現実への嘲笑だった。


 掠れた声が喉の奥から絞り出されるように漏れる。


「二人とも、最後までよく頑張ったね……」


 ヒヨリの頬を涙が静かに伝い落ちる。その涙に気づくこともないまま、肩がかすかに震えていた。


「はぁ……、私のせいで……ほんと、ごめんね……」


 唇を噛み締め、ヒヨリは深く息を吐き出す。その吐息は、広大な玉座の間に溶け込むように消えた。


「次は……絶対に……絶対に……助けるから……」


 だがその誓いすら、もはや誰に届いているのか分からない。

 記憶の境界が溶け始め、自分が誰で、何のためにここにいるのかさえ曖昧になっていく。


「私だけが我慢すればいいんだよぉ……」


 嗚咽まじりの声は、弱々しく震え、空虚な玉座の間に吸い込まれていく。


「私だけが我慢すれば……私だけが……私だけが……」


 まるで壊れたレコードのように、狂気じみた声が虚ろに繰り返される。

 言葉を重ねるたびに、ヒヨリの瞳から光が少しずつ失われていった。


「そっかぁ……、テロが起こる前にぜ~んぶ壊れちゃえばいいんだよぉ……」


 そして、ついにヒヨリの瞳からは完全に光が消え去った。

 その後のことは覚えていない。


 次に気づいたときには、グロリア修道院の上空で右手をかざしていた。

 上空に大量の岩石が現れ、それらは炎に包まれてグロリア修道院に向けて隕石のように降り注いだ。


 眼下には、地獄絵図のような光景が広がっていた。


 しばらくの間、グロリア修道院からは断末魔の叫びが次々と響いていた。やがて、グロリア修道院の全体を火が包み込むと、その叫びは消えていった。

 その代わり、街の方から集まった多くの野次馬たちが騒ぎ始めていた。初級魔法を使って、水で鎮火させようとする者や、土壁で延焼を食い止めようとする者などもいた。


 ヒヨリは無表情のまま、上空からただそれらを静かに見つめていた。



 ふと我に返ると、独房の冷たい空気がヒヨリの肌に触れていた。

 目の前には、じっとこちらを見上げる猫の姿がある。


「パオタロ君たちは、元気にやってると思う? 」


 猫は何も言わず、ただその瞳をまっすぐにヒヨリへ向けている。

 話し相手とはいえ、猫である。当然、返事なんてあるはずがない。


「“ボクたちの王血部隊から去るべきなのですぅ!”ッフフ、何回思い出しても、あれ好きだなぁ~、私っ! 」


 ヒヨリは微かに笑みを浮かべながら、言葉を紡ぐ。

 猫はキョトンとした表情を浮かべたまま、じっとヒヨリの様子を見つめていた。


「でも、あれってパオタロ君じゃなくてヒカル君の言葉だったっけ……? まぁ、いっかぁ~。私にも、こんなに楽しい時間があったんだぁ……」


 独房の薄暗い空間の中で、ヒヨリはふと笑顔を見せた。

 その瞬間だった。


「やっと笑ったね」

「……っ!?」


 その声にヒヨリは思わず硬直し、声が喉に詰まった。

 猫が喋ったという現実が理解できず、何が起こったのか頭がついていかない。驚きと恐怖が入り混じった瞳で、ただ目の前の猫を凝視した。


 猫はそんなヒヨリの動揺を気にも留めず、平然と尻尾を揺らしている。


「いや、驚かせてごめん」


 猫はどこ吹く風といった様子で、どこか楽しげに言葉を続けた。


「君のことが心配で、ずっと猫の姿で様子を見に来てたんだよ。でもどうだい、この姿。少しは癒されたでしょ?」


 猫はのびのびと体を伸ばし、優雅に立ち上がると、右前足を曲げ、まるで人間が猫の真似をするときのように手首を折り曲げてみせた。

 その仕草にはどこか茶目っ気が漂っていたが、ヒヨリの瞳は警戒で鋭く光る。猫の姿になれる魔法なんて聞いたこともない。


「……誰……なの」


「しがない街の便利屋さ」


 猫は軽く肩をすくめるような仕草を見せ、悪びれることもなく言葉を続けた。


「君を元気付けて欲しいって、君の弁護士さんから依頼されたんだよ。目的はただそれだけ。だから、そんなに警戒しなくても大丈夫」


 ヒヨリは何も答えず、じっと猫を睨み続ける。


「ハハ、やっぱり黙っちゃうんだね。君って本当に困った子だ」


 猫は笑うと、ふと思いついたように足元を軽く叩いた。


「そうだ、ちょっと待ってて」


 そう言うと、猫は軽やかな足取りで独房を抜け出していった。

 ヒヨリが呆然とその背中を見送ると、しばらくして猫は何かを抱えて戻ってきた。


「ほら、看守室からこっそり持ってきたよ。早く食べちゃいなよ。君が怒られる前にね!」


 猫が差し出したのは、箱入りのクッキーだった。小さな体に不釣り合いなその箱を器用に抱えて、得意げな様子でヒヨリに差し出している。

 ヒヨリは硬直したようにそれを見つめ、困惑の表情を浮かべた。


「……こ、こんなこと……困りますっ!」


 ヒヨリは慌てて声を上げた。

 これ以上問題を起こせば、本当に立場がなくなる――そう思うだけで心臓が縮みあがる。


 しかし猫は全く気にする様子もなく、平然と毛づくろいをしている。

 このままでは自分が盗んだと思われてしまう。その焦りがヒヨリを急かす。


「もぉ……!!」


 観念したようにヒヨリはクッキーを手に取り、渋々口に運んだ。

 甘さが舌の上に広がる。久しぶりに味わう砂糖の甘みが、冷えた心にじわじわと染み込んでいくのを感じる。

 猫はちらっとその様子を見ると、満足げに笑みを浮かべた。


「クッキーの箱はボクが処分しておいてあげるから安心してね」


 ヒヨリはクッキーを食べながら、ちらりと猫を睨む。完全にペースを握られていることが気に入らない。

 しかし、心の奥に広がる温かさを止めることはできなかった。独房の冷たさと孤独感を、甘い味がそっと溶かしていく。

 猫は小さく伸びをすると、気軽な調子で言った。


「甘いものは疲れたときに効くでしょ? ところで、君はここにもう10日間も拘束されているわけだけど、外のことで何か知りたいことはない? 便利屋のボクが、特別サービスで無料で調べてきてあげるよ」


 猫の明るい声が独房の中に軽やかに響く。

 しかし、ヒヨリは答えず、小さく視線をそらすだけだった。


「……」


 ヒヨリは黙り込むことで小さな抵抗を示す。


「特にないのなら、今日のところは帰ろっかな」


 猫はわざとらしく肩をすくめる仕草を見せると、鉄格子をすり抜けて出口へ向かおうとする。その軽やかな足取りが、ヒヨリの胸の奥にじわりと焦燥感を広げた。


「……待って」


 ヒヨリは膝を抱え込むようにして、小さく声を出す。

 意を決したように顔を上げ、その瞳で猫を真っ直ぐに見つめた。


「王血部隊・甲種クラスの様子……、特に二期生の子たちは無事なんだよねっ?」


 ヒヨリの問いかけに、猫は一瞬だけ目を細めると、すぐに満足げな笑みを浮かべた。


「りょーかいっ!」


 そう言って、猫は足元に転がっていたクッキーの箱を器用に拾い上げる。

 その動作はどこか堂々としていて、まるで小さな体でこの世界を自由に動かせるとでも言いたげだった。


「あ、そうだ」


 猫は、ふと思い出したようにヒヨリを見る。


「僕からも一つだけ質問しておきたいんだけど、いいかい?」


 その言葉に、ヒヨリはわずかに身を強張らせた。

 答えをためらう沈黙が広がり、その場の空気をわずかに冷やす。


「いや、大したことじゃないよ」


 猫は軽く笑いながら続けた。


「今、君にとって最も信用できる人は誰なのかを知っておきたいと思って」


 ヒヨリの脳裏に、ガスポールの顔が浮かんだ。

 だがその瞬間、喉の奥がきゅっと縮こまり、体の芯が冷えるような感覚に襲われる。

 まるで、心が強く拒むように。


 ――違う……!


 ヒヨリは息を詰めるように考えた。

 しかし、ガスポールを除くと、誰の顔も浮かばなかった。


 胸の奥に、ぽっかりとした穴が広がっていく――そんな感覚。

 言葉が出ない。


 気付けば、視線は足元へ落ちていた。


 猫は、そんなヒヨリの様子をじっと見つめる。

 やがて、顎の下に手を添えると――。


「ふーん……」


 わずかに思案するような素振りを見せた後、猫は言った。


「ま、心配しなくてもいるハズだよ。ほら、僕とかね!」


 ヒヨリは眉をしかめる。

 それが彼女の答えだった。


「ハハっ! じゃあ、また明日ね!」


 軽やかな声を残し、猫は鉄格子の外へと向かう。

 歩き慣れた足取りで、何の迷いもなく。


 ヒヨリは、その背中をじっと見つめていた。

 そして、何かを思い立ったように口を開く。


「明日は……」


 小さな声だった。


 猫は、そのかすかな声に気づいて足を止める。

 ヒヨリのほうから言葉が発せられたことに驚いたが、それを表に出さず、何事もなかったかのように振り返った。


「ん、なんだい?」


 ヒヨリは続けることができず、戸惑いながら唇を軽く噛み締めた。

 わずかにためらいを見せるように視線を逸らす。


 口を開こうとするたびにためらいが生まれ、胸が苦しくなる。それでも、口の中に残ったクッキーの甘みが、心の奥にしまっていた小さな欲望を引き出していた。


 猫は、穏やかな目で、そんなヒヨリの様子を見守っている。

 やがて、ヒヨリは少しためらいながらも、猫をまっすぐに見た。


「明日は……ケーキを持ってきて……!」


 その言葉を聞いた瞬間、猫は目を丸くした。

 ヒヨリは恥ずかしそうに顔を両ひざに埋め、自分でも驚くほど大胆なお願いを口にしてしまったことに動揺していた。


 その言葉を聞いた猫は、ほんの一瞬、考えるように沈黙した後――

 にやりと笑った。


「デカいやつな!」


 その軽快な声に、ヒヨリはわずかに頬を染めながら、口元を緩めた。


 猫は、独房を出ていった。

 扉の外へと消えていく小さな背中は、不思議と頼もしさを感じさせるものだった。


 静寂が戻る。


 ヒヨリは、手の中に残った最後のクッキーをじっと見つめた。

 少し欠けたその形が、今の自分を映しているような気がする。


 そっと口に運ぶ。

 甘い味が舌の上に広がり、胸の奥へじんわりと染み込んでいった。

第17話までお読みいただき、ありがとうございます!


今回は、独房に閉じ込められたヒヨリと不思議な猫との交流、そして彼女が抱える深い苦しみを描きました。

ほんの少しの甘い時間が、ヒヨリにどう影響していくのか。引き続き、彼女の物語を見守っていただければ嬉しいです。


これからも応援よろしくお願いいたします!

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