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【ショート・ショート】刺青男と笑顔の湯けむり

作者: 藤城

男子更衣室には、湯上がりらしき三人の男がバスタオルで身体を拭いていた。


時刻は22時10分。22時半までに掃除を終わらせることを目標に、浩介は洗面台脇に置かれているモップを手にとった。


「刺青の方、お断り」と書かれたポスターの前では40代後半くらいの男性が身体を拭いていた。


その背中には、左肩甲骨を覆うようなサイズの湿布。


透けて見えるのは、青あざのようだ。


一体、何をすればあんなに大きな青あざになるのだろう。じろじろ見るのは良くないけれど、なんとなく気になってしまう。


さりげなく観察しながら床の水滴を拭く作業を続けていると、欲場の出入り口が勢いよく空き、子供が2人から楽しげな様子で脱衣所に戻ってきた。


「裕太、走るな」


裕太と呼ばれた小学生低学年くらいの男の子は、身体からしたたる水滴にかまうことなく、ニコニコしながらと湿布の男の方向にかけていく。足拭きマットで水を落としてから後を追うのは、お兄ちゃんだろう。


「騒ぐな」


湿布の男が静かだが重みのある声でたしなめると、裕太君はピタッと身体を止め、湿布の男に手渡されたタオルで身体を拭き始めた。


兄と思われる男の子は、無言で父と弟の元ににたどり着き、黙々と身体を拭いている。


脱衣所に緊張感が漂い始めたのは、騒ぎたい盛りの男の子たちが黙々と身体を拭いているからだろうか。


湿布の男は、両手を長袖Tシャツに腕を通し、長男と思われる男の子に背を向けた。


「大喜、これ」


大喜君は無言で小さく頷き、男の背中に貼られた大きな湿布を、丁寧かつ素早く剥がした。


現れたのは、青あざではなかった。


湿布の下から現れたのは拳サイズの刺青。


予想していなかった光景に無意識に呼吸が止まる。


ほかほか温泉に努めてもうすぐ3年になるが、刺青を見たのはこれが初めてだ。


男はあらかじめ腕を通していた長袖Tシャツにさっと身を包み、刺青は一瞬のうちに隠れてしまった。


背に背負うような大袈裟なものではないが、隠し方や家族の醸し出す雰囲気がただファッションではないことを物語る。


暴力団だろうか。


もし反社会的組織に属する人間だったなら…。


もしそうだとすると、年の割にがたいが良いことも納得がいく。


店員として対応すべきか。考えるだけでもゾッとする。


しかしすでに彼は温泉から出て行こうとしているわけで、現時点で問題は発生していない。対応することで逆に問題を引き起こす可能性もあるだろう。


背筋が寒くなるのを感じながらも視線をそらせない。見てはいけないと思いながらも、硬直しきった身体が言うことを聞かない。


早く目をそらさなければ、そう思うほど視線は湿布の男に吸い寄せられる。


ついに湿布の男と目が合った。


湿布の男は眉間にしわを寄せ、こちらに身体を向けた。


「何みとんねん」今にも怒声とともに、胸ぐらを掴まれそうな予感が頭をかすめる。


やや無理やりに目を逸らし、逃げ込むように洗面台に向かった。


意識を無理矢理にでもそらせようと、黙々と作業に集中しようとするのだが、ここを選んだのは失敗だった。


目の前には、脱衣所全体が視界に入る大鏡。避けようにも湿布の男が視界に入ってしまう。


浴場にいるのは、自分と刺青の家族。その他には、常連のおじいさん1人と、50〜60歳くらいのあまり見慣れない中年のおじさんが1人。2人とも黙々と着替えている。


万が一が起きたとしても、助けに入ってくれることは期待できない。


手前に写る自分の顔からは、色が失われている。


息を潜めるように水回りを拭いていると、視界の端で湿布の男が動いた。周辺視野ながら男がだんだんと、自分の背に迫ってくるのがわかる。


あと3歩。あと2歩。1歩。


ついに湿布の男が自分の背後に立った時、浴場の出入口がが音を立ててあき、騒がしい声が流れてきた。


頭に響くような笑い声。


鏡の中の住人が、一斉に若い5人組に目を向ける。


湿布の男も若い衆に意識を向けた。


人目が増えたからだろうか、湿布の男は眉間にしわを寄せたまま、自分が掃除している洗面台の隣に腰を下ろし、ドライヤーを手に取った。


普段はやっかいなお客様ではあるのだが、今日に限ってはありがたい。鳴り止まない心臓を落ち着けるように、大喜は大きく息を吐いた。



「刺青の男がいる」


年太りの男性からクレームを申し立てられたのは、バイトの谷口千紗と閉店準備を進めていたときだった。


男はカウンターに身を乗り出し、声を潜めた。


「最初見たから、やばい奴だって思ってたんだ。おっきな絆創膏が背中にあってよう。なーんか怪しいなぁって思ってたら。刺青だよ刺青」


男の表情はどこか嬉々としていて、なぜだが小学校の頃のいじめっ子を彷彿とさせる。


「背中いっぱいにおっかない刺青があったのよ。あんなの来られちゃ。安心して湯につかれないよ。他のお客さんもみんなおびえてた。なぁ、あんたも見たろ?」


よく見ると、さっき湿布の男が着替えていたときにいた中年男だ。どうやら自分のほかにも刺青が目に入った人がいたらしい。


お酒は入ってなさそうだが、やっかいそうな客に共通する独特の雰囲気を持っている。


千紗ちゃんは「どうしよう?」と心配そうな視線を自分に向けている。


背中いっぱいに刺青があったと言うのは明らかな嘘で、発言は信用に値しない。しかし、自分も見てしまった以上、刺青があったのは事実と認めざるを得ない。


今のところ問題を起こしている訳ではないとはいえ、こうして見つかってしまった以上、入浴を断ざるをえない。


結局、中年の男の主張をまとめ、対応について検討すると伝え、帰宅を促した。



社内検討の結果、話は入店を拒否する方向でまとまった。


問題は、二つある。


一つはどのように伝えるかだ。


下手な伝え方をして、暴力沙汰になるのは考えたくない。


そしてもう一つの問題は、自分がそれを伝える役割になったことだ。


伝えるタイミングは次回来店時。社内情報によると、毎週水曜便の21時頃に来店されるらしい。つまり今から2時間後には、刺青の男と向き合わなければならない。


一大事が控えていることもあり、今日一日は仕事に身が入らなかった。


頭なかでは最悪のケースが次々と生成され、感情が波打っている。


ほとんどは恐怖だが、一方で、おとなしくお風呂を楽しんでいる家族から、至福の時間を奪わざるを得ないことへの罪悪感も感じている。


幸い子供たちまで出禁にするという判断にはならなかったが、あの親の元に生まれたせいで、自分の意思にかかわらず一生不自由を強いられることを思うと、やるせない気持ちになってしまう。


確かに刺青は怖い。けれど、湿布で隠している限りは青あざにしか見えない。暴れ叫ぶ大学生や嘔吐物をまき散らす飲んだくれと比べると、個人的にはマシだとさえ思えてしまう。


それでも結局は自業自得ということなのだろう。


もし何かあったときは、見守るスタッフが警察を数に呼べるように待機してくれている。今はもう、何も起こらないことを信じるのみだ。


あと1時間。ヤキモキしながら待っていると、中年男が入店してきた。


「例のあれ。出禁にしたんか」


言葉に反して楽しげな様子の男に、思わず心がざわついた。


「いえ、あれからまだご来店されていないので」


「そうか。じゃあ、もし今日来たら頼むで、ほんまに。安心してゆっくりもできへんからな」


中年男は大型テレビ配置されている待合室に向かうと、フロントが見える位置のソファーを陣取った。


ドアベルが鳴り、問題の家族が入店したのは、午後21時05分だった。


スタッフに緊張が走る。


つばを飲み込み、浅くなる呼吸を整える。


スタッフに目配せをし、フロントを離れようとしたとき、例の中年男性の薄ら笑いが目に入った。


なぜかわからないが悔しい気持ちが胸を閉める。ふぅと大きく息を吐き、自分は男の前に向き合った。


「すみません、少しお話が」


眉をゆがめる刺青の男。


しかし、声を掛けた以上、引き下がることはできない。



ことの顛末を伝えると、男はバツが悪そうに「見つかっちゃったか。迷惑かけてごめんな」と頭をかいた。


怒鳴られる、殴られる。そういった最悪のケースを想像していただけに、湿布の男の反応には正直気が抜けた。


「すみません。」


「兄ちゃんが謝ることじゃないわな。こっちの問題や。子どもらは、問題ないけ? あいつらには入ってない」


やっぱり子供たち二人は、この男の子供だったのだ。問題ないことを伝えると、男はほっとした様子で感謝を口にした。


「いやー、あいつらの少ない楽しみやったからな。助かるわ。ありがとう。ほな、あいつらに言うてくるわな」


湿布の男は、堂々とした足並みで控え室を出て、子供たちに状況の説明を行った。


弟の方はどうやら、少しごねた様子だったが、湿布の男は「車におるから」と兄に伝え、そくさくと受付を後にした。



あの日以降、温泉に訪れるのは、兄と弟だけになっていた。


来る日時に変化はないものの、入浴時間は少し短くなったようだ。そして、元々静かに入浴を楽しんでくれていた兄弟ではあるものの、その背中はどこか寂しさを感じさせるものだった。


告げ口をした中年の男は、たびたびフロントにやってきては、「兄弟も出禁にすべきだ」と従業員と問答を繰り返している。


正直、あの兄弟よりもこの中年男性のほうがスタッフとして対応に困るのだが、何もしていない以上、入店を拒否するわけにもいかない。


湿布の男が再びやってきたのは、それから3ヶ月後のことだった。


珍しく兄弟の後ろについてきた湿布の男は、二人を先に上に上がらせると、自分のところにやってきた。


「にいちゃん。ちょっといいか?」


周囲を見渡し、湿布の男は声を潜める。


「消したんやが入れるか?」


消した。何をだろう。


疑問が顔に浮かんだのか、湿布の男はすぐに補足した。


「刺青。消してきた。ちょっと入っていいか、見てくれんか」



前回と同じ部屋には入ると、湿布の男は勢いよくTシャツを脱ぎ、背中を見せた。


きれいさっぱりとは言わないまでも、刺青は姿を消していた。


湿布の男に聞いた話によると、どうしても温泉に入りたい思いが強かったことから、手術して刺青を消してきたらしい。


「これなら、見た目は大丈夫なように見えますけど・・・」


だが、それだけで入店を許可することはできない。


なぜなら刺青が忌避されるのは、反社会的組織の人間の疑いがあるからだ。未成年であれば100歩ゆずって見逃すことはできるが、成人となればそうは言えない。


ただ、お風呂が大好きなこの男を問答無用で排斥するのは、中年男性の言いなりのようでイヤだった。。


「なんで… なんで刺青を入れたんですか」


意を決して、気になっていたことを口にした。


すると湿布の男は恥ずかしそうに、過去のことを語り始めた。



湿布の男こと波島章吾さんによると、刺青を入れたのは今から30年以上前のようだ。


当時中学生だった彼は、情熱を注いでいた野球で再起不能の怪我に見舞われた。


やさぐれたわけではなかったが、暇を持て余していたところを革ジャンの男に声をかけられた。


革ジャンの男は、自分も暇をしていたのか、ただ新品のバイクを自慢する相手を探していたのかはわからない。


「バイク乗ってみるか?」と言われた波島さんは、当時目新しかった中型バイクの背に乗せてもらった。


風を切るように早く、爽快な走りを刷るバイクは心地よく、その日から何度かバイクの背に乗せてもらう関係が続いた。


その革ジャンの男が暴走族に属していたことを知ったのは、それから1ヶ月以上たった頃だった。


街中を快走しているところを、暴走族の幹部に見つかった。


なにやら革ジャンの男と幹部たちが少々もめているようだったけれど、暴走族は波島さんを仲間にすることに決めたようだった。


波島さんは、バイク仲間くらいにしか思っていなかったが、彼らが暴走族のだと気がついた頃には、引き返せないところまで来ていたらしい。


結局、仲間の誓いとして刺青を掘られ、今日に至るというわけだ。


元々野球以外に興味のなかった波島さんにとって、暴走族になることに大きなデメリットは感じていなかったらしい。


唯一、刺青を掘ったことを後悔したのは、銭湯や温泉に入れなくなったことだという。


脱退してからは何度も、刺青を消すことを考えたものの、掘ったときの痛さをまた味わうのかと思うと、決心がつかなかったらしい。


とくに最近では湿布で隠せるようになったことから、申し訳なさも感じつつ、それに甘えていたと言っていた。


それが今回の一件で、決心が着いたそうだ。


波島さんに聞いた話を、上層部にあげたところ、入浴の許可が下り、今では親子3人で、以前より少し楽しそうにお風呂を楽しんでいる。


これで一件落着。心にひっかかっていたとげが抜けた。残る問題は後1つだ。



「なんで、あの男がいるんだ!!!」


振り返るとフロントで例の中年の男が、千紗ちゃんに怒声を浴びせていた。待合室の掃除を中断してフロントに戻り、千紗ちゃんの代わりに要件を伺う。


「お客様、どうされましたか」


「どうってお前、刺青や。前に出禁にしろっていったやろが!子供も入っとるし、どうなっとんねん、この風呂屋わ」


そっと静まりかえる待合室。


緊張した空気が流れる。おそらく、5分ほど前に子供と2階に上がっていった波島さんを見たのだろう。


「刺青の男ですか」


「とぼけんのもええ加減にせぇや」


中年の男がフロントの壁を思い切りよく蹴りつけた。


「あんな輩がおったら、ゆっくりできへん言うてんねん。良いから出禁にしてこいや」


男は眉間にシワを寄せる、テーブルを指でコツコツとたたいている。


「おい、はよせい。今や、ちょうどええやんけ」


威勢の良かった中年男が突然声を潜めた


男が指を指す方向に目をやると、ちょうど波島さんと弟の裕太君が階段を降りてきているところだった。


「ほい、自分で言うてみぃ」


裕太君はもじもじしながら「バスタオルを借りたい」と千紗ちゃんに伝えた。波島さんは裕太君の頭をなで、裕太君は照れと達成感の両方が入り交じったような良い表情をしている。


良い親子だな。という暖かい気持ちは、目の前の男の粘着質な声に上書きされた。


「あの男や。はよせい」


先ほどまでと打って変わって小声になった中年男だが、いらだちは隠せない。


「あちらの男性が刺青の男性ですか」


そう言うと、中年男は目を見開き、「声がでかい」と声を潜めた。


「しかし事実確認をしなければ、対応しようがありませんので」


ちらっと波島の方を伺うと、波島は状況を察知した様子で、自らこちらにやってきた。


「自分がどうしたんですか」


「こちらの男性が刺青の男性がいらっしゃるとおっしゃっていまして」


中年男はなおも沈黙を貫いている。


「こちらの男性のどのあたりに、刺青をごらんになりましたか?」


男はフロントの机に視線を向けたまま「背中の左肩のあたり」とつぶやいた。


「失礼ですが、見せていただくことはできますでしょうか」


待合周辺にいるお客さんの視線が、一斉にフロントに集まる。


波島さんはTシャツ乗せ中側を脱ぎ、背中があらわになった。もちろん、刺青はすでにない。


「あざと見られるものはありますが・・・ 刺青は見当たりません」


「そんな馬鹿な」


うろたえる中年男を尻目に、波島さんにお礼を告げる。


「お客様、ご協力ありがとうございました。服を着ていただいて大丈夫です」


そしてもう一つ、言っておかなければならない。


「それから、フロントで大声を出されますと他のお客様のご迷惑になってしまいます。またフロントを蹴られるといった行為は、容認しかねます。今後も続くようであれば、対応を検討しなければならないことだけご承知ください」


中年男はふらふらした足取りで、風呂に入ることなく、ほかほか温泉を後にした。



後日、中年男はこの辺の温泉で窃盗屋迷惑行為を繰り返している人物だと言うことがわかった。


ほかほか温泉でも、洗面所の綿棒の現象スピードが速くなっており、問題視されていた。ただ、脱衣所に防犯カメラを置くわけには行かず、手を焼いていたところだったのだ。


もちろん、中年男が犯人だと決まったわけではない。しかしあれ以降、綿棒の減少スピードは通常のペースに戻った。


それからもう2つ。温泉には小さな変化が起きた。


まず一つ目は、波島さんたちが来る頻度が増えたこと。本人によると、後ろめたさから来る頻度をセーブしていたのがこの前の一件で、心のブレーキが軽くなったそうだ。


そしてもう一つは、男子風呂の風紀がよくなったと聞くことが増えた。例えば、シャワースペースの風呂桶や椅子は、乱雑に散らばっていたのが常だったのだが、最近は片付けられている。


噂によると、あの日の事件に偶然居合わせたお客さんが、「元刺青のヒーローがいる」と温泉内でうれしげに話回っていたそうだ。



 ※noteとエブリスタにも投稿しています。

https://note.com/fujishiro_262/n/n3aad87d6e10d


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― 新着の感想 ―
[一言] 実は先週末行った温泉で刺青の方がいて、タイムリー……! と読ませて頂きました。 いつも刺青の方は温泉や銭湯に入れなくて大変だな……と思っていたのですが、通常は家族風呂とかに入るみたいですね(…
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