俺と弓、碧と侍
「落ちる……!?」
カーテンが閉じられた薄暗い自室で、目が覚めた。
時刻はまだ四時とちょっと。自転車で行くとしても、学校に行くにはまだ早い。出るとしても六時過ぎ。ホームルームが始まるのが八時五十分だから、それに間に合うようにすれば問題ない。
「ゆ、夢か……」
ジェットコースターに乗って、回転しているといきなり席のロックが外れて地面に真っ逆さま――なんて悪夢を見た俺が飛び起きると、尻尾が巻き付いている事に気が付く。
「百足様……?」
「ん……」
妙に艶めかしい声と共に起き上がった尻尾の彼女は、寝惚け眼でこちらを見た。
「おはよう。早いのね……」
「あー、はい。なんか変な夢を見て、目が醒めちゃいまして」
なんで学校の屋上にいたのに、気付けばジェットコースターに乗っているなんて突拍子もない夢を見るんですかねぇ……
「そう……ねぇ碧暮」
「なんですか」
いつもの超然とした雰囲気が鳴りを潜めている百足様が、口を開いた。
「私のものなのだから、いなくならないでね?」
「いや、あなたが離れる事があればそうかもですけど、そうそうないでしょうよ」
寿命で死ぬまできっと彼女は憑いてくるのだろう。彼女はそういう人? だから、俺に飽きない限り憑いてくる。むむ? それだと俺はずっと独身になるわけか。……まぁいいか。俗的になるけど、百足様って美人だし。誰にも見えてないって思えば競争率とか関係ないし……って、なんでそんな事を考えているんだ。
寝起きで悪夢を見たからなのか、不埒な考えが浮かぶ。顔を洗ってさっさと完全に覚醒させて雑念を払ってしまおう。
「二度寝、してしまいましょうか」
そう思っていたのに、百足様が悪魔的で魅力的な提案をしてきた。
「弁当を詰める時間がなくなるのでお止めください、眠ってしまいます」
「コンビニがあるじゃない」
確かにコンビニなら千円あれば色々買えるが、バイトの許可が下りていない高校一年生には厳しい。千円は貴重なのである。しかも通学中に買うからできるだけ手早く買わないとならないというのは、メニューを見て五分は迷う俺にとって遅刻の要因になるのだ。休日ならいい。だが、平日、平日の登校日にコンビニへと赴くのはダメだ。誘惑が多すぎる。
「私、あれが食べたいわ。フルーツサンド?」
「作った方が早いし量が食べられますよ?」
「分かってないわね。買って食べるのと作って食べるのじゃ全く違うのよ?」
いやまぁ、それは分かるけどさ。それよりも尻尾から解放してください、ベッドから抜け出せません。
「二度寝するなら解放してあげるけど?」
「それはきっと解放とは言わないと思うんですよぉおお!?」
二本の尻尾で引き寄せられ、ベッドに沈められる。おお、暖かい……この暖かさに包まれて寝てしまおうか……いや、寝てはいけない。
「きっと気持ちがいいわよ? ほら、こんなに暖かくて、寝るのに最適なベッドから出ちゃうの?」
「囁かないでください、覚悟が揺らぐ」
起きねばならない。起きないといけないのに、彼女の囁き声と背中を優しく叩いてくるという行動が俺の睡魔を呼び寄せてくる。ああ、いけません百足様、眠くなってしまいます。
「寝ちゃいましょう? 登校時間には起こしてあげるから」
その言葉に止めを刺され、俺の意識は夢の中へと消えた。
この後、遅刻ギリギリになったのは言うまでもない。二度寝、ダメ、絶対。
* * *
梅雨が近付いてくるのを感じる陰鬱な五月中旬。百足様からの二度寝の提案による誘惑に負け、遅刻しかけた放課後。妖怪研究会の部室で俺は先週買った『上級者のお菓子作り』というレシピ本をパラパラと捲っていた。
「あ、今の美味しそうね」
「どれです?」
「その四ページ前のふわふわしてそうなケーキよ」
俺の後ろから覗いていた百足様が言っていた四ページ前。そこには作る手順において俺の敵が存在するスイーツ、シフォンケーキの作り方が。
「今度これ作ってくれない?」
「えー……」
甘いものに目がない百足様の要求に渋い顔を見せる。メレンゲを作るまではいい、電動ホイッパーを使えばすぐに作れるからな。だが、その後のメレンゲの泡をできるだけ潰さないように、粉類と合わせてさっくりと混ぜるという工程が気に食わない。なんだよさっくり混ぜるって。ざっくりでもなく、さっくりってなんだよ。何がどうしたらさっくりになるんだよ。
「チーズケーキじゃダメですか?」
「あれも美味しいけど、ダメ。あなたが四苦八苦してるところ、久しぶりに見たいわ」
妖しい笑みを浮かべて囁いてくる。たまにこうして俺を困らせようとしてくる彼女を嗜虐神とでも呼んでやろうかと思っていると、部室のドアが勢いよく開け放たれた。
「お疲れ! 元気!?」
溢れ出る元気を振り撒いて現れたのは、この妖怪研究会の部室の主、柊先輩。花雲農業高校一の変人であると専ら噂の彼女に会釈する。
「お疲れ様です、柊先輩。先輩ほどではないですけど、元気です」
「元気がいいわね、あの子。まだ夏じゃないのに、夏みたい」
褒めているのか、貶しているのか分からない百足様の言葉を聞きながら、シフォンケーキの材料を確認する。必要なのは卵、砂糖、小麦粉、油。ベーキングパウダーを使わないだと……あのなんでも膨らませる伝家の宝刀ベーキングパウダーを使わないだと……? ホットケーキミックスでいいじゃないかというツッコミはなしだ。
「碧暮君、何読んでるの?」
「これです」
「お菓子作り……碧暮君お菓子作るんだ!?」
俺がそういうことをするのが意外だったのか、柊先輩は心底驚いたといった風に声を上げた。まぁ、三白眼、ある程度しか整えられていない頭髪、左頬から首まで伸びるムカデのような痣――俺の見た目が完全に不良のそれだから、柊先輩の描く妖怪の姿と同じくギャップが強すぎたのだろう。百足様とテツバミは名は体を表すというのを体現していた姿だったが。
「あんまり、外を出歩きたい人種ではなかったんで、自然とこういうのが趣味に」
「へぇ……百足様に会う前から?」
彼女の問いかけに頷きで肯定する。そもそも、あまり外に出たくない主義の人間なのだ。暑い日には涼しい場所でゲームをしていたい、寒い日には暖かい場所でゴロゴロしていたいと思う人間が俺である。
「あれ? ということは、裁縫も?」
「裁ち鋏で手を切ったことがありまして……ちょっと苦手意識があります」
「うわぁ、聞いただけで痛い……!」
縫うようなくらいではなかったが、凄く痛かった覚えがある。止血と言って百足様が食いちぎるんじゃないかと思う勢いで食い付いてきたことを思い出して、二度とあんな怪我をして堪るかと心の中で誓っていると、柊先輩が手を上げた。
「はい、碧暮君! 私、今度友達と学校で小さなお茶会するんだけど!」
「うーん、予想がしやすくて凄く嫌な予感」
「お菓子作って! 簡単なやつでいいから!」
柊先輩の口から予想通りの言葉が飛び出す。変人の友達……一体どんな人なのだろうか? 柊先輩に負けず劣らずのとてつもない変人なのか、それとも――
「ああ、その子、普通の人だから安心していいよ!」
「ああ、それなら安心です。先輩が二人になったとかじゃなくて、安心しました」
「遠慮がないね!?」
「ゴールデンウィークのほぼ全てを、柊先輩に振り回されたことは忘れません。ごろごろする時間を奪った罪は重い……」
「でも楽しかったでしょ?」
「はい」
ゴールデンウィーク初日の明朝、「遠野に行くよ」、とどうやって調べたのか、タクシーで俺の自宅までやって来た彼女に荷物を詰め込まれ、あれよあれよと遠野旅行をする羽目になり、ごろごろする予定を全て破棄されたという事件があったのだ。俺の体質を信じてくれた事に加えて、そんなことがあれば、遠慮なんてものはなくなるというもの。
不機嫌モードと化した百足様を宥めるのにも時間を要したのだから、これくらいの無遠慮さは許してほしい。
「そもそも、なんで俺の家知ってたんですか?」
「ほら、君の昔話と出身中学校。そこから予想した」
「探偵か何かですか?」
誇らしげに胸を張っている彼女の答えに困惑する俺そっちのけで、柊先輩は話を切り替える。
「それでは今日の活動に移りたいと思います!」
「うっす。今日は何です?」
前回の怪奇現象は、テツバミという獏のようなナマモノによる金属鈍事件だったが、お次はなんだろうか。物騒な者じゃなければいいが。
「じゃあ、怪奇現象が起こっている弓道場に行こうか」
「弓道場?」
この学校の敷地内に小さな弓道場があったが、あんなところでも怪奇現象が起こっているらしい。……そういえば入学式で武士みたいな妖怪を見かけたような……?
「十中八九あの妖怪でしょうね」
「……やっぱり?」
「ええ、お酒を飲んでいたあの妖怪でしょう」
百足様の確信めいた言葉に溜息を吐く。あの妖怪、熱血っぽくて俺の苦手意識センサーがアラートを掻き鳴らしていた。
「頑固者だったら、どうするかなぁ」
「お? もしかして弓道場の怪奇現象の原因に会ったことあるの?」
俺の愚痴を耳にした柊先輩が反応する。
「えっと、入学式で酒盛りやってた妖怪連中がいるって話はしましたよね?」
「うん、聞いたよ。それがどうかした?」
「その酒盛りしてた妖怪の中に武士みたいな妖怪がいまして」
恐らくその妖怪が怪奇現象の原因なんじゃないか、という推測……というか百足様の確信を話すと、柊先輩が思案顔を浮かべた。
「武士? ならこの学校の伝承にある、あの武士かな? でも……?」
何かを呟いている柊先輩に首を傾げながら教室を出る。
湿り気のある風が、頬を撫でた。