おいでませ、妖怪研究会1
「桜の花も満開を迎え、鳥のさえずり――」
体育館の窓から差し込む陽光を浴びながら、俺は新入生の席で壇上にいる校長らしき人物の言葉をぼんやりと聞いていた。入学式とかの式典はどうしてこうも眠くなるんだろうか……どっかの偉い人達が解明してくれないか。もしかしたらもう解明されているかもしれないけど。
「長いわね。人間の儀式というのは本当に面倒」
俺のそんな思いに同意するような女性の声が耳朶を震わせる。噛み殺した欠伸による涙で滲ませる俺以外の誰にも聞こえない声の主は、心底つまらなそうに真っ赤な瞳を細めてムカデのような尾を揺らす。
「頼むから大人しくしてください百足様」
誰にも聞こえない程に小さい声で、何年も一緒に過ごしてきた彼女に呟く。
「誰も見えてないのだからいいでしょう?」
俺が懇願すると百足様は、尻尾を揺らしながら節々にある柔らかい触手のようなものを俺に掠めるようにして笑みを浮かべた。
「それでもだよ! というか尻尾を掠めてくるのわざですか!?」
「あら、よく分かったわね。くすぐったかった?」
滅茶苦茶くすぐったいです。静かに叫ぶという自分でも驚くくらい器用な行動を取り、目立たないように我慢する。あ、首は止めてください笑いそうになって死んでしまいます。
「我慢しなさい。男の子でしょう?」
「だったらくすぐらないでください!」
理不尽な百足様の攻撃に耐えながら、入学式よ早く終わってくれと祈る。別に神仏に興味があるわけではないが、何かに祈りたくなるのは人の性というものだろうか?
「あ」
不意に、彼女の尻尾が俺の眼鏡に当たってズレる。度が入っているわけではないから視界がぼやけるという事はないが、この眼鏡が外れると、
「ほうほう、今年の新入生は中々多いな!」
視界がぼやけるよりも嫌なものが見える。武士や牛頭の怪物、馬頭の怪物など、視界に飛び込んでくる異形の数々――妖怪と呼ばれるそれらが盃を持って酒を飲んでいる。そんな姿が、眼鏡が外れた片目に飛び込み、それらの楽しそうな声が聞こえてきた。
この現代社会で出版されている数々のファンタジー作品も裸足で逃げるような光景に、表情筋を引きつらせながら眼鏡をかけ直すと、それは見えなくなり、声も聞こえなくなる。
「……百足様?」
「ごめんなさい」
「はぁ……別にいいです。故意じゃないんですよね?」
あれが故意だったら火を噴くほどに怒るが。噴くのは火なのか溶岩なのかはさておき。
「もちろん。その眼鏡があなたとの約束の証なわけだし。不義理はできる限りしないわ」
やらないとは言っていないと変な予防線らしきものを張ってくる彼女に溜め息を零す。あとで眼鏡を固定するものでも買っておくべきだろうか……?
「妖怪の私が言うのもあれだけど……やっぱり苦手?」
「まぁ、苦手ですよ」
妖怪に追いかけ回された忌々しい記憶が蘇り、表情を曇らせる。彼女が妖怪だと知った時に出くわしたあの妖怪みたいなのに襲われたこともあって、苦手は加速した。
「ここの妖怪はちょっと違うみたいよ?」
「何が――って、ちょっと、百足様……?」
突然俺の眼鏡を落とさせた彼女の行動に困惑しながらも眼鏡を拾おうとするが、百足様はそれを許さずに俺の顔を両手で挟み込み、壇上に視線を固定してきた。そこには長話をする校長と、
「酒! 美味しい!」
「人、今年は多いね」
「皆一緒、皆元気?」
酒を飲んでいる幾匹かの妖怪が。見える人間からすれば混沌と化している壇上の光景は、俺の表情を困惑の色一色に染め上げた。
「ほら、面白いでしょう?」
「どこがですか……」
どんちゃん騒ぎをしている彼らに当然周囲の人間は誰も気づかない。混沌を極めたその宴は激しさを増し、妖怪達が舞い踊ったりし始める始末。その光景に酷い頭痛を覚え、頭を抑える。この学校、変な気配もしなかったし、百足様も問題ないって言ってたから入学したのに!
「あ、知らない妖怪。ねぇ、お酒は飲むの?」
二日酔いするタイプのサメ映画を見ている気分になっていると、百足様を見つけた妖怪が声をかけてくる。
「……」
盃を持ってこちらに向かってくるそれに、思わず不機嫌な表情を浮かべていると百足様は俺の首に腕を絡ませてきた。温かい感触が首に伝わり、桔梗の香りと彼女自身の匂い? が鼻腔を擽る。滅茶苦茶いい匂いなのだが、恥ずかしいので止めてほしい。
「遠慮しておくわ。お酒より、今はこの子を見てる方が楽しいから」
「そっか。そっか。じゃあまたね」
あっさりと引き下がり、その妖怪は宴へと戻っていく。どんちゃん騒ぎで踊っている妖怪達のせいなのか飾られた花は揺れているし、耳を澄ましてみれば壇上が軋んでいる。見える俺としては凄く頭を抱えたくなるし、見えない人間からしてみれば恐怖や違和感の対象だ。
「踊ろう! 踊ろう!」
「お祝い! 楽しい!」
ああ、更に混沌としてきている……
「見えてないからって、自分勝手すぎないか……?」
壇上にいる妖怪達の自由過ぎる行動や、首に腕を回してくる百足様など色んな理由で心臓がバクバクと音を立てて百面相を見せている俺を見て、百足様は楽しそうに笑う。
「どうしたの?」
「いや、色んな理由で心臓が痛いです……」
眼鏡をかけ直しながら胸を抑える俺を見て彼女は更に笑みを浮かべ、俺の頭を撫でくり回し始めた。やめてください髪型が変形してしまいます。
「本当に可愛いわね、あなた」
「男に言うべきことではないと思うんです。あと囁かないでくださいくすぐったいです」
「可愛いのは本当よ?」
うーん、凄く不名誉な誉め言葉だ……かっこいいならともかくとして、可愛いと言われるのはちょっとなぁ。細いのは事実だし……鍛えるべきだろうか? アスリート並みとはいかないまでも、もう少し筋肉をつけたいなぁ……
「ダメよ。筋肉がついたら碧暮じゃないわ」
心を読んだように抗議してくる百足様。俺に筋肉がついたら俺じゃなくなるというのは一体……?
「十分体力はあるし、鍛えなくても大丈夫よ? ね?」
頭を撫でながら囁いてくる彼女の攻撃に耐え続ける。妖怪でも百足様は美人なわけで、俺は男なわけで。そんな彼女に耳元で囁かれ続けると脳髄が溶け出しそうになるのだ。何度もやられているというのに、全く耐性が付かないのはどうして?
「新入生、退場。新入生、起立」
「あら、終わったみたいね」
耳攻めに耐え抜いている間に入学式の全項目が終わったらしい。今すぐに逃げてしまいたいという衝動を我慢しながら、新入生退場の列に並ぶ。先生や先輩方の拍手を浴びながら退場し、教室に戻った俺は凝り固まった体を伸ばした。
「あだだだ……」
バキボキと音が鳴る。こんなに鳴るとは予想外。長きに渡る眠くなる入学式の呪縛から解放されたのを祝福しているようだ。
「凄い音ね。私はなったことがないから分からないけど、そういうものなの?」
食べることも寝ることも娯楽の一つでしかない彼女にとって、肩が凝るとかの概念は存在しない。色んな感覚はあるらしいが人間のような不便さはないのだろう。
「まぁ、個人差はあるでしょうけど、そうなんじゃねぇっすかねぇ」
とりあえず今はそんなことを考えている場合じゃない。この新天地での高校生活、いいスタートを切れるか否かが今日決まるのだ。高校で苦楽を共にする友人ができるかできないかで、色々変わってくる。小、中学校友人がいなかった俺にとって、ここからがスタートなわけだが……
「この後どうするよ?」
「ラーメン食いに行こうぜ」
「いいじゃんそれ!」
男子グループが既に形成されている。同じ中学校だったのだろうか? あそこに入っていけるような勇気はない。窓際にいる彼らと廊下側最後列の俺では、精神的距離に併せて物理的距離すらある。
「ライン交換しよ!」
「うん、いいよー」
「その髪留めどこで買ったの?」
「あ、これ? ちょっと遠いけどあそこのショピングモール!」
女子は女子でグループが形成されていた。女子のグループに入っていくつもりはないが、はしゃいでいる彼女らの高音が近くて耳が痛い。ここは動物園の鳥コーナーだったのか? いや、結構な歴史がある農業高校だったはず。
「発情期の獣みたい。ここ、鶏もいるわよね?」
言外にうるさい家畜がいる、みたいな発言をする百足様。笑いそうになりながらも、高校でもぼっち生活が決定した俺は学校内を探索することを決め、教室から出ていく。悲しいことに、誰も引き止めてくれることはなかった。
「えーと、職員室の隣に保健室があって……」
「第二、理科室……? 理科室を二つ用意する必要ってあるのかしら」
廊下を歩きながらどこにどんな教室があるのかを確認していく。職員室を挟んで向こう側には体育館やコンピューター室があり、古めかしい印象があった学校だが、意外と設備が整っている。
「俺達一年と二年生が第二校舎で、三年生は第一校舎……三年生の教室の下に職員室かぁ……悪い事はできないな。するつもりもないけど」
三年生がいる第一校舎二階廊下を歩きながらそんなことを呟く。あ、ここの奥に音楽室があるのか……音楽の授業で移動する時が大変そうだな……んで、三階が物置に成り替わった教室と生徒会室、美術室……
「不便な造りね」
「百足様、それ言っちゃダメなやつだと思います」
俺もそう思うけど、あえて口には出さない。いいところもあるじゃないか。さっきチラッと見た感じ、トイレは綺麗だったし景観も整ってる。少しボロく見えてしまう事を除けば、とても魅力的な学校だと思う。パンフレットには就職率、進学率どちらも百パーセントって書いてたし、そういうサポート面は確実に充実している。これで妖怪が見えなかったら最高だったなぁ。
「散策も終わったところで、さっさと――!?」
三階まで散策し終え、別段面白そうなものもなかったので帰ろうかと思った矢先、誰も使っていないはずの教室のドアが勢いよく開かれ、そこから伸びてきた手に引きずり込まれる。
「……!?」
「ふっふっふ、驚いたようだね一年生君!」
引きずり込まれ尻もちを突き、混乱している俺に下手人は楽しそうな声音で声をかけてきた。その声にも、その容姿にも見覚えがある。確か、入学式でなぜか司会を務めていたセミロングの先輩だ。良識ある活発美少女、というイメージがあったのだが、とんだ悪戯っ子だ。人は見かけによらないというのは本当らしい。
「あー、えーっと……」
「ああ、ごめんごめん! 私は藤宮柊。二年C組で、君の一個上の先輩だよ。————立てる?」
下手人、藤宮先輩は気持ちのいい笑顔で俺に手を伸ばしてくる。確かに俺は線が細いとよく言われるが、そこまでもやしではないんだぞ? まぁ、初対面の人に言っても意味ないだろうから一言断って自力で立ち上がる。
「それで、藤宮先ぱ――」
「柊でいいよ? 名字で呼ばれるの好きじゃないし」
いきなりハードル高いなぁ……
「――ひ、柊先輩はどうしてこんな所に?」
生徒会室にいるならまだしも、使われていない物置教室になぜ。
「それは、私が部長を務める部活の部室がここだからだよ!」
胸を張って俺の疑問に笑顔で応えてくれた藤宮、柊先輩。部室? こんな物置みたいな状態になっている教室が……?
「さて、一年生君、ここで問題です!」
「え? あ、はい」
「私が部長を務めている部活は、何部でしょうか!」
元気よく問題を投げてきた彼女に困惑しながら、彼女が所属している部活が何なのか考える。物置状態の教室でも活動可能で、コストはあまりかからない部活……文芸部なら本などが置いてあるはずだが、本棚はどこにもない。かと言って芸術部でもないだろう。そもそも顔料とかの備品が見当たらないし。
「ボランティア部……なわけないっすよね」
「うん、違うよ。ボランティアは部活でするようなものじゃないでしょ?」
即答された。そもそもこんな変人もとい、不思議な人がボランティア活動をやっているようには見えない……なんて失礼なことを思いながら頭を悩ませていると、彼女の口から時間切れを伝えるような声が。
「はい終了! 答え合わせの時間です!」
テンション高いなぁ……これが陽キャという存在! うっ、眩しい。
「正解は……こちら!」
そう言って彼女が戸棚から取り出したのは、一枚の絵。尻尾が二本ある可愛らしい黒猫、四本腕の武人みたいな異形などの絵。え、ここ芸術部だったの……?
「芸術部、ですか?」
「残念ながら違うよ! ここは、妖怪研究会ですっ!」
……妖怪、なんだって? 研究会? 妖怪を、研究する部活? え、研究できるのあれ。百足様はともかく、あんな化け物を研究できるの?
「あの柊先輩……妖怪研究って……?」
「お? 気になっちゃう? ここでは妖怪について色々考察したり、姿を描いてみたり、この学校で起こっている怪奇現象について調べたりするのです!」
おっと、凄く関わりたくない単語が飛び出てきたぞ? 特に怪奇現象なんて単語が、俺の心を嫌な意味で鷲掴みにしてきた。関わると碌なことが起こらない予感がするので、とっとと退散しよう。
「あ、待って待って! 最後まで聞いていってよー!」
「離してください、関わりたくないです!」
退散しようとした俺の腕を掴んで引っ張ってくる柊先輩。振り払おうとしても解けない。それ以前に俺が引き戻される。力強いなこの先輩!? 俺よりも十センチくらい小さくて、細い体のどこからそんな力が出てくるんだ!?
「入ってよー! 君を見た時からビビッと来てたんだよー!」
「ビビッと来たってなんですか!?」
「ビビッとはビビッとだよ!」
意味が分からねぇ!? 妖怪研究なんてぶっ飛んだことをするつもりはない。どうやって断ろうか。
そう思った矢先、凄まじい力で突き飛ばされるような感覚に襲われ――俺の目の前に、新品の制服を着た黒髪三白眼の男の体があった。首まで伸びるムカデのような痣があるその男の体は間違いなく俺の体。ま、まさか……
「――気が変わった。面白そうな話ね。興味が湧いたわ」
やっぱりか!?
「おお! じゃあ入部する!?」
「ええ、そうさせてもらうわ」
待て待て待て待て。なんで勝手に決めているんだ!? 妖怪とか怪奇現象とかに関わるなんてもう懲り懲りだというのに。百足様だってそれはよく知っているはずなのに、なぜ。
「入学式で君を見た時からビビッと来てたんだー! じゃあ入部届けを書いてね」
どこからか取り出され、渡された紙にすらすらと俺の名前を書いていく。だが残念だったな、こういった書類には判子が必要――いやそういえば筆箱の中に判子が入っている。しかもゴム印じゃない方。こんな事なら判子を入れるんじゃなかった……
「これでいい?」
「……うん、不備はないね。ようこそ妖怪研究会へ! わ、やった! 後輩できた!」
満面の笑みで歓迎してくれる彼女は、「今日は活動がないから」、と口にして走り去って行く。彼女の気配が遠ざかったところで、百足様は俺に体を返してくる。
「うごぇ……何してくれるんですか、百足様……!?」
幽体離脱みたいな状態から戻ってきた俺はすぐに百足様に非難の声を上げた。
「あら、お気に召さなかった?」
「乗っ取られてお気に召すとかどんな性癖だよ!?」
先程感じた突き飛ばされるような感覚は、俺の身体を百足様が乗っ取った時に感じるもので、一度乗っ取られたら彼女が体を返してくれるまで戻れない。乗っ取られたら口調が彼女のものになるし、当然彼女の思考判断になる。しかも乗っ取られた後返にされると、船酔いと車酔いが同時にやってきたような不快感がやってくるのだ。百足様以外の妖怪を見えなくする眼鏡をもらう代わりに出された条件ではあるが……こうなってくるとに非難したくもなってくる。
が、当の本人はどこ吹く風。それどころか楽しそうに微笑んでいる。
「だって面白そうじゃない」
「どこがですか!?」
百足様は時折こういった事をしてくる。興味が湧いた、面白そうなんて理由で俺を巻き込んでくる彼女はまさに妖怪か神様。しかも理不尽な要求はしてこないし、俺が達成できるくらいのもので断りにくい。
「そもそもあの人の子、見えてないわよ?」
「いやまぁ、それは分かってましたけど」
描かれた数枚の絵。猫又はまだ分かるが、こんな武人みたいな妖怪がいたとすれば、もっと奇々怪々な化け物みたいなデザインのはず。そういった手合いに会った事がないから分からないものの、経験上そうなるに違いない。
……それに、あれだけ妖怪について興味を持っているのに、俺の近くにいた百足様に反応しなかった。妖怪が見えていないと分かる決定的な要素だ。
「見えてないのに、妖怪を研究したいだなんて、面白いと思わない?」
「いや全く」
「即答ね」
妖怪に追いかけ回された経験しかない俺としては、全く面白いとは思わない。それを知っているはずの百足様は俺の頭を撫で回してくる。
「なんすか」
「大丈夫よ。悪いようにはならないわ」
優しい姉のような笑みを浮かべながら、何を根拠に言っているのか分からない言葉を俺に投げかけてくる百足様。彼女のこういう発言はどういうわけか的を射ていることが多い。
「その言葉、信じますよ?」
「ええ、どうぞ?」
百足様に撫でられながら物置教室もとい、彼女の酔狂で入部する事になった妖怪研究会の部室から出る。部長が妖怪を見えないから変な事柄に巻き込まれる事はないだろうが、妖怪に絡んでいくようになるのかと思うと溜め息を吐きたくなる。
「あ、そうだ碧暮。帰りにアイスクリーム買いましょう?」
「また? 今度は何味ですか、チョコミント?」
「宇治金時味。中々美味しいのよね、あれ」
大昔は冷たくて甘いものが少なかった影響なのか、彼女の中で現在アイスクリームがブームになっているらしく、週に二、三回はアイスクリームを食べたいと言ってくる。
「いいですけど、腹壊さないでくださいよ?」
妖怪が腹痛を起こすわけがないとはいえ、俺はそんなことを口にした。
「問題ないわ、人間じゃあるまいし。さ、早く行きましょう。お店が閉まっちゃうわ」
「あ、ちょっ、尻尾で引っ張らないでください!?」
まだ二時にもなっていないというのに、尻尾を使って俺を急かしてくる彼女に文句を言いながら、駐輪場へと向かう。幸い誰にも見られることなく学校から出た俺達は、通学路の途中にあるアイスクリームを買って帰宅した。