俺と妖怪
夢を見た。
小さな神社の前で、誰かが泣いている光景。
少しぼやけているが、見えるのは少し苔むした鳥居がある、見覚えがある気がする神社。
そんな場所で女性が、何かを抱えていた。
「……」
抱えられていたのは、安らかな表情を浮かべた青年の亡骸。美しい着物が血濡れになる事も厭わず、赤く染まった青年の髪を撫でている。子供をあやす母親のような手付きで撫で続けていた。
「最期にも立ち会わせてくれないなんて、酷い御子もいたものね」
場面が移り変わり、焼け野原の中心で、彼女は物言わぬ亡骸に苦言した。
ムカデのような四つの尾を生やす彼女の顔に浮かんでいたのは、寂しそうな苦笑。
「だから、生け贄なんて嫌いなのよ」
そしてすぐに表情を曇らせた。
「生け贄なんかで、嫌なものが消えるなんて思っている人間の頭はどうなってるのかしら」
理解できないと言わんばかりに毒を吐く。
抱えられている青年はきっとその女性にとって大切な人だったのだろう。何があったのかは分からないが、それだけははっきりと理解できる。
「疫病も、飢饉も、この子には何も関係がなかった。それなのに、あの村の人間は……恩知らずにもこの子を……」
彼女の尾が怒りを表すように揺れる。尾が触れた場所が、空間ごと捻じ曲がり、鋭い刃物で切り裂かれたように裂けた。
「ねぇ、どうして何も言ってくれなかったの?」
何も言わないと分かっているはずなのに、彼女は青年に問いかけた。
その表情はやんちゃばかりする弟を見守る姉のようにも、我が子を叱る母親のようにも見えた。
「言ってくれれば、私は助けたわ。あなたとあなたの番を守ろうとした。それなのに、どうして、言ってくれなかったの?」
問いかける。無意味だと分かっているのに、彼女は問いかけて、溜め息を吐いた。
「なのにあなたは、自分の子孫が自分と同じ境遇なら、一緒にいてあげてほしい、なんてことしか言わなかったわね」
「自分のことより人のこと。奪う側より与える側に、なんて、自分のことを優先しなさいよ。弱くて、小さくて、脆くて、気付けば消えてしまう、ただの人間の癖に」
「……ああ、碧、私の、私だけの御子だった、可愛い碧……どうして、死んでしまったの?」
涙声が聞える。その声が水の中にいるかのようにぼやけていく。鐘の音と共に、俺の意識は浮き上がっていった。
* * *
「八束、八束! もう放課後だぞ!」
「……うーむ、ムカデ人間……」
「何だ八束、ああいう映画見るのか?」
目覚めた時、突然思い付いた言葉がそれだったから言っただけだ。気にしないでほしいです先生。居眠りしたのはすみません。変な夢を見ました。
進路担当の教師に進路希望の紙が出ていないことを指摘され、居残りを決めていた俺は起き上がると、運動部が外でランニングしていたり、基礎練習をしていたりしていた。ご苦労なことです。
「で、何か目ぼしい高校は見つけたか? 八束の成績ならどこでもやっていけると思うが」
「それを帳消しにするコミュニケーション能力の欠落は、どうすればいいですか」
「友達百人作る勢いで行けばいいさ!」
それができないから質問したんですがねぇ、と渋い顔をしながら白紙の進路調査用紙を眺めていると、机に小人のようなものが見えた。
「人の子、見えてる? 俺達、見えるか?」
「……はぁ……」
溜息を吐き、机で騒いでいる小人数匹払いのけるようにして用紙と筆記用具を回収すると、子供のように甲高く、楽しそうな声で騒ぎながらどこかへと消えていく。これくらいならまだ可愛い方なんだが……この時間帯は嫌なものがやってくる。
「先生、帰っていいすか」
「ん? 進路調査は書けたのか?」
「……書けてないですね」
「そうか……」
どこも琴線に来るようなものがない。普通校は勉強漬けになるのが目に見えているし、工業高校は暑苦しい雰囲気が苦手。だからと言って商業高校はなぁ……商業に直接携わるようなものになるつもりはない。消去法で農業高校なのだが、この学校、農業高校についての資料が全くないのだ。探そうにも探せないため、どうしたもんか。
「先生、進路希望調査ってここから選ばなきゃダメですか?」
「いや、資料にない高校でも構わないぞ。どこだ?」
「農業高校ですね。勉強漬けにはならなそうですし」
それなら工業高校も商業高校もいいだろうが、前述した通り、俺の気質に合っていない。だから農業高校を提案したが、先生は渋い顔をしている。
「どうかしました?」
「いや、市内に農業高校はないと思ってな」
「え、そうなんですか?」
「ああ。市内にあった農業高校は全て廃校してしまったんだ」
なんということだ……進路指導室に資料がなかったのはそのせいか! この学校、なぜか市内の高校の資料は多く保管されているが、市外の高校についての資料が少ないのだ。地元密着型は企業で十分だから市外の学校の資料をくれ。
「とりあえず市外の高校でもいいので、農業高校に行きます」
「そうか! なら、先生も色々調べておく」
進路的な意味で問題児の俺がそう言ったことに安心したのか、進路担当の先生が快活に笑う。……いい先生だよなこの人。問題児であっても生徒一人一人をしっかり見ていて、その進路を実現できるように手伝ってくれる。ありがたい話だ。
「じゃあ、先生、俺帰ります」
「ああ。じゃあまた来週な! 課題はやってくるように!」
先生に頭を下げて、進路相談室を出る。教室を出てすぐ右にある階段を降りて、下駄箱から靴を取り出し外に出る。いつも走って帰るが、そろそろ自転車を用意したほうがいいかもしれないと思いつつ校門を抜けた瞬間、遠くから声が聞こえた。
「今日も鬼ごっこですか、そうですか……!」
「今度こそぉ、捕まえてやるぅうううう……!」
飛来するのは鳥と犬が融合したような姿の異形。巨大故に鈍間ではあるが、捕まったら何をされるか分からないため、全力で逃走を開始した。
* * *
走る、走る、走る、走る。追いかけてくる化け物から逃げるために。
「待てぇぇぇぇ……!」
「嫌に決まってんだろぉおおお!」
遥か彼方から追いかけてくる異形達に悪態を吐く。犬鳥以外にも増えやがって! 毎日そうだが、とんだ厄日だ! 制服には雑木林を駆け抜けてきた影響で突き刺さったりしている小枝や木の葉が。だが、今の俺にそんな事を気にしている余裕がない。
あと数十メートルで辿り着く神社を目指して走り続け、転がっていた小石に躓いて、
「あ――ぐええ!?」
そのままヘッドスライディングをかますように、ボロボロな神社に転がり込んだ。追いかけてきていた異形が諦めたのを確認した俺は、制服に付いた小枝や木の葉、土埃を落として溜め息を吐く。
「くっそ……擦り剥いた……」
ヒリヒリする……切り傷とかよりも擦り傷の方が痛いと思うのは俺だけだろうか。
「手が溶けてないだけましか?」
石段に座り、擦り剥いた手を見て溜め息を吐く。ボロボロの神社ではあるが、ここは妖怪が踏み込んでこようとしない。神社だから、なのだろうか?
「あら、また来たのね」
鈴のような声が聞こえ、振り向くと黒い女性が立っていた。
「何度もすみませんね、百足様」
「別にいいわ。迷惑にはなってないもの」
俺の家から走って五分、学校からは十五分程度で辿り着くボロボロの神社……大百足神社だか社だかの管理をしている、黒絹の着物を着た女性、蝦夷ノ百足姫? だったか? いいところのお嬢様みたいだけど、長いから俺は百足様って呼んでいる。
濡れ羽のように艶めく黒髪を靡かせる彼女がいる神社に近付く妖怪はいない。だからこそここは俺にとってのセーフハウスのような存在なのだ。
「それで、また逃げてきたの?」
「あ、はい。そうですね、はい」
「そう。大変ね、あなたも」
この人も妖怪が見えているらしく、幼い頃に俺がここに迷い込んできた時に言った言い訳をちゃんと受け取って、匿ってくれた人である。あの時の俺はそれが嬉しくて、彼女に泣き付いたことを今でも忘れていない。
「それで、今日はどうするの?」
「親は今日帰ってきませんし、もういっそのことここで一晩過ごそうかなと」
どういうわけかこの神社は年がら年中暖かい。不思議な場所だよなぁ……ボロボロだけど、本当に神様が住んでいる場所だったりするんだろうか。
「ほぼ毎日妖怪に絡まれているようだけど……あなた忌み子だったりするのかしら?」
「年中無休で厄日ではありますね」
生まれてからずっと妖怪と呼ばれる存在を捉える目に苦労させられてきた。妖怪に絡まれたり、追いかけられたり、襲われたり……とにかく苦労が絶えなかった。向こうは俺の都合を無視してやってくるし。
荒みそうになった頃に出会った彼女との交流は、俺の心を癒してくれた。百足様って美人だから、小学生の頃の俺は気恥ずかしくて交流はしていなかったけど。もちろん今ではよく話す。真相はしつこく構ってくる百足様に根負けした俺が彼女と会話をしたり娯楽に興じたりするようになった、というものだが。
「じゃあご飯でも買いに行きましょう。コンビニはどこにあったかしら」
「ちょっと遠いですね。家でなんか作りましょうか」
いいところのお嬢様だからなのか、コンビニや庶民的な料理に興味があるらしい。特にスイーツへの反応は凄まじいのだ。究極の放任主義である俺の家と違って厳しい家……なんだろう、きっと。
「そういえば碧暮、あなた前に紙を置いていったわね」
「えっ……あー、もしかして進路希望調査の……」
「違うわ。学校の紙よ。よく調べてるのね」
ああ、高校について調べるって授業で作った資料か。どこにやったと思えば、お堂の奥にある寝室? に置きっぱなしだったようだ。
「やっと、仮進路先が決まった感じですね」
「そう。あと数年よね? 早いんじゃない?」
「二年ですねぇ。今を合わせなければ、残り一年です。ちなみに俺以外は全員進路先を決めて邁進してるところですね」
実際、周りの人達が進路先を決めて動き出している状況で、俺だけが決まっていないということに危機感はあるんだが、琴線に触れるようなものが見つからないのもまた事実。いっそのことくじで決めようとしたが、先生に怒られたのでその方法を取るのはなしである。
「時間は戻らないから、頑張りなさいな」
「はい。……あ、そういえば百足様はどこの高校に? やっぱり女子高ですか?」
なんとなくではあるが、お嬢様は女子高に入学しているイメージがある。偏見ではあるから異論は認めるぞ。討論する相手が全くいないが。
「私? 私は……まぁ、農業に関する学校にいたわ」
「へぇ……意外です」
農業高校は土で汚れるような実技メインの学校だと思う。黒い着物を着た彼女が、土まみれになっている姿は想像できない……
「そう? 女性であっても農業に携わる人はいると思うけど」
「まぁ、そうなんですけどね? こう、百足様が畑にいるところを想像ができないと言いますか……」
鍬を持って畑を耕す百足様――うん、全く想像ができない。彼女は雅な感じでお茶を飲んでいたり、図書館で本を読んでいたりする文系な感じがする。物静かなお嬢様みたいなイメージが先に来るな。
それにしても進路どうしよう……考えたくないなぁ……仮進路先の農業高校で決定したいところだけど、ちゃんと考えないとやりたいことが決まってもできないし、お先真っ暗というやつになってしまう。
「うーん……よし、考えるのは一度止めた」
「切り替えが早いわね」
「妖怪以外なら切り替えが早いですよ、俺は」
引きずる時は滅茶苦茶引きずるものの、ある程度は切り替えが早いと自負している俺は進路云々を一度考えることを止めて家の鍵を取り出す。家の鍵を鍵穴に差そうとして、首を傾げる。どうして鍵穴が開いている状態の方向にあるのだろう?
「鍵、閉め忘れたのかな?」
両親が帰ってきたわけでもないし、鍵を閉めずに登校してしまったのかもしれない。そう思ってドアに手を掛けると、何かに掴まれた。その腕は人間の腕ではなく、獣の腕に類似している。
「ミィツケタ」
「なぁ――!?」
ドアの向こうから覗く顔はまさに異形。人の顔にぎょろぎょろと蠢く目玉、大きな口と鋭い牙。胴体は影のような靄に包まれ、辛うじて見える部分には骨らしきものが見えた。明らかに人ではなく、怪異、妖怪である。
「旨ソウナ、匂イスル人間、ココデ待チ伏セテイレバ食エル」
「っ! 食われてたまるかこの……!!」
このままでは食われると、本能が警鐘を鳴らす。その警鐘に従って俺を掴んでいる腕を振り解こうとするが、全く動かない。これだから妖怪は! 不味い不味い不味い不味い! 仮に振り解けたとしても、この馬鹿力の妖怪は追いかけてくるだろう。百足様を連れて神社に逃げようにも、追い付かれるのは目に見えている。
「ヒヒッ、無駄ダ。人間ガ振リ解ケルハズガナイダロウ?」
「人間様のことわざを知らねぇらしいなお前! 窮鼠猫を噛むんだよ!」
「無理ダナ! オ前ヲ食ッタラ、次ハソコノ女ダ! 柔ラカクテ旨イダロウナァ」
悔しいが、掴まれた時点で俺の人生は詰んでいる。短い人生だったし、妖怪なんてものが見えるせいで妖怪に襲われて食われて死ぬなんて、最悪な終わり方だ。
「悪くない、なんて思いたい人生だった」
ドアの向こうから出てきた妖怪の口が近付いてきている。短い人生だったと諦めて目を閉じたが、痛みが一向にやってこない。掴まれている腕にも締め付けを感じない。即死したかと思ったが、死んでいるなら考えることだってできないし、息もできないはず。恐る恐る目を開けてみると――――
「ガ、ガ……!? オデノ、腕ガ!?」
「――――こんなに簡単に落ちるなんて、図体に対して強度がないのね」
俺を掴んでいた腕が切り落とされており、百足様が俺を抱えてふわふわと浮いていた。彼女の血のように赤い瞳は四つに増え、見たこともないくらい冷たい笑みを浮かべている。その背にはゆらゆらと動く黒曜石色の尾が生えていた。明らかに人間ではない。
「む、百足様……?」
「ごめんなさいね。私、人間じゃないのよ」
鈍器で思い切り殴られたような感覚に襲われたが、それと同時に違和感を抱く。妖怪に対して感じる不快感というか、嫌なものを彼女から感じないのだ。むしろ、安心感と懐かしさというか、温かいものがこみ上げてくる。
「人間ニ、化ケテイタノカ!」
「あら、ただ単に尾を隠して気配を人間に近付けていただけよ。気付かないなんて、あなた、頭が悪いのね」
「それ、俺もですよね?」
「碧暮はいいのよ。人間だし、気付かなくて当然だわ」
慈愛すら感じさせる笑みで俺を見て撫でてくる百足様。……うん、やっぱり百足様には嫌悪感とか不快感が湧いてこない。怖くない。襲ってくる様子がないから、なのだろうか。
「とりあえず、あの獣、殺しちゃいましょうか」
「あの、妖怪って死ぬもんなんですか?」
「殺せるわよ。私とか、上位の妖怪とか神様とかなら」
凄く信じがたいし、受け入れがたい言葉が聞こえてきた。神様とかいるの? え、本当に? 八百万の神々とかマジでいるんですか百足様。……あ、もしや百足様って――
「あら、分かった?」
俺の思考を読み取ったように問いかけてくる彼女に口を開く。
「まさかとは思いますが、あなた妖怪じゃなくて、神様ですか」
「半分正解。荒神兼妖怪よ」
まさかのハイブリットだった。叫ばなかった自分を褒めたい! そう思っていると、今の今まで黙っていた妖怪が激昂した様子で飛びかかってきた。
「――――!!」
「うっさ……騒音で訴えるぞてめぇ」
百足様がいる影響なのか、恐怖よりも先に文句が口から飛び出す。今までなら青ざめて逃げ出そうとしていたが、これが虎の威を借る狐状態……! 効果は絶大だな。今ならFPSゲームのランク戦でも強気に行けるかもしれない。
「騒がしいわねぇ。黙って死になさいな」
ムカデの尾が目で捉えきれない速度で揺らめき、妖怪の体を細切れにする。もはやひき肉レベルまで粉々だ。なんという早業……! 彼女が手伝ってくれれば、かぼちゃのような固い食べ物も楽々切断できるのでは……?
「私は包丁じゃないわよ」
「ぎゃああああ!?」
この人? 心を読んだと思えば、あの妖怪の血で濡れた尻尾を俺の体に擦り合わせてきやがった! 血はすぐに染み抜きしても取りにくいんだよ!
「制服これしかないんですけど、どうしてくれるんですかぁ!」
「そんなことはどうでもいいわ」
「どうでもいい!? こっちは死活問題なんですけど!」
「人間には見えないからいいじゃない」
「まぁそうですけど!」
正論っちゃ正論だが、妖怪の血で染まった制服を着るなんて気分が悪いし、嫌なものを連れてきそうな気がするんだが。そんなことを言っても彼女は聞く耳を持たない。未だに血が滴る尻尾をそのままにして家に入ろうとする。
「お待ちください! お待ちください百足様! 床が! 家が汚れる! 拭くか洗ってください!」
「拭くものないわよ」
「ああ、そうですね! ちょっと待ってください持ってきますから!」
血濡れの体をリュックに入れていたタオルで拭き取り、急いで洗面所に置いてあるタオルを数枚持ってくる。拭いてもらったらさっさと風呂に入ってもらおう。俺も彼女も血腥いのは嫌だし。
そう考えてタオルを抱えて玄関に戻ると、靴置きまで入ってきている百足様がいた。尻尾から滴る血が靴置きをこれ以上真っ赤に染め上げる前に拭いてもらわなければ。
「百足様! 拭いてください!」
「四本もあるのだけれど」
「俺も手伝いますから!」
タオルを渡して、ゆらゆらと動く尻尾に付着した血を拭き取っていく。というかこの尻尾はどこから出てきているんだろうか? 明らかに背中から生えているが、着物の下から出ているようには見えない。
「百足様、この尻尾、どうなってるんです?」
「ああ、これ? こうなってるのよ」
濡れた羽のように美しい黒髪を持ち上げて見せてきたのは、きめ細かい白磁色の肌とその肌から生えているムカデの胴体に似た尻尾。突然すぎる肌の露出に頭がオーバーヒートを起こし、全身が赤熱する。
「な、なななな……!?」
「背中から尻尾を出すから布が邪魔なのよ。だから――あら、どうしたの? 顔が赤いけど」
酷く楽しそうに微笑む彼女は蠱惑的で、妖艶な雰囲気を纏っていた。揶揄われているのは分かるが、突然女性の、しかも傾国の美女と言えるレベルにいる百足様の肌を見せられたらこうなってしまう。
泡を食ったように慌てる俺を一頻り笑ってから、どこか安心したような表情を見せる百足様。
「――どうかしました?」
「あなた、私を怖がらないのね」
俺が妖怪を苦手にしていることを知る百足様が言いたいことは、なんとなく理解できた。怖がらないし、苦手ですというオーラを前面に出してこないのが疑問に浮かんだのだ。
「いや、俺も分からないんですけどね? 怖くないんですよ。むしろ、百足様と話してると安心すると言いますか」
「……そう」
少しだけ嬉しそうな表情を浮かべた百足様は、拭き終えた尻尾を俺に巻き付ける。触手のような柔らかい部分が首や頬に当たってくすぐったいが、嫌悪感や寒気は来ない。鋭い刃物よりも凄まじい切れ味だった尻尾は柔らかく、温かい。
「ねぇ、私が妖怪を見えなくなるようにできるって言ったら、あなたはそれに応じる?」
「なんですと?」
なんて魅力的な話……! 彼女の言ったことが本当なら、気苦労の絶えない生活から解放されるわけだ。
「で、できるんですか、そんなこと」
「できるわよ。提案できるのは二つね」
二つの中から好きな方を選べるのか。至れり尽くせりである。
「まず一つ目は……これね」
「……えーと、なんですか、それ」
どこからともなく現れたのは、赤縁の眼鏡。眼鏡、なのだが……明らかに普通の眼鏡ではない雰囲気を放っている。
「眼鏡よ」
「いやそれは分かりますよ。なんですかその眼鏡、禍々しい気配がするんですけど!?」
「私、荒神だしね」
「呪われてるじゃないですか!?」
絶対に身に着けたら呪われて外せなくなるタイプの代物だろ! 妖怪が見えなくなるのは素晴らしいことだが、呪われた品を身に着けるようなもの好きではない。
「あの、二つ目は?」
「あなたの目を私が食べることね」
「まさかの物理攻撃!」
え、まさか俺の目玉を抉り取ろうとしてたの、この荒神様。冗談……ではないな。これは本気の声だ。ブルリ、と震えた俺を鏡越しから見る彼女の目は、やる言ったらやるという強い意志があった。
「これくらいしか提示できないけど、どっちがいい? ちなみに目を食べられる方を選んだら、私の声も聞こえなくなるわ」
「え、なんでです?」
「見えないものは聞こえないし、感じないの。そういうものでしょ?」
よく分からないが、百足様が言うんだから本当のことなんだろう。彼女が嘘を吐いたことはない。俺が彼女を人間だと勘違いしたのだって、俺が聞かずにいたせいだし。
「それは、ちょっと嫌ですね。百足様はいい人ですし」
「じゃあ、こっちを選ぶ?」
「そうなりますね。これ、着けたら外れなくなるとかは?」
「ないわ。私以外の妖怪は見えなくなるけど」
それならいい。百足様が見える程度なら問題ない。そう思って眼鏡を受け取り、掛けてみると一瞬世界が歪み、元通りになる。百足様が見えてはいるが、これで眼鏡をかけている間、俺は妖怪が見えないわけだ。ちょっと感動。
「――さて、対価は何にしましょうか?」
「……ですよねぇ」
ギブアンドテイク、というやつだ。美味しい話には裏がある。対価なしで妖怪が見えなくなるなんて上手い話はない。
「見えなくしてもらったんです。何でもいいですよ、痛くないやつなら」
「あら、何でもいいの?」
「……できれば無理のない範囲でお願いします」
「大丈夫よ。そこら辺は弁えてるわ。そうねぇ…………」
口に指を当てて悩む百足様。数十秒の長考の末、思い付いたのか白魚のような肌の手を合わせる。
「私が好きな時に体を使わせて?」
「――つまり、いつでも憑依させろと?」
「平たく言えばそうね。どうかしら、悪くないとは思うけど?」
百足様の考えが分からない。尻尾以外は人の姿を取っているし、人の体について興味があるわけでもなさそうだ。食べ物だって食べられるみたいだから、俺に憑依したってメリットはないはず。
「何も損得の話だけじゃないわ。あなたの描く人間模様を見てみたいと思っただけ」
「えーと……つまり?」
「あなたが死ぬまで一緒にいるっていうことよ」
「ああ、なるほど…………それくらいならいいですよ」
むしろそれだけで妖怪が見えなくなるなら素晴らしい。その提案に頷くと、彼女の表情は喜色に染まり、尻尾で思い切り引き寄せられた。おお、なんと柔らかくて温かい。そして俺の体が滅茶苦茶熱くなってくる。
「じゃあ、これからよろしくね」
「ああ、はい……よろしくお願いします」
笑顔の百足様に挨拶を返し、しばらく視界が交差する。うーん、なんだろう、この気恥ずかしさは。
「あ、そういえば憑依ってどうやってやるんです?」
気恥ずかしさから解放されるべく、そんな質問をすると、百足様の顔に酷く楽しそうな表情が張り付いた。……これ、もしかして結構不味いところを踏み抜いたか?
「知りたい?」
「えーと、まぁ、知りたいですけど、今じゃなくてもいいかなぁって」
「遠慮しなくていいわ。簡単だもの。痛みもないから」
おっと、これは……うん、確実に踏み抜いたな! ソシャゲでスキルのリチャージが終わっていない状態で、ボスのトリガー踏み抜いた時と同じような、ヒヤリとする感覚! この距離ならバリアは張れないどころか、バリアごとぶち破られる気配がする。
「本当に簡単よ? あなたの精神を弾き出して、私がその体に入るだけだから」
「簡単とは」
精神を弾いて体に入る。言葉に表すとそれだけだが、確実にそれだけで済むようなものではないだろう。イタコみたいなものを強制させるわけなのだから。
「あなたの体に害はないわ。…………多分」
「多分!? 多分ってなんですか――って、動けねぇ!」
「はい、暴れないの」
あー! いけません百足様! お止めください百足様!
百足様のご乱心があったものの、百足様と一緒に生活するようになるのかと思えば楽しみに思える。
「さて、私を楽しませなさいね、碧暮?」
ただ、たまに出てくる無茶振りはお止めください。いつの間にか顔から首にかけて現れたムカデのような痣ができていることに驚きながら、頭を掻いた。